史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「横浜・山手の出来事」 徳岡孝夫著 双葉文庫

2017年04月29日 | 書評
つい先日、横浜外人墓地でカリューの墓を訪ねたところである。傍らの銅板には「妻イーデスによって毒殺された」と解説されているが、詳しく知ろうと思えば、元サンデー毎日記者徳岡孝夫氏の手になる「横浜・山手の出来事」以上の本はないだろう。本書は、平成三年(1991)第44回日本推理作家協会賞受賞作であるが、純然たるノンフィクションである。
事件は明治二十九年(1896)十月、横浜居留地における社交の舞台であったユナイテッド・クラブの支配人ウォルター・レイモンド・ハロウェル・カリューが急死したことに始まる。解剖の結果、カリューの遺体の全ての臓器から砒素が発見された。直ちに検屍裁判が始まった。妻イーデスが丸善やノーマル薬局から砒素を含むファウラー溶液を大量に購入していたこと。夫人は看病のためにカリューにつきっきりで、毒を飲ませるチャンスがあったのは彼女だけであったことから、イーデスに嫌疑が向けられた。
翌年一月から裁判が始まった。毒殺か過失死かという裁判の行く末だけでなく、次々と明るみに出るスキャンダルに居留地の耳目は集まった。イーデスと若い銀行員ディキンソンとの間で交わされた恋文の存在が明らかになる。衆人の前でディキンソンはその恋文を朗読させられる。ディキンソンと一緒になるためにイーデスは夫を毒殺したのか。
さらにアニー・リュークという謎の女の存在。アニー・リュークは、カリューがイーデスと結婚する前に婚約関係にあったとされる。この謎の女が復讐のために横浜に現れ、カリューを殺害したというのか。
カリューの死に不審を抱き、主治医のホィーラー医師に密告したカリュー家の家庭教師(ガヴァネス)メアリー・エスター・ジェイコブが、逆に真犯人として訴追され、ジェイコブとカリューとの仲が疑われることに…。カリューが淋病をやんでいて、その痛みを和らげるために砒素を常用していたことが明らかになるなど、次々とスキャンダルが明らかにされる。因みに、現代の我々にとって砒素といえばとんでもない劇毒物であるが、当時は薬用として認識されていたという。
傍聴席は常に満席であった。最後まで謎は謎のまま、判決の時を迎える。辞退の相次いだ陪審員はわずかに五名。しかも三十分足らずの審議の結果、カリュー夫人に死罪が申し渡された。
本当にカリュー夫人が真犯人とすれば、何故ベルツ医師を呼んで瀕死の夫を救おうとしたのか。やはり謎は残る。筆者がいうように、人間は時として必ずしも合理的な行動をとらない。だから人間は面白いといえるのかもしれない。
五百ページ以上におよぶ本書は、三部から構成される。一部と二部は法廷の場面がほとんどを占める。三部では筆者がイーデスやカリューの出身地であるイギリスを訪ねる。まさに時空を越えた謎解きの旅である。現地の協力者を得て、筆者は当時の裁判では明らかにされなかった新事実やカリュー家・ポーチ家の家系図、カリュー家の家族写真、イーデスや二人の子供のその後等を解明してみせる。筆者は「数え切れないラッキーな偶然の上に成った」と謙遜するが、幾多の幸運を招いたのも筆者の執念のなせる結果であろう。
カリュー夫人の弁護人を務めたのはラウダー弁護士である。ラウダーは万延元年(1860)、十七歳の時、イギリス外務省領事部門の日本語通訳生として来日した。文久二年(1862)にブラウン宣教師の娘、ジュリアと結婚。大阪副領事、兵庫領事代理、新潟領事代理などを歴任し、二十六歳の時、横浜駐在領事に昇任した。明治以降も法律顧問として横浜税関の整備に貢献。横浜税関在任中にアヘン輸入を条約違反として摘発したり、座礁した外国船ノルマルトン号の日本人犠牲者への補償追及に功績があった。
本事件は領事裁判が廃止される直前の事件である(領事裁判権の廃止は明治三十二年(1899)のことである)。ラウダー弁護士は、手練手管を尽くしてイーデスの弁護に尽くした。ラウダーは、我が国の条約改正問題では、領事裁判権の廃止は時期尚早として強硬な反対論者であった。日本人に向かって「君たちにはまだこのような弁護はできないだろう」と主張しているかのようである。
それにしても、当時の領事裁判も決して十分なものではない。もし、彼女が現代の法廷で裁かれていたら、決定的な証拠がないまま無罪とされたであろう。

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