史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

彦根 Ⅴ

2018年10月12日 | 滋賀県
(開国記念館)
 開国記念館は、昭和三十五年(1960)に井伊直弼没後百年を記念して、彦根市民の浄財によって、彦根城の佐和口多聞櫓を再現したものである。以後、直弼を顕彰する展覧会などが催されていたが、昭和五十九年(1984)には一部を改装し、「彦根市民ギャラリー」として使用されることになった。平成十四年(2002)に一旦閉館となり、平成二十年(2008)からは展示施設として再開されるに至っている。要するに今では井伊直弼も開国もあまり関係のない施設である。


開国記念館

(滋賀県護国神社)
 滋賀県護国神社の境内に接して、南側の道路に面した場所に井伊直弼歌碑が建てられている。


滋賀県護国神社


井伊直弼歌碑

 あふみの海 磯うつ浪の いく度か
 御世にこころを くだきぬるかな

 安政七年(1860)正月、井伊直弼は正装姿の自分の肖像を御用絵師狩野永岳に描かせ、この自詠の和歌を書き添えて、井伊家菩提寺の清凉寺に納めた。この歌は、琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように、世のために幾度となく心を砕いてきたと、幕府大老賭して国政に力を尽くしてきた心境を表している。直弼は、この二カ月後の三月三日、江戸城桜田門外にて兇刃に斃れた。

(清涼寺)


中村長平の墓

 中村長平は、天保七年(1836)、近江彦根藩の郷宿油屋に生まれたが、好学の念が強く、嘉永七年(1854)秋、長野主膳の門に入り、深く愛された。主膳が国事に奔走する頃には彼の手足となり、特に彦根産物の売り広めに活動した。文久二年(1862)、藩状一変して、主膳が処刑されて以降、牢内埋骨地の上に地蔵尊を祀り、明治五年(1872)それを天寧寺に移した。明治二十五年(1892)。清凉寺に主膳の墓を建て、また膨大な遺稿、史料の収集と保存、あるいは不遇な遺族縁者の援助にも私財をなげうった。明治以降は平田学派に転向、権少講義となり神道の宣揚に努めた時期もあった。明治三十六年(1903)、年六十八で没。長野主膳の墓を守るように、中村長平の墓が建っている。


宇津木六之丞の墓

 宇津木六之丞は、文化六年(1809)、彦根藩士の家に生まれ、のちに宇津木三右衛門景盈の養嗣子となった。井伊直弼の施政を対外的に補佐したのが長野主膳であり、在内的に助けたのが宇津木六之丞であった。直弼の信任を得て城使、側役を歴任。安政五年(1858)、直弼が大老になると公用人となり、つねに直弼の側近にあって、長野主膳と結んで安政の大獄の采配を振った。彼の記した「公用方秘録」は、日米通商条約調印の経緯や将軍継嗣問題の事情を知る上で貴重な史料となっている。直弼が桜田門外で非命に斃れた後も、跡を継いだ藩主直憲を助けてなお権勢を振ったが、文久二年(1862)八月、藩の情勢が一変し、直弼時代に用いられた人材は全て退けられた。主膳が斬首に処された二カ月後、六之丞も刑場の露と消えた。年五十四。


井伊家代々之墓

 清凉寺は井伊家の菩提寺である。本堂裏手の墓所には、初代直政、三代直澄、五代直通、七代直惟、八代直定、十一代直中、十三代直亮という歴代七藩主の墓に加え、歴代藩主の正室、側室、子息、子女ら一族の墓が並ぶ。
 できれば、十三代直亮(直弼の兄)の墓を特定したかったのだが、墓石の文字が読みにくくはっきり分からなかった。

(蓮華寺)

 蓮華寺には、十七歳で郡上藩凌霜隊長を務めた朝比奈茂吉の墓がある。


無我院殿湖東日清第居士(石黒伝右衛門の墓)

 石黒伝右衛門(明治以降、務と名を改めた)は天保十一年(1840)の生まれ。生後七か月で父を失い、家督を相続した。文久二年(1862)、二十三歳で内目付となり、横浜・堺浦・伏見の警備に当り、慶應三年(1867)十二月、藩が朝命遵奉を決した時は、家老岡本半介に与し、慶喜を新政府に参加せしめよと主張し、軽輩組の無条件遵奉説に敗れた。戊辰戦争に従軍し、同年の藩政改革によって議行局二等執事兼議長、ついで明治二年(1869)八月、彦根藩権少参事、ついで権大参事に進み、激動期の藩政に縦横の活躍ぶりを見せた。のち浜松県、静岡県などに職を奉じ、明治十四年(1881)には福井県令になった。明治三十九年(1906)、年六十七で没。


酔處居士(西村捨三の墓)

 西村捨三は天保十四年(1843)、彦根藩士で作事奉行を務める当時百八十石の家に生まれた。墓石に刻まれる酔處は雅号。十歳で幼君井伊愛麿の伽小僧に召されたが、性奔放不羈、まさに勘当寸前であったが、長野主膳の推挽で江戸留学を命じられ、発奮して文武道に励み、二十三歳で一家を創立、一代限騎馬徒士に登用された。戊辰戦争では母衣役加役、一代限二百石を与えられ、明治二年(1869)には藩庁権大参事に進み、公儀人に選ばれた。のち大阪府知事、農商務次官、北海道炭鉱汽船社長となった。「衣冠の侠客」と呼ばれるほど、先人の顕彰、祭礼の近代化に熱中した。明治四十一年(1908)、年六十六で没。

(広慈院)
 彦根市里根町にある広慈院に、井伊直弼に強い思想的影響を与えたといわれる儒者中川禄郎の墓がある。


広慈院


漁邨先生墓(中川禄郎漁村の墓)

 中川禄郎は寛政八年(1796)の生まれ。諱は韡、雅号は漁村。初め朱子学を学んだが、のち長崎に遊び大いに西洋事情を勉強した。天保十二年(1841)、藩主直亮に召し出されて儒員として登用され、藩校弘道館の教官となった。その学風は、字句の末節に拘泥せず、識は東西に渉った。弘化三年(1846)、直弼が藩の世子となると、その諮問に応えて修身治国の道を記した「蒭堯之言」四巻二十篇を呈した。直弼は終生この書を座右より離さなかった。嘉永六年(1853)、直弼の出府に随従、常に側近にあって主君の諮問に応えた。彼の外国処置に関する見解は、「籌海或問」「籠城退縮を救ふ論」などの諸篇で明らかであるが、直弼が幕府に提出した第二回開国建白書は、中川禄郎の「籌海或問」を骨子としたもので、直弼の思想的背景としての中川の存在の大きさが伺われる。安政元年(1854)、年五十九にて没。

(宗安寺)
 宗安寺の墓地入口に木田餘喜一郎の墓がある。


宗安寺


木田餘喜一郎秀正之墓

 慶應三年(1867)の大政奉還に当り、足軽級武士は宗安寺に集まり新政府支持で結束した。その気勢に上級武士も同意し、やがて彦根藩は官軍として旧幕軍と戦った。彦根藩士木田餘喜一郎は慶應四年(1868)、会津攻めの際、本宮にて戦死した。十八歳。「幕末維新全殉難者名鑑」では本田余喜一郎、没年は二十三とされている。

(鳥居本宿)


鳥居本宿 本陣寺村家跡

 中山道鳥居本(とりいもと)宿は、中山道六十九次(東海道の草津、大津を含む)のうち江戸から数えて六十三番目の宿場町にあたる。天保年間の宿村大概帳によると、鳥居本宿の長さは小野村境から下矢倉村まで十三町(約一・四キロメートル)と記されている。当時の記録によれば、本陣一、脇本陣二、問屋場一、総人口一四四八人、家数は二九三軒で、そのうち旅籠屋が大小合わせて三十五軒あったとされる。本陣は代々寺村家が務めている。


中山道 鳥居本宿

 文久元年(1861)の和宮江戸下向の際には、十月二十三日、鳥居本宿で昼食をとっている。

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