(田原坂資料館)
映画や小説の舞台となった場所を訪ねる行為を「聖地巡礼」というらしい。私にとって史跡訪問は「聖地巡礼」と同じことかもしれない。数多い史跡の中で、個人的に「聖地」と呼ぶに相応しい場所が田原坂である。今回、二十年振りに田原坂公園を訪ねることができた。二十年というとかなり長い時間であるが、田原坂の景色や史跡は、ほとんど二十年前から変わっていない。
田原坂公園の中心は資料館である。激戦の中で銃弾に嵐に晒された民家が、「弾痕の家」として今に伝えられ、内部は現在資料館として利用されている。
資料館には、銃弾や砲弾、銃、衣類や食器などが陳列されている他、地元史家作成のビデオなどが上映されており、マニアは時間が経つのも忘れてしまう。
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田原坂資料館 弾痕の家
大楠の根もとに馬にまたがる美少年像がある。民謡田原坂に歌われる美少年は、一説に村田新八の長男岩熊がモデルともいわれるが、像には敢えて「この美少年像は西南の役田原坂の戦いで散った若者たちすべての象徴である」と説明が加えられている。
美少年像
銃撃戦の凄まじさを物語る「ゆきあい弾」がこの付近でいくつも発見されている。敵味方の放った銃弾が空中で衝突したものである。
西南の役戦没者慰霊之碑
西郷隆盛を始め、万を超す西南戦争戦没者全ての氏名を刻む。その数は、官軍六九二三名、薩軍七一八六名、殉難者二九名に及ぶ。
崇烈碑
崇烈碑には当時の社会情勢や戦いの推移、田原坂の激戦の様子が刻まれている。田原坂の激戦の勝利の意義が官軍の立場から述べられている。撰文および篆額は有栖川宮熾仁親王、書は陸軍省秋月新太郎。
大綿や古道いまも越えがたき
辺見隊守りし嶮ぞ島瓜
吉次越狐の径となりて絶ゆ
伍長谷村計介戦死之地
宮崎県の寒村糸原出身の谷村計介の戦死の地の石碑が、田原坂資料館から程無い場所に立っている。単なる使者に過ぎない谷村計介が、どうしてこんなにもてはやされているのか不思議であったが、資料館の説明によると戦前の教科書に谷村計介が載っていたというのである。城から抜け出し、一度敵に捕らえられながら、機転をきかせて脱出し、見事使者の任を果たしたというお話である。
西南役戦没者慰霊碑
一の坂附近
麓の豊岡眼鏡橋からの標高差はわずか八十メートル。一の坂、二の坂、三の坂を経て坂の頂まで約一・五キロメートルの曲がりくねった道が続く。この道だけが唯一大砲を曳いて通れる道幅があり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は熊本城に達することはできなかった。官軍にとってまさに勝敗を制する道であった。戦略上の重要地であったため、田原坂は激戦の舞台となったのである。
両側が道路より高い凸状の道は、前方の藪や左右の高所から銃撃を受けやすく、攻め難い要地であった。
映画や小説の舞台となった場所を訪ねる行為を「聖地巡礼」というらしい。私にとって史跡訪問は「聖地巡礼」と同じことかもしれない。数多い史跡の中で、個人的に「聖地」と呼ぶに相応しい場所が田原坂である。今回、二十年振りに田原坂公園を訪ねることができた。二十年というとかなり長い時間であるが、田原坂の景色や史跡は、ほとんど二十年前から変わっていない。
田原坂公園の中心は資料館である。激戦の中で銃弾に嵐に晒された民家が、「弾痕の家」として今に伝えられ、内部は現在資料館として利用されている。
資料館には、銃弾や砲弾、銃、衣類や食器などが陳列されている他、地元史家作成のビデオなどが上映されており、マニアは時間が経つのも忘れてしまう。
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田原坂資料館 弾痕の家
大楠の根もとに馬にまたがる美少年像がある。民謡田原坂に歌われる美少年は、一説に村田新八の長男岩熊がモデルともいわれるが、像には敢えて「この美少年像は西南の役田原坂の戦いで散った若者たちすべての象徴である」と説明が加えられている。
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美少年像
銃撃戦の凄まじさを物語る「ゆきあい弾」がこの付近でいくつも発見されている。敵味方の放った銃弾が空中で衝突したものである。
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西南の役戦没者慰霊之碑
西郷隆盛を始め、万を超す西南戦争戦没者全ての氏名を刻む。その数は、官軍六九二三名、薩軍七一八六名、殉難者二九名に及ぶ。
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崇烈碑
崇烈碑には当時の社会情勢や戦いの推移、田原坂の激戦の様子が刻まれている。田原坂の激戦の勝利の意義が官軍の立場から述べられている。撰文および篆額は有栖川宮熾仁親王、書は陸軍省秋月新太郎。
大綿や古道いまも越えがたき
辺見隊守りし嶮ぞ島瓜
吉次越狐の径となりて絶ゆ
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伍長谷村計介戦死之地
宮崎県の寒村糸原出身の谷村計介の戦死の地の石碑が、田原坂資料館から程無い場所に立っている。単なる使者に過ぎない谷村計介が、どうしてこんなにもてはやされているのか不思議であったが、資料館の説明によると戦前の教科書に谷村計介が載っていたというのである。城から抜け出し、一度敵に捕らえられながら、機転をきかせて脱出し、見事使者の任を果たしたというお話である。
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西南役戦没者慰霊碑
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一の坂附近
麓の豊岡眼鏡橋からの標高差はわずか八十メートル。一の坂、二の坂、三の坂を経て坂の頂まで約一・五キロメートルの曲がりくねった道が続く。この道だけが唯一大砲を曳いて通れる道幅があり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は熊本城に達することはできなかった。官軍にとってまさに勝敗を制する道であった。戦略上の重要地であったため、田原坂は激戦の舞台となったのである。
両側が道路より高い凸状の道は、前方の藪や左右の高所から銃撃を受けやすく、攻め難い要地であった。
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