史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

亀山 Ⅲ

2020年08月22日 | 三重県

(亀山中学校)

 

藩校明倫舎跡

 

 亀山中学校の前に藩校明倫舎跡碑が建てられている。亀山藩校明倫舎は、第四代藩主石川総博が天明二年(1785)に開設したもので、明治二年(1869)には明倫館と改称されて、明治四年(1871)まで続いた。

 

(善導寺)

 

善導寺

 

柴田右仲の墓

 

 善導寺には、朱子学者柴田右仲の墓がある。柴田右仲(1770~1836)は、亀山藩主石川家に仕え、藩校明倫舎の学頭に任じられた。

 

(宗英寺)

 四月に緊急事態宣言が発せられて以来、すっかり都外の史跡から遠のいている。ほぼ半年振りに出張の機会を得たので、私費で前泊して亀山周辺の史跡を訪ねた。九州や東北に豪雨をもたらした梅雨は異例の長さで、七月末というのにまだ梅雨明け宣言が出されていない。この日は雨こそ降らなかったが、異様に湿度の高い一日であった。

 最初の訪問地は、宗英寺である。四時半に起床してホテルから歩いて十五分程度で行き着く。到着したころにちょうど日の出を迎えた。

 

宗英寺

 

 宗英寺の門前には樹齢約六百年といわれるイチョウの巨木が屹立している。幹の周りは約八メートル、樹高約四十メートルという巨樹で、樹勢はいまも旺盛である。幕末明治という激動の時代、街道を行き交う人々をこのイチョウの樹が見下ろしていたのであろう。まさに歴史の生き証人である。

 

宗英寺のイチョウ

 

山嵜雪柳軒之墓

 

 宗英寺には山崎雪柳軒の墓がある。

 山崎雪柳軒は、伊庭是水軒の起こした心形刀流を修めて帰郷し、亀山に道場を開いた。心形刀流は藩の流儀となり、今も亀山に継承されている。

 

 伊庭八郎の「従西日記」によれば、元治元年(1864)六月、京都での任務を終えた伊庭八郎は実弟三郎を伴って関から亀山に入っている。三郎が病気にかかったこともあり、亀山には八日も逗留している。亀山では山崎雪柳軒(日記では利右衛門)が頻繁に八郎の宿を訪ねていて、食事や菓子の差し入れや医者の世話までしている。雪柳軒にしてみれば、心形刀流の宗家の後継者であり、江戸で世話になった伊庭秀業の実子であり、秀俊の養子という重要人物なのである。非常に手厚くもてなしたことが見てとれる。

 

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