本書の帯に書かれた解説によれば
「明治期に欧米から入ってきた「銅像」文化は日本人に合っていたらしく、日本風にアレンジされて各地に次々に建てられていった。明治期後半には偉人の像、昭和初期には全国の小学校に二宮金次郎像、近年はアニメのキャラクター像なども立ち、第三次ブームと呼べるほど増え続けている。それぞれの銅像の背負っているものを掘り下げていくと、日本の近代史が見えてくる。」
子供の頃に両親を亡くし、貧しい中で働きながら勉学に励んだ、二宮金次郎の少年時代の逸話が、明治期から終戦まで小学校の修身の国定教科書に載っていた。時代の要請にあっていたのだろう。薪を背負って歩きながら本を読む「負薪読書」像は、あっという間に全国に広がった。
ところが、戦争の影が忍び寄るにつれて、全国の小学校に立っていた二宮金次郎像が次々を消えて行った。銅像は敵を討つための大砲の弾となるため、続々と「出征」したのである。戦後再建された銅像もあるが、今も台座だけが残る例も少なくない。戦時に銅像を鋳潰して銃弾に作り替えるという行為は、日本だけで行われたことなのだろうか。
我が国の草創期の銅像を語るとき、高村光雲は欠かせない存在である。東京の三大銅像のうち、皇居外苑の楠木正成像、上野恩賜公園の西郷隆盛像はいずれも光雲の手による。残る一体は靖国神社の大村益次郎像で、こちらは大熊氏広作である。
高村光雲は、息子の高村光太郎に「なかなか見込みのある」事業として銅像会社の設立を持ちかけたという。このころ各地に続々と銅像が建てられていた。昭和三年(1928)発刊の「銅像写真集 偉人の俤」には六百体を超える銅像が掲載されている。西郷像から数えて三十年ほどの間に驚異的なスピードで銅像が増えて行ったことを物語っている。光雲の提案もあながち荒唐無稽な話でもなかったのである。
本書によれば、大河ドラマの放送を機に建てられる銅像も意外と多いという。東京文京区の春日局像は平成元年(1989)の放映された「春日局」を記念して建立されたものというし、平成二十四年(2012)の「平清盛」放送に合わせ、神戸市兵庫区の平野商店街に若き日の平清盛像がお目見えした。
幕末人でいえば、鹿児島に篤姫像、会津若松城に山本八重像、萩に久坂玄瑞像、防府市に楫取素彦像が建てられたという。私は別に銅像マニアというわけではないが、新たに銅像ができたと聞くと、何故だか見に行きたくてウズウズしてしまう。こうして見て回った銅像(石像・木像・陶像なども含む)の数は、数えたわけではないが、多分三百や四百ではきかないはずである。ヒマなときに一度数えてみないといけませんね。
著者はいう。「大河ドラマが変わるたびに銅像は増える。ただし「去年の大河ドラマって何だったっけ?」と聞かれて即答できるのはかなりのフアンだろう。放送が終われば、ドラマは忘れられ、銅像は残る。」と冷静に解説する。確かに銅像を建てるときは、委員会が結成され、多方面から寄附が集められ、華々しく除幕式が開催される。しかし、ひとたび銅像が建立されてしまうと、日々その存在は忘れられる。何故そこに像が立っているのか、そもそも誰なのかすら知る人もいなくなってしまう。手入れもされず、周囲は雑草だらけという銅像も多い。そういう姿を見ると、ちょっと悲しくなってしまう。
「明治期に欧米から入ってきた「銅像」文化は日本人に合っていたらしく、日本風にアレンジされて各地に次々に建てられていった。明治期後半には偉人の像、昭和初期には全国の小学校に二宮金次郎像、近年はアニメのキャラクター像なども立ち、第三次ブームと呼べるほど増え続けている。それぞれの銅像の背負っているものを掘り下げていくと、日本の近代史が見えてくる。」
子供の頃に両親を亡くし、貧しい中で働きながら勉学に励んだ、二宮金次郎の少年時代の逸話が、明治期から終戦まで小学校の修身の国定教科書に載っていた。時代の要請にあっていたのだろう。薪を背負って歩きながら本を読む「負薪読書」像は、あっという間に全国に広がった。
ところが、戦争の影が忍び寄るにつれて、全国の小学校に立っていた二宮金次郎像が次々を消えて行った。銅像は敵を討つための大砲の弾となるため、続々と「出征」したのである。戦後再建された銅像もあるが、今も台座だけが残る例も少なくない。戦時に銅像を鋳潰して銃弾に作り替えるという行為は、日本だけで行われたことなのだろうか。
我が国の草創期の銅像を語るとき、高村光雲は欠かせない存在である。東京の三大銅像のうち、皇居外苑の楠木正成像、上野恩賜公園の西郷隆盛像はいずれも光雲の手による。残る一体は靖国神社の大村益次郎像で、こちらは大熊氏広作である。
高村光雲は、息子の高村光太郎に「なかなか見込みのある」事業として銅像会社の設立を持ちかけたという。このころ各地に続々と銅像が建てられていた。昭和三年(1928)発刊の「銅像写真集 偉人の俤」には六百体を超える銅像が掲載されている。西郷像から数えて三十年ほどの間に驚異的なスピードで銅像が増えて行ったことを物語っている。光雲の提案もあながち荒唐無稽な話でもなかったのである。
本書によれば、大河ドラマの放送を機に建てられる銅像も意外と多いという。東京文京区の春日局像は平成元年(1989)の放映された「春日局」を記念して建立されたものというし、平成二十四年(2012)の「平清盛」放送に合わせ、神戸市兵庫区の平野商店街に若き日の平清盛像がお目見えした。
幕末人でいえば、鹿児島に篤姫像、会津若松城に山本八重像、萩に久坂玄瑞像、防府市に楫取素彦像が建てられたという。私は別に銅像マニアというわけではないが、新たに銅像ができたと聞くと、何故だか見に行きたくてウズウズしてしまう。こうして見て回った銅像(石像・木像・陶像なども含む)の数は、数えたわけではないが、多分三百や四百ではきかないはずである。ヒマなときに一度数えてみないといけませんね。
著者はいう。「大河ドラマが変わるたびに銅像は増える。ただし「去年の大河ドラマって何だったっけ?」と聞かれて即答できるのはかなりのフアンだろう。放送が終われば、ドラマは忘れられ、銅像は残る。」と冷静に解説する。確かに銅像を建てるときは、委員会が結成され、多方面から寄附が集められ、華々しく除幕式が開催される。しかし、ひとたび銅像が建立されてしまうと、日々その存在は忘れられる。何故そこに像が立っているのか、そもそも誰なのかすら知る人もいなくなってしまう。手入れもされず、周囲は雑草だらけという銅像も多い。そういう姿を見ると、ちょっと悲しくなってしまう。