(回天神社・常磐共有墓地つづき)
元治甲子の乱(いわゆる天狗党の乱)がいかに水戸藩の人材を浪費したか。無論全てではないが、常磐共有墓地に葬られている水戸藩の有為の人材を紹介したい。
榊原新左衛門照煦墓
榊原新左衛門は、天保五年(1834)の生まれ。嘉永二年(1849)、養子となって家督を継いだ。安政五年(1858)、大番頭、大寄合頭を経て、文久三年(1863)、執政に挙げられた。元治元年(1864)六月、市川三左衛門らの執政就任に反対して江戸に向かい、その解任に成功した。ついで同年八月、藩主目代として下向する松平頼徳を護衛して水戸へ下ったが、三左衛門らに入城を阻止され、転じて那珂湊に陣して遂に城兵と交戦するに至った。同年八月二十九日、頼徳は陣容を改めて新左衛門を軍事総督に任じた。やがて幕府目付戸田五助の誘引により頼徳は江戸に向かい幕府に陳情することになったが、九月二十六日、那珂湊を去るに臨み、新左衛門を留守総督に任じ、後命を待たせた。しかし、休戦を破られて戦闘は再開された。彼は幕軍と戦うことは本意ではないことと、城中の戸田銀次郎らの勧めもあって、十月二十一日、会合を開き自首を評決した。同月二十三日、千余人を率いて幕軍に降伏し、古賀藩に禁固され、翌慶應元年(1865)、自刃に処された。年三十二。
篠本亀松寛墓
篠本(ささもと)亀松は、天保十年(1839)の生まれ。安政四年(1857)、侍医有隣の養子となり、小十人組に列した。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かったため、下総小金駅に屯集し、八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り転戦。十月、降伏して忍藩に禁固され、慶応四年(1868)二月、赦されて江戸に向かう途中、病死した。年三十。
植原伊平次壽之墓
植原亀五郎の父、伊平次の墓。水戸藩士。二十石五人扶持。二男亀五郎とともに、元治元年(1864)九月六日、戦死。
立花辰之介氏順墓
立花辰之助は、弘化元年(1844)の生まれ。元治元年(1864)三月、筑波の挙兵に参加して常野の間に城兵並びに幕兵と戦った。のち波山勢より分離して、内藤文七郎ら六十余と鹿島地方に拠り、外人襲撃を意図したが、同年九月六日に至って幕兵に包囲され、捕らえられて下総岩井に禁固され、同年十月、死罪に処された。年二十一。
植原亀五郎壽則墓
植原亀五郎は、弘化四年(1847)の生まれ。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かい下総小金駅に屯集し、八月松平頼徳の水戸下向に随従し、那珂湊に拠って城兵、幕兵と交戦したが、のち営を去って鉾田の三光院に拠って上京を計ったが、九月六日、幕兵と戦って父伊兵次とともに戦死した。年十八。
永井芳次郎道正墓
永井芳次郎は天保四年(1833)の生まれ。安政四年(1857)、進仕して史館雇、万延元年(1860)、転じて与力となった。元治の役に榊原新左衛門に属し、那珂湊に滞陣中営を去って鹿島地方により、幕兵に囲まれたが脱し、葛飾郡小堤村にて古河藩兵に捕らえられ、臨時処断法により十月十六日、斬に処された。年三十二。
岡部忠蔵以忠墓
岡部忠蔵は、文政五年(1822)の生まれ。安政元年(1854)、家督を継ぎ、安政四年(1857)、書院番頭、万延元年(1860)六月に大番頭に進み、文久三年(1863)には大寄合頭となり、元治元年(1864)、藩主徳川慶篤の命を受けて上京。関白二条斉敬に攘夷鎖港の説を進言し、帰国して執政に挙げられた。ついで市川三左衛門らとともに藩主を補佐したが、市川らの志を得るに及び、執政を罷免され、十月、幕命により江戸の獄に下り、翌慶應元年(1865)、囚中に没した、年四十四。
加藤八郎太夫直博墓
加藤八郎大夫は、天保三年(1832)の生まれ、嘉永六年(1853)、家督を継ぎ、小姓頭、書院番頭を経て万延元年(1860)、大番頭となった。元治元年(1864)八月、松平頼徳が那珂湊に陣して城兵と戦うと、頼徳の命を受けて情状を藩主徳川慶篤に報ずるため、参政三木直とともに江戸に向かい、書を藩家老岡部忠蔵に託したが、幕命をもって拘束され、同年十月、江戸の獄に下り、慶応三年(1867)、囚中に没した。年三十六。
肥田金蔵政方墓
肥田(ひだ)金蔵は天保十一年(1840)の生まれ。家督を継ぎ、安政四年(1857)、大番組に班し、奥小姓となった。文久三年(1863)二月、藩主徳川慶篤の上京に随従した。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かい、八月、松平頼徳に従って那珂湊に拠り、十月二十三日、久留里藩に禁固され、慶応二年(1866)七月、病死した。年二十七。
本澤平太夫宗孝墓
本澤(もとざわ)平太夫は、天保十年(1839)の生まれ。安政四年(1857)、家督を継ぎ、文久二年(1863)、大番組となり、文久三年(1863)、大番組頭に進んだ。この年二月、藩主徳川慶篤の上京に随従した。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集した。八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従って久留里藩に禁固され、慶応元年(1865)五月、囚中病死した。年二十七。
伊藤田宮友誠墓
伊藤田宮は、天保十年(1839)の生まれ。安政年中、床几机廻に選ばれ、万延元年(1860)、家督を継ぎ、馬廻組を経て大番組に移り、公子傳を兼ねた。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かい小金駅に屯集し、八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、城兵、幕兵と交戦。同年十月二十三日、榊原新左衛門に従って自首し、古河藩に禁固され、慶応三年(1867)三月、獄死した。年二十九。
金子勇二郎久雄墓
金子勇二郎は天保十四年(1843)の生まれ。父は金子孫二郎。文久三年(1863)家督を継いだ。同年十一月、父孫二郎の遺体帰葬の命により帰府し、同月、大番組郡奉行見習となった。滞京中、翠紅館に諸藩の同志と会同し、攘夷の気運を高めた。元治元年(1864)三月、願いなく出府し、松平頼徳に従って那珂湊に拠り郷民を率いて転戦したが、榊原新左衛門に従って自首し、古河藩に禁固された。慶應二年(1866)十一月、獄中にて病死。年二十四。
天埜藤次衛門景忠墓
天野藤次衛門は、文政十一年(1829)の生まれ。嘉永六年(1853)、床几廻に選ばれ、安政四年(1857)、家督を継いで、馬廻組、ついで公子付となった。元治元年(1864)五月、諸生ら大挙江戸に向かい、ために武田耕雲斎ら執政を免じられ、市川三左衛門らがこれに代わると、江戸に向かい下総小金に屯集した。同年八月、目代松平頼徳の下国に際し、執政榊原新左衛門に属し那珂湊に出陣して城兵と戦い、十月二十三日、榊原の自首に従い、慶応三年(1867)十一月、囚中に病死した。年三十九。
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