(富士見台霊園)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/44/82d884d75bbd5446211b80024b79b871.jpg)
大善寺
八王子市大谷町1019‐1の大善寺に隣接して、富士見台霊園と呼ばれる霊園が広がる。ちょうどひよどりトンネルの真上に位置し、眺めが良い。その最上部(西8区2側)に作家松本清張の墓がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/66/500becc5aeb79d9b8eee44e285adfd5b.jpg)
松本清張
松本清張は、明治四十二年(1909)、福岡県小倉生まれ。昭和二十八年(1953)、『或る「小倉日記」伝』で芥川賞受賞。『点と線』『ゼロの焦点』などで社会派推理小説ブームを起し、『日本の黒い霧』では社会派ノンフィクションの先駆けとなった。古代史の研究や歴史小説、評論など多方面で活躍した。平成四年(1992)八月四日、逝去。行年八十二。墓石背面には、「清閑院釋文張」という法名が刻まれている。
(常福寺)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/c9/89262d6be87b88a6c479e3fe0ad04215.jpg)
常福寺
常福寺は、天璋院に仕えた荻島喜尾の菩提寺である(八王子市宮下354)。荻島家は、宮下村の名主をつとめる家で、喜尾(まさ・滝尾)は、文政二年(1819)、その分家に生まれた。畑尚子著「幕末の大奥」(岩波新書)によれば、喜尾は、娘時代に越前松平家に奉公に出たが、一旦結婚のため奉公を辞する。相手は上川口村(現・埼玉県所沢市)の滝島八郎右衛門であった。しかし、死産や婚家との不仲が原因で離縁することになる。嘉永五年(1852)に芝の薩摩藩邸に移り、右筆として働いた。その間、多くの貴重な書簡を残した。明治元年(1868)、御一新とともに奉公を辞め、それ以降、本所小梅に閑居した。明治六年(1873)、五十五歳にて死去。
常福寺墓地には、荻島家の墓が五~六確認できるが、喜尾の墓を特定することはできなかった。
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大善寺
八王子市大谷町1019‐1の大善寺に隣接して、富士見台霊園と呼ばれる霊園が広がる。ちょうどひよどりトンネルの真上に位置し、眺めが良い。その最上部(西8区2側)に作家松本清張の墓がある。
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松本清張
松本清張は、明治四十二年(1909)、福岡県小倉生まれ。昭和二十八年(1953)、『或る「小倉日記」伝』で芥川賞受賞。『点と線』『ゼロの焦点』などで社会派推理小説ブームを起し、『日本の黒い霧』では社会派ノンフィクションの先駆けとなった。古代史の研究や歴史小説、評論など多方面で活躍した。平成四年(1992)八月四日、逝去。行年八十二。墓石背面には、「清閑院釋文張」という法名が刻まれている。
(常福寺)
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常福寺
常福寺は、天璋院に仕えた荻島喜尾の菩提寺である(八王子市宮下354)。荻島家は、宮下村の名主をつとめる家で、喜尾(まさ・滝尾)は、文政二年(1819)、その分家に生まれた。畑尚子著「幕末の大奥」(岩波新書)によれば、喜尾は、娘時代に越前松平家に奉公に出たが、一旦結婚のため奉公を辞する。相手は上川口村(現・埼玉県所沢市)の滝島八郎右衛門であった。しかし、死産や婚家との不仲が原因で離縁することになる。嘉永五年(1852)に芝の薩摩藩邸に移り、右筆として働いた。その間、多くの貴重な書簡を残した。明治元年(1868)、御一新とともに奉公を辞め、それ以降、本所小梅に閑居した。明治六年(1873)、五十五歳にて死去。
常福寺墓地には、荻島家の墓が五~六確認できるが、喜尾の墓を特定することはできなかった。
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