(明治殿)
今は「福井県」と一括りにされているが、旧国名でいえば「越前」と「若狭」の二つに分かれる。越前は日本海に面した豪雪地帯である。一方の若狭は若狭湾に面し、比較的温暖な地域である。越前の人は語尾を引きずるような、特徴的な福井弁を使うが、若狭地方は関西弁が主流である。越前と若狭の違いは、現代でも明瞭である。現在は北陸トンネルがその境界であるが、それ以前は木ノ芽峠や板取・二ツ屋に関所が設けられ、人や文化の自由な行き来を阻んだ。今に至るまで越前と若狭で風土や文化が異なるのは、この境界の存在を抜きには語れない。
今庄は、幾重にも重なる南条山地に位置し、北陸道の難所として知られた。福井から京や江戸へ行き来する人々が最初に宿泊したのが今庄宿であった。今では名物今庄そばが少し有名な山の中の寒村であるが、往時は越前でもっとも繁栄した宿場町であった。
明治天皇行在所御座所間阯
公家や幕府役人、大名など貴人が宿泊する本陣は、享保三年(1718)に後藤覚右衛門が藩の本陣を仰せつかって以来、後藤家が務めた。後藤家は、福井藩の上領四十三ヵ村の大庄屋として格式も高く、宿場の指導的な地位を占めていた。敷地は間口約十間、奥行き二十七間、建坪は約百坪、部屋数も二十を数え、上段の間(殿様用の座敷)を始め、玄関、御式台、お次の間、お小姓部屋などを備えた広壮な住宅であった。
明治十一年(1878)十月八日、明治天皇の北陸巡幸の際、行在所となったが、その後、後藤家は移住し、邸宅は撤去された。
その後、後藤家宅は荒廃したが、これを憂えた篤志家の田中和吉氏が私財を投じて、旧御座所の間に檜造りの覆いを冠して、明治殿と称する建物を建設し、そこに行在所を再現した。
明治十一年(1878)の巡幸の際、供奉したのは品川弥二郎、徳大寺実則、岩倉具視、大山巌、井上馨、大隈重信、川路利良ら。彼らは近在の宿舎に分宿した。
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行在所
(昭和会館)
田中和吉氏が昭和五年(1930)に脇本陣跡に資材を擲って建設したのが昭和会館である。この建物は、当時としては画期的な鉄筋コンクリート造り三階建てで、社会教育の拠点として建てられた。以来、宿泊のできる研修の場として利用されたが、昭和三十年(1955)から昭和五十年(1975)まで、今庄町役場として使われ、昭和六十二年(1987)以降は今庄地区の公民館となっている。
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昭和会館
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脇本陣
今庄宿の脇本陣は、加賀藩が本陣として利用したため、加賀本陣とも呼ばれた。
(若狭屋)
旅籠屋若狭屋は、今庄宿五十五軒の旅籠屋の中でも規模が大きく、近隣の京藤甚五郎家らと同時期に建てられたものと推定されている。
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若狭屋
(京藤甚五郎家)
京藤甚五郎家は、塗籠の外壁と赤みの強い越前瓦の屋根の上に、卯建(うだつ)が上がっているのが特徴の住宅である。今庄宿は、寛政十一年(1799)と文政元年(1818)の二度にわたり宿の大半が焼失する大火があった。京藤家はその後の天保年間(1830~1844)に再建されたものである。厚い土壁や土戸に周囲が覆われ、燃えやすい木の部分が外に出ないように建てられており、さらに隣家から火が移るのを防ぐ袖卯建のほかに、屋根にも瓦葺き土壁の卯建が設けられるなど、防火を徹底的に追求した構造となっている。
元治元年(1864)、天狗党の一行が宿泊し、当時造り酒屋でもあった当家の酒で風呂を沸かして浴したというエピソードや、彼らが刀傷をつけた柱が残っている。
京藤甚五郎家
天狗党による刀傷
(二ツ屋)
二ツ屋関所跡
二ツ屋宿は、周囲を山に囲まれた地にあり、江戸時代には福井藩領であった。旧北陸道の宿場であり、また今庄宿からの中間宿駅として発達し、馬十二匹が常備されていた。慶長七年(1602)、宿の西方に関所が置かれ、藩士二名と足軽番士二名が警備した。天明七年(1787)時点の家数は四十六戸、うち旅籠五軒、茶屋五軒と記録されている。幕末には京都方面への旅人が多くなり、何かと問屋は多忙を極めた。明治二十六年(1893)の大火で二十数戸が焼失し、さらに明治二十九年(1896)の北陸線開通により街道の宿場の役割は衰え、人口も減少した。現在は、関所跡や制札場跡に木柱が建てられているだけで、人が住んでいる気配は感じられない。
明治天皇行在所
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二ツ屋宿場跡
(板取宿)
今庄宿をあとにした天狗党一行は、木ノ芽峠を進んだ。途中、板取関所を無事通過し、二ツ屋宿で昼食をとり、雪深い狭い道を木ノ芽峠へと急いだ。
板取宿
板取関所跡
(木ノ芽茶屋)
板取宿跡の脇の道を上って行くと、今庄365スキー場の入口にたどり着く。このスキー場の名前の由来は、一年三百六十五日スキーができるということではなく(現にゴールデンウィークはさすがにスキー場の営業はしていない)、国道365号線からアクセスするために名付けられたものらしい。因みに福井県民のソウルフード「8番ラーメン」は国道8号線に因んだものである。実はこの日の夕食は、無性にラーメンが食べたくなって、迷うことなく8番ラーメンを選んだ。
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木ノ芽茶屋
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木ノ芽峠
スキー場の中央を貫く勾配の急な坂を上って行き、突き当りを左に折れるとほどなく木ノ芽峠である。二匹の犬に激しく吠えかかられた。
この峠の通行が重視された戦国時代には、この周辺に木ノ芽城、観音丸、鉢伏城、西光寺丸等が配置されていた。
木ノ芽城跡に約四百年前に建てられたという木造茅葺の平屋がある。関所としての役割を越前藩主結城秀康から仰せつかり、前川家が建てたものである。
元治元年(1864)十二月十一日、天狗党浪士一行はここを通過している。下半身が雪に埋もれ、上半身だけで泳ぐようにして峠にたどりついたといわれる。
早朝、出雲大社を見学して宇龍港に出て、そこから引き返して安来、日吉津、琴浦、鳥取を経由して和田山から舞鶴若狭道路を経て小浜、若狭の史跡を回って、最終目的地である今庄へ。長い一日であった。
今回、福井県の池田、今庄、大野郊外の史跡を回って、筑波山挙兵以来の天狗党の足跡をほぼ踏破することができた。天狗党の西上関係史跡は、茨城県内から栃木県、群馬県、長野県、岐阜県に及び、しかも交通の便が良くない場所が多いため、これを全て回るには相当なエネルギーを要する。初めて筑波山を訪問してから、気が付いたら十七年もの歳月が流れていた。これでようやく一区切りというところだが、実は未だ天狗党関係で行けていない場所が残っている。福井県と岐阜県の県境にある蝿帽子峠である。冬は深い雪に閉ざされる上に、片道三時間以上もかかる難所である。しかも途中、橋のない川を渡らなくてはいけなくて、それなりの装備も必要である。山登りの素人が簡単に挑戦できる場所ではない。どうやって蝿帽子峠行を実現したものか今思案中である。
今は「福井県」と一括りにされているが、旧国名でいえば「越前」と「若狭」の二つに分かれる。越前は日本海に面した豪雪地帯である。一方の若狭は若狭湾に面し、比較的温暖な地域である。越前の人は語尾を引きずるような、特徴的な福井弁を使うが、若狭地方は関西弁が主流である。越前と若狭の違いは、現代でも明瞭である。現在は北陸トンネルがその境界であるが、それ以前は木ノ芽峠や板取・二ツ屋に関所が設けられ、人や文化の自由な行き来を阻んだ。今に至るまで越前と若狭で風土や文化が異なるのは、この境界の存在を抜きには語れない。
今庄は、幾重にも重なる南条山地に位置し、北陸道の難所として知られた。福井から京や江戸へ行き来する人々が最初に宿泊したのが今庄宿であった。今では名物今庄そばが少し有名な山の中の寒村であるが、往時は越前でもっとも繁栄した宿場町であった。
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明治天皇行在所御座所間阯
公家や幕府役人、大名など貴人が宿泊する本陣は、享保三年(1718)に後藤覚右衛門が藩の本陣を仰せつかって以来、後藤家が務めた。後藤家は、福井藩の上領四十三ヵ村の大庄屋として格式も高く、宿場の指導的な地位を占めていた。敷地は間口約十間、奥行き二十七間、建坪は約百坪、部屋数も二十を数え、上段の間(殿様用の座敷)を始め、玄関、御式台、お次の間、お小姓部屋などを備えた広壮な住宅であった。
明治十一年(1878)十月八日、明治天皇の北陸巡幸の際、行在所となったが、その後、後藤家は移住し、邸宅は撤去された。
その後、後藤家宅は荒廃したが、これを憂えた篤志家の田中和吉氏が私財を投じて、旧御座所の間に檜造りの覆いを冠して、明治殿と称する建物を建設し、そこに行在所を再現した。
明治十一年(1878)の巡幸の際、供奉したのは品川弥二郎、徳大寺実則、岩倉具視、大山巌、井上馨、大隈重信、川路利良ら。彼らは近在の宿舎に分宿した。
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行在所
(昭和会館)
田中和吉氏が昭和五年(1930)に脇本陣跡に資材を擲って建設したのが昭和会館である。この建物は、当時としては画期的な鉄筋コンクリート造り三階建てで、社会教育の拠点として建てられた。以来、宿泊のできる研修の場として利用されたが、昭和三十年(1955)から昭和五十年(1975)まで、今庄町役場として使われ、昭和六十二年(1987)以降は今庄地区の公民館となっている。
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昭和会館
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脇本陣
今庄宿の脇本陣は、加賀藩が本陣として利用したため、加賀本陣とも呼ばれた。
(若狭屋)
旅籠屋若狭屋は、今庄宿五十五軒の旅籠屋の中でも規模が大きく、近隣の京藤甚五郎家らと同時期に建てられたものと推定されている。
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若狭屋
(京藤甚五郎家)
京藤甚五郎家は、塗籠の外壁と赤みの強い越前瓦の屋根の上に、卯建(うだつ)が上がっているのが特徴の住宅である。今庄宿は、寛政十一年(1799)と文政元年(1818)の二度にわたり宿の大半が焼失する大火があった。京藤家はその後の天保年間(1830~1844)に再建されたものである。厚い土壁や土戸に周囲が覆われ、燃えやすい木の部分が外に出ないように建てられており、さらに隣家から火が移るのを防ぐ袖卯建のほかに、屋根にも瓦葺き土壁の卯建が設けられるなど、防火を徹底的に追求した構造となっている。
元治元年(1864)、天狗党の一行が宿泊し、当時造り酒屋でもあった当家の酒で風呂を沸かして浴したというエピソードや、彼らが刀傷をつけた柱が残っている。
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京藤甚五郎家
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天狗党による刀傷
(二ツ屋)
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二ツ屋関所跡
二ツ屋宿は、周囲を山に囲まれた地にあり、江戸時代には福井藩領であった。旧北陸道の宿場であり、また今庄宿からの中間宿駅として発達し、馬十二匹が常備されていた。慶長七年(1602)、宿の西方に関所が置かれ、藩士二名と足軽番士二名が警備した。天明七年(1787)時点の家数は四十六戸、うち旅籠五軒、茶屋五軒と記録されている。幕末には京都方面への旅人が多くなり、何かと問屋は多忙を極めた。明治二十六年(1893)の大火で二十数戸が焼失し、さらに明治二十九年(1896)の北陸線開通により街道の宿場の役割は衰え、人口も減少した。現在は、関所跡や制札場跡に木柱が建てられているだけで、人が住んでいる気配は感じられない。
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明治天皇行在所
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二ツ屋宿場跡
(板取宿)
今庄宿をあとにした天狗党一行は、木ノ芽峠を進んだ。途中、板取関所を無事通過し、二ツ屋宿で昼食をとり、雪深い狭い道を木ノ芽峠へと急いだ。
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板取宿
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板取関所跡
(木ノ芽茶屋)
板取宿跡の脇の道を上って行くと、今庄365スキー場の入口にたどり着く。このスキー場の名前の由来は、一年三百六十五日スキーができるということではなく(現にゴールデンウィークはさすがにスキー場の営業はしていない)、国道365号線からアクセスするために名付けられたものらしい。因みに福井県民のソウルフード「8番ラーメン」は国道8号線に因んだものである。実はこの日の夕食は、無性にラーメンが食べたくなって、迷うことなく8番ラーメンを選んだ。
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木ノ芽茶屋
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木ノ芽峠
スキー場の中央を貫く勾配の急な坂を上って行き、突き当りを左に折れるとほどなく木ノ芽峠である。二匹の犬に激しく吠えかかられた。
この峠の通行が重視された戦国時代には、この周辺に木ノ芽城、観音丸、鉢伏城、西光寺丸等が配置されていた。
木ノ芽城跡に約四百年前に建てられたという木造茅葺の平屋がある。関所としての役割を越前藩主結城秀康から仰せつかり、前川家が建てたものである。
元治元年(1864)十二月十一日、天狗党浪士一行はここを通過している。下半身が雪に埋もれ、上半身だけで泳ぐようにして峠にたどりついたといわれる。
早朝、出雲大社を見学して宇龍港に出て、そこから引き返して安来、日吉津、琴浦、鳥取を経由して和田山から舞鶴若狭道路を経て小浜、若狭の史跡を回って、最終目的地である今庄へ。長い一日であった。
今回、福井県の池田、今庄、大野郊外の史跡を回って、筑波山挙兵以来の天狗党の足跡をほぼ踏破することができた。天狗党の西上関係史跡は、茨城県内から栃木県、群馬県、長野県、岐阜県に及び、しかも交通の便が良くない場所が多いため、これを全て回るには相当なエネルギーを要する。初めて筑波山を訪問してから、気が付いたら十七年もの歳月が流れていた。これでようやく一区切りというところだが、実は未だ天狗党関係で行けていない場所が残っている。福井県と岐阜県の県境にある蝿帽子峠である。冬は深い雪に閉ざされる上に、片道三時間以上もかかる難所である。しかも途中、橋のない川を渡らなくてはいけなくて、それなりの装備も必要である。山登りの素人が簡単に挑戦できる場所ではない。どうやって蝿帽子峠行を実現したものか今思案中である。
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