史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

九十九里

2014年06月01日 | 千葉県
(真忠組志士鎮魂碑)


真忠組志士鎮魂碑

 真忠組志士鎮魂碑には、三浦帯刀と楠音次郎という二人の真忠組副首領、首領の辞世が刻まれている。

三浦帯刀有国
国のため民のためとて捨てる身は
これぞ日本の人のたましひ

楠音次郎正光
虚々実々不争功 真忠義士頗義勇
一夜忽驚千里軍 誠忠吹起大平国

(作田川河口付近の墓地)


三浦帯刀 楠音次郎 墓

 作田川河口付近の墓地に、三浦帯刀、楠音次郎の墓がある。五十センチくらいの小さな墓であるが、その後ろに楠音次郎の曽孫の方が記した墓碑が置かれている。
 真忠組首領の楠音次郎は、もともと三河国岡崎に生まれたといわれるが、父は熊本藩士だった。音次郎は尾張藩や烏山藩に出仕したが、放浪することが多かった。文久元年(1861)には九十九里の井之内村に住み付き、ここで寺小屋を開き、また変の前には浜民の良き相談相手になっていたという。拠点としていた大村屋を襲撃されて討死。
 三浦帯刀は、佐原村に知行地を持つ旗本津田栄次郎の家来で、佐原村に住んでいた。安政六年(1859)には津田栄次郎地頭所から所村の百姓平右衛門に預け身分となった。安政の大獄に関連した処罰であったともいわれる。文久三年(1863)には「座敷住居」に変わり、彼の行動も自由が与えられることになった。三浦は一宮藩に捕縛されて、打首獄門となった。
 彼らは尊攘浪士というだけでなく、挙兵以前からこの地方民との接触しており、真忠組の挙兵には地方民の困窮からの解放を運動の梃子にしていたのである。(高木俊輔著「明治維新草莽運動史」)

(真忠組浪士屯所跡)


真忠組浪士屯所(大村屋)跡

 真忠組の活動は、直接的には文久三年(1863)十一月十二日、当時九十九里地方の一漁村であった小関村にあった大村屋伊八方に楠音次郎を首領とする数名がやってきたことに始まる。宿主伊八に対し「当分借り受け度」という一札を入れ、門先には弓・槍・鉄砲などを飾りたて、「真忠組義士旅館」という板札をかかげた。この日以降、浪人体の輩が集まってきて、同月二十四日には、二十人余りに膨れ、この場所が実質的に真忠組の本部となった。現在、大村屋跡には木製の碑が建てられているだけである。


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