(高見)
篠原元輔信親墓 同人妻墓
(篠原泰之進両親墓)
新選組の篠原泰之進は、文政十一年(1828)、石工篠原元助の長男として、浮羽郡高見村(現・うきは市)に生まれた。幼少より武芸に励み、剣術、槍術、柔術を修めた。初め久留米藩士小倉一之進に仕え、のち家老有馬右近の中間となった。安政四年(1857)、江戸勤番に随行し、そこで真木和泉の門弟酒井伝次郎と親しくなり、やがて尊王攘夷を志すことになった。万延元年(1860)、水戸へ赴き、翌年江戸に戻ったが、ほどなく神奈川奉行所に雇われ、横浜居留地の警備隊長に就いた。そこで役所に乱入したイギリス人を縛り上げ、海岸に放置するという事件をおこし遁走した。元治元年(1864)、伊東甲子太郎の誘いで上京して新選組に入隊。諸士調役兼監察、柔術師範となり重用された。しかし、入隊以来、佐幕攘夷というべき新選組の思想との矛盾を解消できず、慶応三年(1867)三月、伊東らとともに新選組を離脱、孝明天皇の御陵衛士を命じられた。同年十一月、伊東らは新選組に暗殺された(油小路の変)。この時、篠原は難を逃れ、伏見の薩摩藩邸に匿われ、鳥羽伏見でも薩摩郡の一員として戦った。これ以降、父の実家の姓「秦」を名乗るようになった。戊辰戦争では赤報隊に参加。隊員の暴行、掠奪の責任を負って投獄されたが、間もなく赦され、北越や会津で戦い、京都に凱旋を果たした。明治二年(1869)帰国して久留米藩に登用され、弾正台少巡察に任じられた。明治五年(1872)、大蔵省造幣寮勤務となるが、翌年官を辞して実業家となった。明治九年(1876)、京都に移住。明治二十五年(1892)、東京に転居し、晩年はキリスト教に入信した。明治四十四年(1911)六月、享年八十四にて死去。
うきはの両親の墓は、維新後、泰之進が両親のために建てたものである。
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篠原元輔信親墓 同人妻墓
(篠原泰之進両親墓)
新選組の篠原泰之進は、文政十一年(1828)、石工篠原元助の長男として、浮羽郡高見村(現・うきは市)に生まれた。幼少より武芸に励み、剣術、槍術、柔術を修めた。初め久留米藩士小倉一之進に仕え、のち家老有馬右近の中間となった。安政四年(1857)、江戸勤番に随行し、そこで真木和泉の門弟酒井伝次郎と親しくなり、やがて尊王攘夷を志すことになった。万延元年(1860)、水戸へ赴き、翌年江戸に戻ったが、ほどなく神奈川奉行所に雇われ、横浜居留地の警備隊長に就いた。そこで役所に乱入したイギリス人を縛り上げ、海岸に放置するという事件をおこし遁走した。元治元年(1864)、伊東甲子太郎の誘いで上京して新選組に入隊。諸士調役兼監察、柔術師範となり重用された。しかし、入隊以来、佐幕攘夷というべき新選組の思想との矛盾を解消できず、慶応三年(1867)三月、伊東らとともに新選組を離脱、孝明天皇の御陵衛士を命じられた。同年十一月、伊東らは新選組に暗殺された(油小路の変)。この時、篠原は難を逃れ、伏見の薩摩藩邸に匿われ、鳥羽伏見でも薩摩郡の一員として戦った。これ以降、父の実家の姓「秦」を名乗るようになった。戊辰戦争では赤報隊に参加。隊員の暴行、掠奪の責任を負って投獄されたが、間もなく赦され、北越や会津で戦い、京都に凱旋を果たした。明治二年(1869)帰国して久留米藩に登用され、弾正台少巡察に任じられた。明治五年(1872)、大蔵省造幣寮勤務となるが、翌年官を辞して実業家となった。明治九年(1876)、京都に移住。明治二十五年(1892)、東京に転居し、晩年はキリスト教に入信した。明治四十四年(1911)六月、享年八十四にて死去。
うきはの両親の墓は、維新後、泰之進が両親のために建てたものである。
篠原泰之進の生家というのは高見のどこにあるものでしょうか?
お問い合わせの件、以下の住所となります。
うきは市浮羽町高見526付近