史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大野原

2016年10月23日 | 京都府
(是住院)
 鳥取からの帰り、姫路、西宮名塩を回った後、少し時間があったので、西京区大原野の是住院の富岡鉄斎の墓を参ることにした。京都市内だが、長岡京市が近い(西京区大原野上里北ノ町1298‐4)。
 それまで真夏の太陽が照り付ける好天だったのだが、大山崎に近づいた辺りで俄かに厚い雲が天を覆い、前を行く車の姿が見えないほどの豪雨となった。よくいう「ゲリラ豪雨」である。史跡回りをする意欲が萎えそうになったが、気を奮い立たせて是住院に向かった。
 是住院に着いた頃にはちょうど雨もやんだ。門前に住職がいらしたので、「鉄斎先生のお墓にお参りしたい」と申し出ると、快くご案内していただけた。


是住院


富岡鐡齋仙先生 夫人佐々木氏 墓

 富岡鉄斎は、天保七年(1836)の生まれ。十四、五歳の頃、野之口隆正(大国隆正)に国学、岩垣月洲に漢学を学んだ。十九歳で窪田雪鷹(南北合派)に絵の手ほどきを受け、浮田一恵、小田海仙に画法を学んだ。二十歳のとき、鉄斎の理解者太田垣蓮月尼を知る。文久元年(1861)長崎に遊学して海外の事情を探り、木下逸雲らと交わった。同二年、帰京後、聖護院村の蓮月旧居にて私塾を開き、学問を教える傍ら作画を続けた。慶応二年(1866)、三十一歳のとき、「孫呉約説」を出版。学者としての名声ようやくあがった。この間、諸国を遊歴。明治九年(1876)、大和石上神宮少宮司、ついで大鳥神社大宮司に任命された。明治十五年(1882)宮司の職を辞して京都に帰り、以後書画に専念。明治十九年(1886)より十年間、大和絵研究、同二十八年(1895)、第四回内国勧業博覧会書道篆刻部審査員、大正六年(1917)、帝室技芸員、同八年帝国美術院会員となった。画歴七十年、数多くの作品を残した。大正十三年(1924)、年八十九で没。

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西宮 名塩

2016年10月15日 | 兵庫県
(JA兵庫六甲名塩)


緒方八重像
台座石に「蘭学の泉ここに湧き出ず」と記されている。

 西宮市の名塩といえば、小学校時代に西宮市で過ごした私の個人的感覚では随分と遠い場所であるが、今や開発が進み立派なベッドタウンと化している。幕末、名塩に蘭学の花が開いた。
 この地に蘭学塾を開いたのは、伊藤慎蔵であった。伊藤慎蔵は、大阪の緒方洪庵の適塾で塾頭を務めた人で、文久二年(1862)、この地で名塩蘭学塾を開いた。その始まりは洪庵夫人の生家である億川家の一室からであったが、塾の名声を聞いて近在から多くの若者が集まり、一室では収容し切れないほどの盛況ぶりであったという。
 現在、名塩蘭学塾のあった場所にはJA兵庫六甲名塩支店の建物が建ち、玄関の左側に緒方夫人八重の胸像が置かれている。また、名塩東口から名塩バス停に至る旧道は、蘭学通りと名付けられている。

(名塩墓地)
 名塩塾から西へ進んだ住宅街の奥に墓地がある。古い墓石が並ぶ中に億川百記の墓がある。


億川百記墓(左)

 億川百記は、大阪の中天游の蘭学塾で学んだ。緒方洪庵とはここで同門であり、二人の交友はここから始まった。洪庵は億川百記の娘八重を娶り、百記は終生洪庵を支援したといわれる。
 百記の長女八重は、十七歳のとき洪庵に嫁ぎ、病弱の洪庵をよくたすけた。殊に洪庵の適塾で学ぶ多くの青年達を我が子の如くかわいがった。福沢諭吉、伊藤慎蔵、佐野常民、大村益次郎ら、いずれも夫人を慈母のように慕っていた。八重は明治十九年(1886)、六十五歳で大阪鶴橋にて没したが、その会葬者は三千人に及び、佐野常民が葬儀委員長となった。

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姫路 Ⅱ

2016年10月15日 | 兵庫県
(善導寺)


善導寺


贈従四位河合(惣兵衛)宗元君之墓

 善導寺本堂前に河合惣兵衛の墓がある。河合惣兵衛は文化十三年(1816)の生まれ。和漢の学問に通じ、武芸にも連達していた。勘定奉行、宗門奉行、物頭持筒頭などを歴任。同志秋元安民とともに尊王を唱え、文久二年(1862)藩主酒井忠績に随従して上洛し、国事に奔走。藩主に尊攘の大義を説いて諫言したが、かえって忌避され、国許に返された。文久三年(1863)春、江坂元之助、伊舟城源一郎、市川豊次らを伴って再び上洛し、久坂玄瑞、宮部鼎蔵らと尊攘運動に尽力し、ついで姉小路公知が暗殺されると、朝命をもって犯人の糾問に従事した。同年八一八の政変により七卿が西下すると、これに随従しようとしたが、三条実美に諭されて果たせなかった。次いで藩命をもって江戸に祗役し、藩主に建言して攘夷の決行を幕府に促すことを請うたが容れられず、病と称して国許に帰った。元治元年(1864)、養子伝十郎の脱藩に連座して。千種家賀川肇、処士家里松嶹斬殺事件の指導者として捕えられ入獄。自刃を命じられた。年四十九。


贈正五位河合傳十郎宗貞之墓

 墓地の河合家総墓の傍らに河合伝十郎の墓がある。門前の市教育委員会の説明に、「平成十六年(2004)、没後百四十年に際し、景福寺にあった伝十郎墓標の移転法要が行われた」とあるので、かつて景福寺墓地にあったものらしい。
河合伝十郎は天保十二年(1841)の生まれ。父は境野求馬、河合惣兵衛の養子となった。槍術に達し、藩より無辺流の槍術専業生に挙げられ、萩原虎六と九州諸藩を遊歴して技を磨いた。文久二年(1862)、藩主酒井忠績の洛中取締を命じられると、養父惣兵衛とともに上洛し、禁闕を護衛し、同藩尊攘派として謀議に加わり、諸藩の間に周旋した。文久三年(1863)、勤王党同志とともに姫路藩御用商人紅粉屋又左衛門を暗殺して自首。親類預けとなったが、のち赦され再び上洛した。ついで同年八一八の政変に際し、七卿落ちに随行を請うたが許されなかった。大和天誅組の謀議にも与り、軍資金の調達に奔走した。元治元年(1864)、同志の江坂栄次郎とともの脱藩し、兵庫に至って勝海舟の宅に投じ、次いで大阪土佐藩邸に潜伏中、実父境野求馬が藩論の不振を嘆いて自殺したのを知り、長州に走ろうとした時、藩吏の追捕を受けて下獄。甲子の獄で斬に処された。年二十四。墓石には辞世が刻まれている。

 此のままに 身は捨るとも いき変り
 ほふりころさむ 醜のやつ原


江坂壽山碑

本堂前に江坂壽山碑があるが、江坂栄次郎、江坂元之助兄弟と何らか関わりがあるものか、確認が取れず。

(河合橋東詰)


河合惣兵衛邸址

 市内神屋町四丁目の河合橋の東に小さな公園がある。河合惣兵衛の屋敷跡で、公園の一角に旧邸跡を示す石碑が置かれている。

(外濠公園)


尽忠報國碑(河合惣兵衛顕彰碑)

 外堀公園に河合惣兵衛の顕彰碑が建てられている。この碑はかつて旧河合邸跡に建立されていたものであるが、昭和二十年(1945)の敗戦を迎え、占領政策により一時除去され、碑石のみが護国神社本殿東側に放置され苔むしていた。昭和四十三年(1968)、明治百年に当り、河合惣兵衛の偉勲を偲び、かつこれを長く後世に伝えるため、広く浄財を募りこの公園内に再建された。

(妙円寺)


妙円寺


伊舟城源一郎墓

 伊舟城(いばらき)源一郎は、天保元年(1830)姫路藩士の家に生まれた。幼時より国学を好み、武芸にも長じた。文久二年(1862)の夏、藩主酒井忠績に随従して京都に上り、水戸藩原市之進、長州藩佐々木男也らと交わり、藩内少壮派を率いて尊攘活動に奔走した。文久三年(1862)の春、河合惣兵衛が上京するや、再び京都に出て国事に奔走した。八一八の政変で七卿が西下するや、河合とともに随行を願ったが抑止された。ついで藩命により河合と水戸に祗役、元治元年(1864)、千種有文の臣賀川肇、処士家里松嶹らを殺害したことが発覚して藩の獄に投じられ、斬に処された。年三十五。

(景福寺)
 景福寺に境野求馬、江坂栄次郎の墓を求めて境内を歩いた。景福寺の墓地は古い墓石を一か所に集め、かなり整理されている。墓地には数えるほどしか墓石が残されていないが、そこには境野求馬のものはなかった。諦めて車に戻ったが、念のために裏山も見ておきたいと思い直して裏山に入った。そこは古い墓の宝庫であった。藪蚊が多いのが難点であるが、いくつかには説明のプレートが取り付けられているので、(防虫対策をしっかりした上で)ゆっくり時間をかけて歩くことをお勧めする。


景福寺


贈正五位境野求馬意英之墓

 境野求馬(もとめ)は、文化七年(1810)、累世藩重職の家に生まれ、求馬も物頭役、小姓頭役を経て番頭役となり、姫路藩首席家老の姉を娶った。文久二年(1862)、藩主酒井忠績に従い京都の居宅において尊攘派志士と交わった。同藩の河合屛山(良翰)、河合惣兵衛らと諸藩の間を周旋したが、藩首脳部の姫路藩勤王派への弾圧厳しく、たまたま元治元年(1864)の春、実子河合伝十郎(惣兵衛の養子)が京都を脱して長州に投じたためにますます嫌疑を受け、また部下の荒井某の反覆のため勤王派は壊滅した。この責任を取り、藩主に宛てて勤王の大義を説く諌書を残して切腹した。年五十五。


贈正五位江坂栄次郎行正之墓

 境野求馬の墓のすぐ近くに江坂栄次郎の墓がある。江坂栄次郎は天保十四年(1843)、江坂善蔵の子に生まれた。兄に江坂元之助がいる。砲術に長じ、尊攘論を唱えて藩の上士と意見合わず、文久三年(1863)、同志とともに、佐幕派の家老高須隼人に阿諛してその庇護を受け、米の買い占めなど私曲の多かった用達紅粉屋又兵衛に天誅を加え、尊王倒幕の血祭りに挙げた。のち河合伝十郎とともに脱藩して、神戸海軍操練所に入った。長州に走ろうとして大阪の土佐藩邸に潜伏中、藩吏の追捕を受けて投獄され、河合とともに斬に処された。年二十二。


善性院楫水居士(井上元長の墓)

 井上元長は、嘉永三年(1850)に姫路藩に開かれた種痘館において、橘三折、太田泰淳らとともに種痘を施した。井上元長は三人のうちもっとも遅れて参加したが、年齢も若い分、明治以降も種痘医として活躍した。安政四年(1857)には幕府の蝦夷地種痘に、師の蘭方医桑田立齋と参加し、師が帰った後も蝦夷地に残ってアイヌの人々を天然痘の惨禍から救った。


中新井糺君之墓

 中新井糺は、通称杢右衛門。旧藩時代は参政より権大参事に任じられ、廃藩後、酒井家に従って東京に移住した。加古郡母里村の新田開発に便宜を図った。明治十六年(1883)没。


劣齋渡部先生墓

 渡部劣斎は、文化九年(1812)生まれ。名は璋、圭輔と称した。劣齋は号である。永根伍石、文峯父子に書法を学び、嘉永四年(1851)、藩校好古堂書学寮教授に就任した。門弟はおよそ千人。明治十四年(1881)没。

(正明寺)
 今年の全社野球大会は播磨事業所(兵庫県加古川市)で開催された。前の週に練習中にギックリ腰になってしまったが、我がチームは八人しか集まらず ――― つまり、初めから人数が不足していた ――― その上欠員を出すわけにはいかなかったので、腰が曲がらない状態で出場した。走るとその振動で腰に痛みが走り、ゴロも取れないような状態であったが、どういうわけだか、数年振りにクリーンヒットを打つことができた。
 集合時間の前に山陽鉄道に乗って姫路まで往復した。起床は四時四十分。五時十八分、高砂駅発の始発に乗った。


正明寺

 JR播但線京口駅を降りて数分のところに五軒邸町がある。ここは姫路の寺町である。この一角に正明寺がある。
 正明寺に、姫路勤王派の一人、「明治維新人名辞典」に江坂元之助の墓があるとあったので、墓地を歩いてみた。二巡したが、発見できず。

(慶雲寺)
 慶応四年(1868)一月の鳥羽伏見の戦いにおいて、姫路藩の軍勢は旧幕軍に加わり、敗走した。藩主酒井忠惇(ただとう)は、徳川慶喜の大阪城脱出に随行し江戸に向かった。同年一月十日、征討総督府は、佐幕的態度をとる伊予松山藩、高松藩、大垣藩、姫路藩を討つように薩摩・長州・土佐・芸州・因州・津藩に命じた。さらに十二日には播磨龍野藩、備前岡山藩に姫路攻めを応援するよう命が下った。
 これを受けて姫路藩では、藩主不在の中、重臣が会議を重ね、全藩恭順の方針を固めた。しかし、追討軍主力の長州藩はそれを許さず、飽くまで兵力をもって決着をつけるよう通告した。やむなく岡山藩では空砲を交えて姫路城に向けて砲撃を加えた。この時、姫路城は福中門の鯱瓦が壊れるといった軽い損害が出たという。
 姫路藩では徹底抗戦を叫ぶ藩士もいたが、結局家老二人が使者として征討軍に赴き、降伏を申し入れ、開城と武器引き渡しを誓った。開城後、藩庁は慶雲寺に移された。


慶雲寺

(仁寿山)


仁寿山校阯碑

 山陽電鉄白浜の宮駅を降りて、北に三十分ほど歩くと、お椀を伏せたような山に出会う。これが仁寿山(標高174メートル)である。


仁寿山

 仁寿山の麓にかつて仁寿山黌という学校があった。仁寿山黌は、文政五年(1822)、家老の河合寸翁が開いたものである。頼山陽など有名な学者も特別講義を行ったが、寸翁の死後廃校となった。寄宿舎は藩校好古堂に移され、医学寮のみ現地に残された。現在は井戸と土塀の一部だけが残されている。
 河合家の墓所を探して、早朝から附近を歩き回った。近くでゴミ出しをしていたご婦人に聞いたところ、
「河合家のお墓は、ここにはない」
という。少し離れた兼田の方にあるという。既に集合時間が迫っており、今から兼田まで行っている時間はなかった。河合家墓所は次回の課題ということで、今回は見送ることにした。

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日野

2016年10月14日 | 鳥取県
(泉龍寺)


泉龍寺

 本圀寺にて重臣黒部権之介らを斬った因藩二十士は、黒坂(現・日野町黒坂)泉龍寺に幽閉された。今も二十士の遺品や遺墨が保存され、平成二十五年(2013)、本圀寺事件から百五十年を記念して、本堂前に「平成維新碑」が建てられている。


平成維新碑

 平成維新碑の前に置かれているピストルは、ベルギー製のルフォショーという拳銃で、河田左久馬が所持していたものである。


供養碑

 平成維新碑の前には、玄武岩の六方石二十八柱が置かれている。それぞれ尊攘派二十二士と討たれた側の佐幕派重臣五名の名前が刻まれている。

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松江

2016年10月14日 | 島根県
(松江城)


松江城

 久し振りの島根県である。これまで四十七都道府県を踏破した私であるが、全ての県庁所在地を歩き、残すは松江だけとなった。前日、鳥取県の米子に宿をとり、早朝松江に向かった。
 松江城は、現存する十二の天守のうちの一つ。これで「現存十二天守」の踏破も達成した。日本百名城の一つに数えられ、国宝にも指定されている。派手さはないが、質朴重厚な城である。


堀尾吉晴像

 松江城は、関ヶ原の合戦で武功をたてた堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が慶長五年(1600)に出雲・隠岐両国に封じられた。慶長十二年(1607)から足かけ五年を費やして築城された。完成は慶長十六年(1611)。堀尾忠氏は慶長九年(1604)に急死したが、父堀尾吉晴が築城工事を引き継いだ。松江城前には、工事を指揮する吉晴の銅像が建てられている。
 堀尾吉晴が死去すると嗣子がなかったため、京極氏に引き継がれたが、やはり嗣子がなく断絶。その後、松平氏が十代続いて松江藩を治めた。
 松江藩主松平氏は、徳川家康の二男結城秀康の子、松平直政を祖とする。第七代藩主治郷は、不昧という名を持つ茶人としても有名であった。
 幕末の藩主は、十代松平定安。親藩であり佐幕色の強い藩であり、長州征伐にも出兵した。しかし、大政奉還後、藩論を勤王に転換した。しかし、不明瞭な態度が官軍の疑惑を招き、慶応四年(1868)、山陰道鎮撫使西園寺公望が松江・浜田藩の調査に来た際、たまたま松江藩の軍艦八雲丸が鎮撫使滞陣地近くの丹後宮津に寄港したため、「其意不審」として捕えられた。この頃、上洛した定安が山陰道を通って西下していた鎮撫使一行を迎えても挨拶もせず通過したという事件が重なった。いずれも、事情を知らずに起こった偶発的事件であったが、松江藩の立場は非常に苦しいものとなり、苦心の末、苦境を切り抜けることになった。


興雲館

 松江神社横の白亜の洋館は、明治三十六年(1903)、松江市工芸品陳列所として建てられた建物である。明治天皇の行在所として使用する目的でつくられたため、装飾・彫刻を多用した華麗な仕上げとなっている。明治天皇の巡行は実現しなかったが、その後皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰道行啓にあたって旅館として利用された。


西南戦争碑

 興雲閣の前に建つ円形の碑は、松江と西南戦争の関わりを記したもの。明治十九年(1886)、当時の島根県知事籠手田安定(平戸藩士。維新後は、滋賀県知事や島根県知事等地方官を歴任)が浄財を募り、明治二十一年(1888)に建立されたものである。

(武家屋敷)
 松江城の北側に、二百石から六百石の中級武士の屋敷が並ぶ武家屋敷があった。今も昔ながらの屋敷が残されている。


武家屋敷

(小泉八雲記念館)
 武家屋敷の並びに小泉八雲の旧居跡と記念館がある。
 小泉八雲(アイルランド名ラフカディオ・ハーン)は、英語教師として松江に赴任し、セツ夫人と結婚した後、かねてからの念願であった武家屋敷を求めて、この屋敷を借りて暮らした。当時この屋敷は旧松江藩士根岸家の持ち家で、あるじ干夫は簸川郡(現・出雲市)の郡長に任命され任地に赴任していたため、たまたま空き家であった。


小泉八雲記念館


小泉八雲胸像

(月照寺)


月照寺

 月照寺は、もと洞雲寺と称したが、松平直政が生母月照院の霊牌を安置するため、寛文四年(1664)、改称復興したものである。以来、松江藩主松平家の菩提所ならびに念佛道場として、江戸時代二百年間、尊崇を受けて来た。
 境内の松平家墓所には、九代にわたる藩主の廟が整然と鎮座している。歴代藩主および夫人の奉献した宝物を展示する宝物殿もある。
 私が月照寺を訪れたのはまだ拝観時間前で境内に入ることは叶わなかった。


雷電の碑

 門前には雷電之碑がある。雷電は天明八年(1788)、二十二歳のとき、松江藩主松平治郷(不昧公)にお抱え力士として召し抱えられ、不昧公より雷電為右衛門の名前を賜った。二十一年間、三十四場所の土俵生活で、二百五十八戦のうち負けたのはわずかに十回で、その勝率は古今の相撲史上第一位である。

(禅慶院)
 鹿島町手結の浦は、因藩二十士のうち詫間樊六以下五名が、本圀寺事件で暗殺された黒部権之介や早川卓之丞の遺族らによって斬殺された場所である。禅慶院の本堂裏の坂を上ると、突き当りの小高い場所に彼らの墓がある。


禅慶院


遺蹟保存会の建てた顕彰碑


詫間樊六ほか四士の墓

 ここに葬られているのは、詫間樊六、太田権右衛門、吉田直人、中野治平、中原忠次郎の五名。中原忠次郎は、因藩二十二士ではないが、二十士が橋津から脱出する際に支援した「義人」である。手結に奇港した際、現地の役人に怪しまれたため、交渉の結果、この五人が手結に残り、ほかは長州へ向かうことになった。どういう基準で五人が選ばれたのかはよく分からないが、ここで手結に留まったことが、彼らの命を縮めることになった。黒部権之介らの遺族は、詫間ら五人を討ち取り、報復を果たしたのである。

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境湊

2016年10月14日 | 鳥取県
(境台場跡)


境台場跡

 境湊にも幕末鳥取藩の築造した台場がある。境台場は、文久三年(1863)に構築されたもので、広さ一・四五ヘクタールの地を土塁で囲み、土塁の上に十八斤砲二門、六斤砲一門、五寸法五門が据えられていた。これは同じ年に築かれた藩内の台場の中でも最大かつ厳重に装備されたものであった。弓浜地方の村人を総動員して半年ほどで完成させ、また農兵隊が組織されて守備に当たっていた。南側の土塁の上にある一本の黒松は、境台場が築かれた頃に植えられた際に植えられたものと伝えられ、その姿から「連理の松」と呼ばれている。


連理の松

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米子

2016年10月14日 | 鳥取県
(御台場公園)


淀江台場跡

 淀江台場は、藩内八カ所に設置された台場の一つで、境台場と同じく、松波宏元の設計で、宏元の父である今津村大庄屋松波宏年が土地を無償提供した。文久三年(1863)に完成後、松波が率いる農兵松波隊が守備した。現在残る遺構は、高さ約四メートル、幅約二十四メートル、幅約二十四メートル、長さ六十七メートルという土塁である。
 松波宏年は、慶応二年(1866)の第二次長州征伐、さらに慶応四年(1868)の戊辰戦争でも幕府軍として出征した。

(米子城)


米子城跡

 米子城は、伯耆国守護山名教之の配下の山名宗之によって、標高九〇・五メートルの湊山に応仁年間から文明年間(1467~1487)に築かれたと伝えられる。その後、天正十九年(1591)には、吉川広家が新たに築城を始めたが、関ヶ原の戦後、広家は岩国に転封となり、代わって伯耆十八万石の米子城主となった中村一忠が築城を続け、慶長七年(1602)に完成させた。当時は五重の天守と四重櫓の副天守を備えた威容を誇っていたという。江戸時代に入ると、慶長十五年(1617)には加藤貞泰が入城。その後、池田光政の一族が継いだが、寛永九年(1632)以降は、鳥取藩家老職の荒尾氏が城代として米子城を預かった。明治になって城郭は全て取り壊されたが、往時そのままの石垣を見ることができる。またここから見下ろす米子市街の眺望は素晴らしい。


米子城


米子市街

(了春寺)
 了春寺は、米子城主荒尾氏の菩提寺である。墓地をいくら探しても荒尾氏の墓地が見つからない。墓参りに来ていた老人に訪ねたところ、本堂前の道を真っ直ぐ行けば、右手にあると教えていただいた。


了春寺

 荒尾家墓地には十五基の墓碑が整然と並ぶ。荒尾氏は、寛永九年(1632)以来、明治維新に至る二百四十年間、米子の城主として勢威を誇った。鳥取藩の首席家老として屋敷は鳥取に持っていたが、墓は米子の了春寺に有した。


荒尾家墓地


舊米子城主在原朝臣荒尾成冨墓

 米子城最後の城主は、米子荒尾氏十一代成冨。慶応三年(1867)家督を相続し、父成裕とともに国事に参政した。慶応四年(1868)、山陰道鎮撫使との折衝では、米子・松江に随行し、同年四月には答礼使として京都に赴いた。明治二十六年(1893)、五十一歳にて死去。すぐ近くに息荒尾成文の墓もある。


村河與一右衛門尉直方墓

 荒尾家墓地の近くに村河直方の墓がある。
 村河直方は、文政七年(1824)に生まれ、嘉永元年(1848)家を継ぎ、米子の藍座・蝋座・木綿座の経営、また人参栽培等に努めた功により、家老職米子荒尾家より家禄百石の加増、新田四町歩、人数召抱の賞を受けた。元治元年(1864)、禁門の変後、長州藩士の帰国を擁護した。征長の役に際しては、一書を米子荒尾家に提出して征長の不可を説いた。そのため藩当局から閉門を命じられたが、中岡慎太郎、河上彦斎らを通じて長州と連絡をとった。慶応三年(1867)、大山寺を中心とする挙兵計画をたてたことが発覚、そのため米子荒尾邸内にて村河氏の一族により暗殺された。年四十四。

(中国電力米子営業所)


中江藤樹先生成長之地

 近江聖人中江藤樹は、幼少の頃、米子城主加藤貞泰に仕えた祖父吉長とともに米子に住み、学問に励んだ。中江藤樹の遺徳を偲び、昭和四十五年(1970)、加茂二丁目のこの一角に碑が建てられた。

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北栄

2016年10月14日 | 鳥取県
(お台場公園)


由良台場跡

 お台場公園は、東京の専売特許ではない。実は鳥取にもお台場公園がある。由良台場周辺は、テニスコートやゲートボール場、遊具広場などを備えた広大な公園となっている。さらに青山剛昌ふるさと館や「道の駅大栄」も隣接しており、私が訪れた時は夏休み中の週末ということもあって、駐車場が満杯になるほどの混雑であった。
お目当てはもちろん由良台場であるが、せっかくなので青山剛昌ふるさと館に立ち寄ってみた。漫画家青山剛昌は、「名探偵コナン」の原作者で、ここ北栄町の出身である。(厳密には境湊だが)水木しげるの出身地である米子では、空港を「米子鬼太郎空港」とネーミングしているが、それに対抗してというわけではないだろうが、鳥取の空港は「鳥取砂丘コナン空港」というのである。実は高校生になる次女が「名探偵コナン」の大フアンで「将来の夢は?」と聞かれると「名探偵」と答えるほどであった(単なる「探偵」ではなくて「名探偵」である)。さすがに高校生になった今は「名探偵」を目指していないが、「名探偵コナン」への愛は変わらない。娘への土産を入手するために、ほんのちょっと立ち寄ったつもりであったが、土産物のショップは一際混雑していた。やっとのことで「コナンせんべい」とキャラクターグッズを購入することができた。


青山剛正ふるさと館


台場公園の大砲

 鳥取県内に残る台場跡の中でも、もっとも原型を残しているのが由良台場である。由良台場には七門の大砲が配備されていた。鳥取藩では安政四年(1857)六尾村に二基の反射炉を完成し、その後十年間にわたって約二百門の大砲が製造された。主に藩内八カ所の台場に設置されたが、藩外からの注文にも応じていたという。由良台場公園に展示されている大砲は、砲身三メートル、口径三十五センチ、重量約二トンという、当時最大級のものを復元したものである。
 由良台場は、武信潤太郎の指揮のもと、文久三年(1863)から築造が始められたが、藩財政が窮乏していたため、藩からの出資金無しに工事は進められた。男女問わず、十六歳から五十歳までの農民が動員され、その延べ人数は七万五千余人に及んだとされる。人夫賃等の費用は、中・大庄屋、豪農らの献金によってまかなわれた。翌年完成した台場は、東西一二五メートル、南北八三メートル、周囲に高く土塁を巡らせ、その高さは四・五メートルに及んだ。台場内側は三段になっており、砲座を中段から上段にかけて設け、そこに計四門の大砲が配置されていた。

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湯梨浜

2016年10月14日 | 鳥取県
(西向寺)


西向寺


因藩勤王二十二士之碑

 湯梨浜町松崎の西向寺本堂の前に因藩二十二士之碑が建てられている。幕末の松崎領主和田邦之助が藩内の勤王派を支援していた関係から、昭和二十七年(1952)この場所に建碑されたものである。石碑の前面には因藩の勤王派二十二士の名前が刻まれ、裏面には勤王派の事績が簡単に記されている。この碑文によれば、文久三年(1863)、攘夷親征の大詔が煥発されると、鳥取藩では藩を二派に分かれることになった。当時、在京の勤王派藩士は、君側の奸を除くことを急務と考え、京都本圀寺において黒部権之進ら数名を暗殺した(本圀寺事件)。この後、新庄は金策に出て帰らず、また奥田は自刃したため、彼らを除く二十名を「二十士」とも称する。二十士は鳥取を脱し、長州に逃走を謀ったが、出雲手結の浦にて復仇に遭い、詫間樊六、太田権右衛門、吉田直人、中野治平の四名はそこで討たれた。松江市鹿島町手結の禅慶寺に彼らの墓がある。
碑文に刻まれた二十二士の氏名は以下のとおりである。

河田景與 河田景福 足立正聲 中井範五郎 太田権右衛門 中野治平 詫間樊六 吉田直人 佐善修蔵 奥田萬次郎 加須屋右馬允 伊吹市太郎 清水乙之允 吉岡平之進 加藤助之進 澁谷平蔵 澁谷金蔵 永見和十郎 大西清太 山口謙之進 新庄恒蔵 塩川孝治

(羽合臨海公園)
 日本のハワイである。といっても、常夏の島でもなく、ワイキキのビーチがあるわけでもないが、ここには温泉がある。


橋津台場跡

 鳥取県沿岸の台場跡の二つ目は、橋津台場跡である。羽合臨海公園内にある。
 文久三年(1863)、大阪の天保山砲台を警備していた鳥取藩の警備隊がイギリス船に向けて発砲するという事件が起きた。報復を恐れた藩では、急遽大誠村瀬戸(現・北栄町瀬戸)の竹信潤太郎に相談し、農民の協力を得ることに成功し、由良台場、橋津台場を次々と築造し、同年末までに藩内八箇所の台場が完成した。このうち由良台場はほぼ完全な形で残っているが、浦富、橋津台場はおおよその原形ととどめている。橋津台場は、築造当時の図面が現存していない上に、波の浸食により約三分の一が流出していて本来の形状が長らく不明であったが、明治二十五年頃の図面が見つかり、由良台場と似通った形状であったことが判明している。


明治百年記念 因幡二十士来舩之地

 本圀寺にて黒部権之介らを暗殺した因藩二十士は、その後黒坂の泉龍寺、荒尾家に幽閉されたが、幕府が第二次長州征伐の兵を起すことを知った彼らは脱出して長州へ向かった。彼らは橋津から出航した。この石碑は、明治百年、即ち昭和四十三年(1968)に羽合町によって建立されたものである。


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鳥取 Ⅱ

2016年10月08日 | 鳥取県
(景福寺)
 景福寺は、鳥取藩池田家家老荒尾志摩守家の菩提寺で、墓地には荒尾家代々の墓のほか、大阪夏の陣で戦死した後藤又兵衛基次とその妻子の墓や島原の乱に出征した藩主佐分利九允の墓など、歴史を物語る墓が多い。


景福寺


後藤又兵衛基次と妻子の墓


島田元旦墓

 島田元旦(げんたん)は、安永七年(1778)元旦に生れたことから、画号を元旦と称し、この墓にも「元旦墓」と刻されている。江戸画壇の巨匠谷文兆の実弟で、幼少より御三卿の一つ、田安家に仕え、やがて普請奉行にまでなった。父木修、兄文兆に就いて学問、絵画を学び、十三歳のとき京都で円山応挙に師事し、応挙没後は沈南蘋の画法を極めて江戸に帰った。寛政十一年(1799)、幕府の蝦夷地調査に加わって、測量に従事する傍ら、山水、草木、禽獣、虫魚、原住民の風俗等、絵筆に写し、また土語を採輯して、日本における最初のアイヌ語辞典と称すべき報告書を作成した。帰国後、鳥取藩江戸留守居約島田図書の養子となった。四十二歳のとき、養父が没し、家督を継いで五百石を賜った。天保十一年(1840)、六十三歳にて没。


井上静雄源尚友

 井上静雄は、戊辰戦争において小隊司令長官。慶応四年(1868)五月二十六日、箱根で負傷。横浜病院に運ばれたが、六月十二日死亡。


贈正四位 三相両州御軍監中井範五郎正良墓

 中井範五郎は天保十一年(1840)の生まれ。永見和十郎は実兄。文久三年(1863)藩命により吉岡正臣らと勝海舟の門に入る。同時に藩の周旋方に任じられたが、同年八月十七日、実兄永見和十郎(明久)とともにいわゆる二十二士の一人として藩の重臣黒部権之介らを京都本圀寺にて暗殺。京都、黒坂、鳥取に幽居ののち、慶応二年(1866)七月、脱走して岡山に潜み、家老伊木忠澄に頼り、大村益次郎に西洋兵学を学んだ。慶応四年(1868)二月、大赦により赦され鳥取藩に復籍。戊辰戦争に参加、東山道先鋒隊に属した。江戸到着後、大総督府監軍となり、五月二十日、箱根の幕軍を攻めようとした時、小田原藩兵によって箱根で殺害された。年二十九。

(JAグリーン千代水店)
 農産物を売るJAグリーン千代水店の南側に小さな墓地があり、そこに山口謙之進の墓がある。


山口遊圃(謙之進)之墓

 山口謙之進は、諱を正次、守人とも称した。天保九年(1838)の生まれ。父山口虎夫について砲術を学び、文久三年(1863)、藩命により吉田直人、中井範五郎らと大阪に赴き、勝海舟について海防学を学んだ。まもなく大砲鋳造の藩命を受けて京都に赴いた。文久三年(1863)八月十七日、河田左久馬らとともに藩内の守旧派の重臣を斬殺。慶応四年(1868)、赦されて帰藩し、郷里で新たに兵を募って小隊を編成し、司令官となって江戸に赴き皇居を守備した。明治四年(1871)丹後・丹波の農民騒動鎮圧には小隊を率いて出張し、その後も各地の農民騒動を鎮圧した。明治三十三年(1900)、六十三歳で没。墓石の傍らには「嗚呼維新 山口謙之進正次 英傑悠久」と記されている。

(玄忠寺)
 玄忠寺の門を入って左手には、鍵屋の辻の仇討で助太刀をした荒木又右衛門の墓がある。


玄忠寺


荒木又右衛門の墓


近藤家累代墓(近藤類蔵)

 墓地奥の近藤家累代の墓に近藤類蔵が葬られている。近藤類蔵は、砲隊長として戊辰戦争に出征。慶応四年(1868)七月二十六日、磐城広野にて戦死。

(妙玄寺)


妙玄寺


堀庄次郎墓

 妙玄寺の堀家の墓地に堀庄次郎の墓がある。堀庄次郎は、天保元年(1830)の生まれ。二宮元助、芦川重周に学び、弘化三年(1846)、家を継いで、翌年には十八歳にして学館で講義を行った。同五年(1847)、学館御趣向御用掛、御居間講釈となり、学制改革に尽くした。安政元年(1854)、昵近、藩主池田慶徳に「献芹鄙策二十ヶ条」を上申。安政四年(1857)、江戸詰、同六年(1859)、学校文場学正。万延元年(1860)、諸奉行格、元治元年(1864)、目付役となった。同年の禁門の変に際し、京都にあって鳥取藩の長州藩加担を許さず、八月に帰国。第一次征長の役にあたり、藩の方針である長州出兵を支持推進したと誤解され、沖剛介、増井熊太に襲われ暗殺された。年三十五。

(広徳寺)


広徳寺

 伊藤猪吉は、戊辰戦争に河田左久馬隊砲手として出征。佐分利鉄次郎隊に属した。慶応四年(1868)五月十五日、江戸上野山で負傷。同月二十四日、横浜病院で死亡。


伊藤猪吉墓

(池田家墓所)


池田光仲墓


池田家墓所

 池田家墓所には、初代光仲以下十一代慶栄に至る歴代藩主と夫人等の墓碑のほか、寄進された多数の石燈籠が整然と並ぶ。藩主の墓碑は、いずれも亀趺円頭型の重厚なものである。
没年と見ると、八代藩主斉稷(なりとし)が天保元年(1830)に四十三歳で没して以降、九代斉訓(なりみち)、十代慶行(よしゆき)、十一代慶栄(よしたか)は、いずれも十一歳、十七歳、十七歳の若年で急死している。幕府の仲介により、嘉永三年(1850)水戸徳川家より慶徳(慶喜の兄弟)を藩主に迎え入れることになった。このことが鳥取藩を幕末の複雑な政局に巻き込まれる原因となった。


栄岳院殿穆雲光澤大居士之塔(池田慶栄墓)

 池田慶栄(よしたか)は、嘉永元年(1848)、僅か十七歳で急逝した前藩主慶行の後継として、幕府より加賀中納言前田斉泰の二男喬心丸を藩主とし、これに分知家壱岐守仲律の娘延子を娶せるよう指示があった。国表では根耳に水の驚きであったが、鳥取池田家としては初めて他家より藩主を迎えることになった。喬心丸は、嘉永二年(1849)将軍家慶の前で元服の儀式を行い、従四位侍従に任じられ、将軍の一字を賜って慶栄と名乗った。嘉永三年(1850)、藩主となって初めて国入りが許可され、帰国の途についたが、京都伏見藩邸で病気に罹り急死した。前藩主と同じく十七歳の若さであった。鳥取藩士が慶栄の養子を喜ばす、毒殺したなどという噂が流れ、慶栄の母である前田家の溶姫(将軍家斉の娘)などはそれを信じていたという。

 最後の鳥取藩主池田慶徳(よしのり)は、水戸斉昭の五男五郎麿。異腹弟七郎麿はのちの十五代将軍慶喜である。池田慶栄が急死すると、幕府は慶徳に命じて、嘉永三年(1850)家督を相続した。慶徳は父斉昭の天保の改革をモデルにして、藩政改革に乗り出した。安政元年(1854)、幕府が日米和親条約を締結したことに対して、当時十八歳であった慶徳は、攘夷の立場から遺憾の意を表明する意見書を提出し、攘夷論者として知られることになった。一方、実弟慶喜が徳川家を継いで十五代将軍となると、慶徳は、攘夷であり佐幕という微妙な立場に置かれた。藩主の政治的不安定さは、藩内の政治バランスにも影響が及んだ。本圀寺事件やその後の報復事件など、藩内抗争が続発したが、藩主は両派を統制しきれなかった。慶応四年(1868)七月、鳥取藩は明治天皇の東京行幸供奉を命じられた。これを機に慶徳は上洛して、直接新政府と連絡を取るようになり、明治二年(1869)には新政府の議定に任じられた。明治十年(1877)八月、明治天皇の還幸を神戸まで奉送する際、肺炎にかかり京都で逝去。最初、東京の弘福寺に葬られ、のちに多磨霊園に改葬されたが、平成十五年(2003)、鳥取市大雲院に改葬された。
 実は今回大雲院まで行ったのだが、慶徳の墓の撮影はできなかった。次回の課題である。

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