(小野古江渡)
雲出川は、伊勢国・大和国の境にそびえる高見山地の三峰山(標高1235メートル)に源を発し、伊勢湾へと注ぐ、櫛田川・宮川と並ぶ三重県下三大河川の一つである。大河であるために、南北朝時代には南朝方と北朝方の境界でもあり、軍事上の問題から橋がかけられず、各所に渡し場が設けられた。その一つが、かつてこの地にあった「小野古江渡(おののふるえのわたり)」である。この地は、伊勢街道に沿っているため、全国各地からの伊勢参りの人びとが行き交う交通の要衝であり、慶長十九年(1614)頃までは川越場から人馬によって川越えをしていた。江戸時代に四回おこった「おかげまいり」では、全国各地から多いときには五百万人もの民衆が伊勢参宮のために往来したといわれ、渡し場も宿場として賑わった。明治十三年(1880)には雲出橋が架けられ、地域の生活と文化を結ぶ架け橋となった。現在の雲出橋は、平成十二年(2000)五月に建設されたものである。
松浦武四郎は、伊勢国須川村(現・松阪市小野江町)に生まれた。
小野古江渡趾
常夜燈
(松浦武四郎生誕の家)
松浦武四郎生誕の家
松浦武四郎誕生地
この家は松浦武四郎の実家にあたる建物で、昭和三十七年(1962)に三雲村が史跡に指定したものである。この家の前の道は、伊勢街道であり、南に行けば伊勢神宮、北へ行けば四日市の日永で江戸と京を結ぶ東海道につながり、古くから多くのおかげ参りの旅人が行きかった道である。武四郎十三歳のとき起こった文政のおかげ参りでは、この街道を歩いた旅人は一年に四百~五百万人に上ったとされる。武四郎は街道を往く多くの旅人に刺激を受け、旅を志すようになったといわれる。この屋敷は現在に至るまで増改築が重ねられてきたが、武四郎生誕二百年を迎えた平成三十年(2018)に合わせて整備を進め、明治維新直前に作製された家相図に基づき、主屋、離れの保存修理と土蔵二棟、納屋の補強工事が施された。
(本楽寺)
生家近くの本楽寺は、松浦家の菩提寺である。周囲の道は軽自動車一台がやっと通れるくらいの幅しかなく、非常に神経を使う。できれば生家前の駐車場に車を停めて、歩いて訪問することをお勧めする。
本楽寺
(真覚寺)
文政七年(1824)、七歳の武四郎は、真覚寺の住職、来応和尚から読み書きを習った。来応和尚は、諸国で修業し、霊力を身に付けたといわれる。武四郎の自伝によれば、十二歳の頃、雲出(くもず)村伊倉津村(現・津市雲出伊倉津町)に狐のとりついた娘がいたが、来応和尚がお経を唱えると狐から解き放たれ、稲荷大明神として祀ったところ、大変ご利益があると評判になったという。
真覚寺
来応和尚の墓
真覚寺境内には来応和尚の墓が残されている。
(松浦武四郎記念館)
松浦武四郎記念館
松浦武四郎記念館は、平成六年(1994)の開館以来、松浦武四郎に関する資料の収集保管、調査研究、展示公開、教育普及などの博物館活動を行っている。
松浦武四郎記念館の展示
一畳敷書斎(再現)
全国各地を旅した武四郎は、七十歳を過ぎてこれ以上旅を続けることの困難を悟り、全国の知人に依頼して各地の古社寺から古材を贈ってもらいそれを組み合わせてたった一畳の書斎を自宅に増築した。使用されている木材は、広島の厳島神社、吉野の後醍醐天皇陵の鳥居、嵐山の渡月橋の橋げたなど、北は宮城県から南は宮崎県に及んだ。「一畳敷」と呼ばれるこの書斎は、現在東京三鷹市の国際基督教大学の敷地内に現存しているが、常時公開されているわけではないので、なかなか見ることができない。
多氣志楼
会沢正志斎筆
嘉永七年(1854)、武四郎に頼まれて会沢正志斎が書いたもの。武四郎は、門や入口、客間にかける書を集めて巻物に仕立てているが、佐藤一斎や富岡鉄斎など交流に広さを伺えるものが今に伝えられている。
松浦武四郎像
松浦武四郎像
松浦武四郎歌碑
記念館前に武四郎の歌碑が建てられている。
陸奥の蝦夷の千島を開けとて
神もや我を作り出しけむ
蝦夷地や千島列島を明らかにせよと神が私にこの地に送り出したのだ。蝦夷地調査は神から与えられた使命だという意味。武四郎の覚悟が伝わる歌である。
(射和)
竹川家
松阪市射和(いざわ)は、今も昔の雰囲気を残す街である。その一角に竹川竹斎の生家が残されている。
竹川竹斎は、文化六年(1823)の生まれ。家は豪商、両替商で江戸、大阪に支店を持っていた。江戸、大阪にあるときは余暇に学んで村の荒廃を憂い、自ら測量術、農土木術等を学んだ。射和、阿波両村を潤す溜池を、私財を擲って完成し、飢饉に備え村人のため米千俵を買うなど両村のために尽くした。嘉永には殖産のため茶園を開き、茶種と桑、楮、松などの苗木を植えた。安政二年(1855)には万古陶器を開設し、また射和文庫を建て一万巻の書物を置き教育の普及に力を尽くした。嘉永四年(1851)「海防護国論」を著わし、勝海舟に意見を寄せ海防思想をのべ、鳥羽藩のため大砲鋳造の献金をした。慶應二年(1866)の開港に反対し、幕府に物価対策として外国米七十万俵の購入を、また大阪・四日市間に航路を開くことを上申した。明治十五年(1882)、年六十で没。
(国分家)
竹川家の向かいに国分家がある。国分家も竹川家と同じく豪商の家で、往時は「亀甲大」印の醤油を営んでいた。
国分家
まだまだ三重県下の史跡を回りたかったが、日も傾いてきたので、この日の史跡探索はここまで。後ろ髪ひかれる思いで三重を後にした。また松阪を歩きたい。
植村様は本当に良い日々をお過ごしですね。それが伝わり私も旅している気分にさせて頂いております。