史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「銅像歴史散歩」 墨威宏著 ちくま新書

2016年05月06日 | 書評
本書の帯に書かれた解説によれば
「明治期に欧米から入ってきた「銅像」文化は日本人に合っていたらしく、日本風にアレンジされて各地に次々に建てられていった。明治期後半には偉人の像、昭和初期には全国の小学校に二宮金次郎像、近年はアニメのキャラクター像なども立ち、第三次ブームと呼べるほど増え続けている。それぞれの銅像の背負っているものを掘り下げていくと、日本の近代史が見えてくる。」
子供の頃に両親を亡くし、貧しい中で働きながら勉学に励んだ、二宮金次郎の少年時代の逸話が、明治期から終戦まで小学校の修身の国定教科書に載っていた。時代の要請にあっていたのだろう。薪を背負って歩きながら本を読む「負薪読書」像は、あっという間に全国に広がった。
ところが、戦争の影が忍び寄るにつれて、全国の小学校に立っていた二宮金次郎像が次々を消えて行った。銅像は敵を討つための大砲の弾となるため、続々と「出征」したのである。戦後再建された銅像もあるが、今も台座だけが残る例も少なくない。戦時に銅像を鋳潰して銃弾に作り替えるという行為は、日本だけで行われたことなのだろうか。
我が国の草創期の銅像を語るとき、高村光雲は欠かせない存在である。東京の三大銅像のうち、皇居外苑の楠木正成像、上野恩賜公園の西郷隆盛像はいずれも光雲の手による。残る一体は靖国神社の大村益次郎像で、こちらは大熊氏広作である。
高村光雲は、息子の高村光太郎に「なかなか見込みのある」事業として銅像会社の設立を持ちかけたという。このころ各地に続々と銅像が建てられていた。昭和三年(1928)発刊の「銅像写真集 偉人の俤」には六百体を超える銅像が掲載されている。西郷像から数えて三十年ほどの間に驚異的なスピードで銅像が増えて行ったことを物語っている。光雲の提案もあながち荒唐無稽な話でもなかったのである。
本書によれば、大河ドラマの放送を機に建てられる銅像も意外と多いという。東京文京区の春日局像は平成元年(1989)の放映された「春日局」を記念して建立されたものというし、平成二十四年(2012)の「平清盛」放送に合わせ、神戸市兵庫区の平野商店街に若き日の平清盛像がお目見えした。
幕末人でいえば、鹿児島に篤姫像、会津若松城に山本八重像、萩に久坂玄瑞像、防府市に楫取素彦像が建てられたという。私は別に銅像マニアというわけではないが、新たに銅像ができたと聞くと、何故だか見に行きたくてウズウズしてしまう。こうして見て回った銅像(石像・木像・陶像なども含む)の数は、数えたわけではないが、多分三百や四百ではきかないはずである。ヒマなときに一度数えてみないといけませんね。
著者はいう。「大河ドラマが変わるたびに銅像は増える。ただし「去年の大河ドラマって何だったっけ?」と聞かれて即答できるのはかなりのフアンだろう。放送が終われば、ドラマは忘れられ、銅像は残る。」と冷静に解説する。確かに銅像を建てるときは、委員会が結成され、多方面から寄附が集められ、華々しく除幕式が開催される。しかし、ひとたび銅像が建立されてしまうと、日々その存在は忘れられる。何故そこに像が立っているのか、そもそも誰なのかすら知る人もいなくなってしまう。手入れもされず、周囲は雑草だらけという銅像も多い。そういう姿を見ると、ちょっと悲しくなってしまう。
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「横浜外国人墓地に眠る人々」 斎藤多喜夫著 有隣堂

2016年05月06日 | 書評
幕末の日本には、開国と同時に多くの外国人が訪れた。東洋の神秘の国を自分の眼で見てみたいという好奇心旺盛な若者もいたであろう。最後のフロンティアで一攫千金を夢みた山師的な商人もいたと思う。忘れてはいけないのは、この時期の日本というのは、極めて排他的で外国人にとっては危険な国であった。何も悪いことをしていなくても、外国人だというだけで殺傷される物騒な国である。そんな国に身を投じようというのだから、彼らは多かれ少なかれ冒険家の資質を有していたと思われる。実際に凶刃の犠牲となった人たち(生麦事件のリチャードソンや井土ヶ谷事件のカミュら)も外国人墓地に眠っている。
日本に駐在した外国人は、横浜や長崎、神戸、大阪などで居留地を形成し、そこでの生活を強いられた。やがて異国の地で人生を終える者も出てきて、外国人向けの墓地は拡大していった。ここに眠る人たちは、激動の時代を生き、未開の国日本の発展に尽くした、ユニークな外国人が多い。実に四千人を超える外国人が葬られているが、本書では、そのうち百名余が紹介されている。それぞれ「外国人殺傷事件の犠牲となった人々」「外交や国際親善に尽くした人々」「伝道と教育に生涯を捧げた人々」「日本の近代化に貢献した人々」「居留地の貿易と産業を担った人々」「居留地社会を支えた人々」「情報や文化の伝達に寄与した人々」「不慮の死を遂げた人々」「外国人墓地の管理運営に携わった人々」「根岸の丘に眠る人々」に分類して、そのユニークな生涯を紹介している。この本を片手にまた外国人墓地を歩いてみたくなった。

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「幕末戦記 蛤御門の変」 三木敏正著 海文舎印刷

2016年05月06日 | 書評
著者は京都市伏見区深草在住の方で、恐らく自費出版に近い形で本書も刊行されたものと思われる。百ページにも満たない小冊子であるが、うち二十ページが年表に費やされており、本文は八十ページにも満たず、自ずと内容の薄いものになっている。第一部は「禁門の変」、第二部は「伏見深草一本松の戦い」が記述される。ページ数でいえば、第一部が五十ページ以上を占め、第二部は十二ページほどに過ぎない。ただし、本書で本来著者が世に問いたかったのは「話題になることも少ない」「あまり知られていない」深草一本松の戦いのことなのではないだろうか。とすれば、あまりにバランスが悪い印象を受けた。前段の年表は不要なので、もっと深草一本松の戦いについて詳述しても良かったのではなかろうか。
深草というのは有名な伏見稲荷の近く、ちょうど宝塔寺のある周辺である。禁門の変の前夜、この場所で長州藩の福原越後の率いる一隊が、大垣藩兵らと衝突した。福原越後は敵弾を受けて落馬し、これを契機として長州藩軍は敗退を余儀なくされた。本来、福原隊は天龍寺や山崎、八幡方面の兵と連携して、御所を守る会津藩を攻める段取りであったが、これで目算が狂ってしまった。著者は「その勢力が、作戦どおり河原町二条の長州藩邸待機の浪士隊と合流し、堺町御門の戦闘に加わっていれば、御所内の後半戦がどう展開されたであろう」と想像を逞しくしているが、確かに楽しい想像かもしれない(でも、やっぱり結果は変わらないでしょうが…)。
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