史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

保土ヶ谷 2回目

2009年01月11日 | 神奈川県
 久保山墓地、三回目の挑戦。やはり目当ての官修墓地に達することができず、墓地の管理事務所を訪ねて場所を確認することにした。事務所の方は全体の地図と長州藩戦死者と巡査墓地の場所を示した地図をコピーした上に、行き方を懇切に説明して下さった。しかし方向音痴の私は、地図を片手にしながらどこを歩いているか分からなくなってしまい、今回も目的地まで行き着くことはできなかった。
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川崎

2009年01月10日 | 神奈川県
(川崎宿)
 川崎は、東海道の宿場町として栄えたまちである。江戸を出立して六郷の渡しで多摩川を越えると、すぐに出会うのが川崎宿である。
 現在、川崎は人口百三十万人を抱える巨大政令都市へと発展した。JR川崎駅を降りると、大変な人混みでとても真っ直ぐ歩けないような有り様である。駅前の市役所通りと砂川一丁目の交差点で交わっているのが、旧東海道である。駅周辺の様子からして、最初から昔の風情が残っているとは期待はできないが、意外にも史跡説明の案内板が随所に建てられており、それを追って散歩するだけでも十分楽しい。これは、川崎宿起立400年(2023年)に向けて、「歴史と文化をまちづくりに活かそう」と川崎区役所地域振興課が中心となって整備しているものである。


佐藤本陣(上の本陣)跡地

 川崎宿には佐藤本陣と田中本陣、その中間に中の本陣と呼ばれた惣兵衛本陣があった。上の本陣と呼ばれた佐藤本陣には、徳川家茂が上京する際に宿泊したという。


田中本陣(下の本陣)跡

 佐藤本陣跡から江戸方向に進むと、田中本陣跡に出会う。本陣は参勤交代により栄えたが、江戸後期には大名家の財政難と参勤交代の緩和により、田中本陣も衰えが目立った。安政四年(1857)将軍謁見のため江戸に向かうアメリカ駐日総領事ハリスは川崎宿に宿泊したが、田中本陣のあまりの荒廃ぶりを見て宿を万年屋に代えたという。


六郷の渡し付近

 万年屋は、六郷の渡しを経て川崎宿に入ってすぐのところにあった。川崎大師への参詣客が往来するこの付近は、茶屋が軒を並べる大変賑やかな街であった。万年屋もそうした茶屋の一つであったが、やがて宿泊も可能となり、幕末にはハリスも宿泊したと伝えられる。万年屋があったと思われる場所には高層マンションが建っており、往時を偲ぶものは何も残されていない。

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姉ヶ崎

2009年01月10日 | 千葉県
(妙経寺)
 千葉を過ぎて木更津に近づくと、急に鄙びてくる。駅前は閑散として、背の高い建物はほとんど見当たらない。東京駅から姉ヶ崎まで快速電車で1時間ほど。江戸から遠く離れたこの地にまで戊辰戦争の戦火が及んでいたことは、あまり知られていない。姉ヶ崎駅のすぐ目の前に位置する妙経寺の墓地には、戊辰戦争で戦死した十六名の徳川方兵士を葬った墓がある。鐘楼のそば「義軍 墓」と刻んだものが、それである。義軍の墓の隣には、「細川外記之墓」と書かれた比較的新しい墓がある。墓の主は会津藩士で、後年になって子孫が建てたもののようである。


妙経寺


義軍 墓

(瑞安寺)


瑞安寺


徳川義軍之墓

 駅前の道を十分ほど西南に歩くと、県道に面して瑞安寺が建っている。本堂前にやはり戊辰戦争で戦死した徳川方の兵士五名の名を刻んだ墓がある。

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保土ヶ谷

2009年01月04日 | 神奈川県
(久保山墓地)
 久保山墓地を訪問しようとしたのは、実は今日が2回目であった。前回は「神奈川県の歴史散歩」(山川出版社)に「桜木町駅から保土ヶ谷車庫行バス、久保山霊堂前下車」とあるので、桜木町駅で保土ヶ谷車庫行のバスに乗り込もうとしたころ、運転手さんに「このバスは久保山墓地には行かない。久保山霊園を通る32系統のバスは、桜木町からは出ていないよ」と説明され、敢え無く撤退した。
 今回は、保土ヶ谷駅から32系統のバスに乗ろうと思ったが、このバスは本数が少なくかなり待たなくてはならなかったので、歩くことにした。久保山墓地まで徒歩15分くらいである。
 久保山墓地を眼前にして呆然とした。見渡す限りの墓場であった。この墓地が作られたのは明治七年(1874)のことで、横浜の市中にある寺院の墓地が景観を損なう、衛生上も宜しくないという考えから、寺院ごとこの地に移ったものらしい。
 ここに西南戦争で戦死した巡査や官軍兵士の官修墓地があるはずだが、どこにも案内らしきものはなく、3万基以上といわれる墓石の中から、当てもないのに探し出すことは流石にできなかった。新年最初の史跡訪問が空振りに終わったのは残念であるが、こういうこともある。次回に持ち越しである。

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