(善導寺)
善導寺
贈従四位河合(惣兵衛)宗元君之墓
善導寺本堂前に河合惣兵衛の墓がある。河合惣兵衛は文化十三年(1816)の生まれ。和漢の学問に通じ、武芸にも連達していた。勘定奉行、宗門奉行、物頭持筒頭などを歴任。同志秋元安民とともに尊王を唱え、文久二年(1862)藩主酒井忠績に随従して上洛し、国事に奔走。藩主に尊攘の大義を説いて諫言したが、かえって忌避され、国許に返された。文久三年(1863)春、江坂元之助、伊舟城源一郎、市川豊次らを伴って再び上洛し、久坂玄瑞、宮部鼎蔵らと尊攘運動に尽力し、ついで姉小路公知が暗殺されると、朝命をもって犯人の糾問に従事した。同年八一八の政変により七卿が西下すると、これに随従しようとしたが、三条実美に諭されて果たせなかった。次いで藩命をもって江戸に祗役し、藩主に建言して攘夷の決行を幕府に促すことを請うたが容れられず、病と称して国許に帰った。元治元年(1864)、養子伝十郎の脱藩に連座して。千種家賀川肇、処士家里松嶹斬殺事件の指導者として捕えられ入獄。自刃を命じられた。年四十九。
贈正五位河合傳十郎宗貞之墓
墓地の河合家総墓の傍らに河合伝十郎の墓がある。門前の市教育委員会の説明に、「平成十六年(2004)、没後百四十年に際し、景福寺にあった伝十郎墓標の移転法要が行われた」とあるので、かつて景福寺墓地にあったものらしい。
河合伝十郎は天保十二年(1841)の生まれ。父は境野求馬、河合惣兵衛の養子となった。槍術に達し、藩より無辺流の槍術専業生に挙げられ、萩原虎六と九州諸藩を遊歴して技を磨いた。文久二年(1862)、藩主酒井忠績の洛中取締を命じられると、養父惣兵衛とともに上洛し、禁闕を護衛し、同藩尊攘派として謀議に加わり、諸藩の間に周旋した。文久三年(1863)、勤王党同志とともに姫路藩御用商人紅粉屋又左衛門を暗殺して自首。親類預けとなったが、のち赦され再び上洛した。ついで同年八一八の政変に際し、七卿落ちに随行を請うたが許されなかった。大和天誅組の謀議にも与り、軍資金の調達に奔走した。元治元年(1864)、同志の江坂栄次郎とともの脱藩し、兵庫に至って勝海舟の宅に投じ、次いで大阪土佐藩邸に潜伏中、実父境野求馬が藩論の不振を嘆いて自殺したのを知り、長州に走ろうとした時、藩吏の追捕を受けて下獄。甲子の獄で斬に処された。年二十四。墓石には辞世が刻まれている。
此のままに 身は捨るとも いき変り
ほふりころさむ 醜のやつ原
江坂壽山碑
本堂前に江坂壽山碑があるが、江坂栄次郎、江坂元之助兄弟と何らか関わりがあるものか、確認が取れず。
(河合橋東詰)
河合惣兵衛邸址
市内神屋町四丁目の河合橋の東に小さな公園がある。河合惣兵衛の屋敷跡で、公園の一角に旧邸跡を示す石碑が置かれている。
(外濠公園)
尽忠報國碑(河合惣兵衛顕彰碑)
外堀公園に河合惣兵衛の顕彰碑が建てられている。この碑はかつて旧河合邸跡に建立されていたものであるが、昭和二十年(1945)の敗戦を迎え、占領政策により一時除去され、碑石のみが護国神社本殿東側に放置され苔むしていた。昭和四十三年(1968)、明治百年に当り、河合惣兵衛の偉勲を偲び、かつこれを長く後世に伝えるため、広く浄財を募りこの公園内に再建された。
(妙円寺)
妙円寺
伊舟城源一郎墓
伊舟城(いばらき)源一郎は、天保元年(1830)姫路藩士の家に生まれた。幼時より国学を好み、武芸にも長じた。文久二年(1862)の夏、藩主酒井忠績に随従して京都に上り、水戸藩原市之進、長州藩佐々木男也らと交わり、藩内少壮派を率いて尊攘活動に奔走した。文久三年(1862)の春、河合惣兵衛が上京するや、再び京都に出て国事に奔走した。八一八の政変で七卿が西下するや、河合とともに随行を願ったが抑止された。ついで藩命により河合と水戸に祗役、元治元年(1864)、千種有文の臣賀川肇、処士家里松嶹らを殺害したことが発覚して藩の獄に投じられ、斬に処された。年三十五。
(景福寺)
景福寺に境野求馬、江坂栄次郎の墓を求めて境内を歩いた。景福寺の墓地は古い墓石を一か所に集め、かなり整理されている。墓地には数えるほどしか墓石が残されていないが、そこには境野求馬のものはなかった。諦めて車に戻ったが、念のために裏山も見ておきたいと思い直して裏山に入った。そこは古い墓の宝庫であった。藪蚊が多いのが難点であるが、いくつかには説明のプレートが取り付けられているので、(防虫対策をしっかりした上で)ゆっくり時間をかけて歩くことをお勧めする。
景福寺
贈正五位境野求馬意英之墓
境野求馬(もとめ)は、文化七年(1810)、累世藩重職の家に生まれ、求馬も物頭役、小姓頭役を経て番頭役となり、姫路藩首席家老の姉を娶った。文久二年(1862)、藩主酒井忠績に従い京都の居宅において尊攘派志士と交わった。同藩の河合屛山(良翰)、河合惣兵衛らと諸藩の間を周旋したが、藩首脳部の姫路藩勤王派への弾圧厳しく、たまたま元治元年(1864)の春、実子河合伝十郎(惣兵衛の養子)が京都を脱して長州に投じたためにますます嫌疑を受け、また部下の荒井某の反覆のため勤王派は壊滅した。この責任を取り、藩主に宛てて勤王の大義を説く諌書を残して切腹した。年五十五。
贈正五位江坂栄次郎行正之墓
境野求馬の墓のすぐ近くに江坂栄次郎の墓がある。江坂栄次郎は天保十四年(1843)、江坂善蔵の子に生まれた。兄に江坂元之助がいる。砲術に長じ、尊攘論を唱えて藩の上士と意見合わず、文久三年(1863)、同志とともに、佐幕派の家老高須隼人に阿諛してその庇護を受け、米の買い占めなど私曲の多かった用達紅粉屋又兵衛に天誅を加え、尊王倒幕の血祭りに挙げた。のち河合伝十郎とともに脱藩して、神戸海軍操練所に入った。長州に走ろうとして大阪の土佐藩邸に潜伏中、藩吏の追捕を受けて投獄され、河合とともに斬に処された。年二十二。
善性院楫水居士(井上元長の墓)
井上元長は、嘉永三年(1850)に姫路藩に開かれた種痘館において、橘三折、太田泰淳らとともに種痘を施した。井上元長は三人のうちもっとも遅れて参加したが、年齢も若い分、明治以降も種痘医として活躍した。安政四年(1857)には幕府の蝦夷地種痘に、師の蘭方医桑田立齋と参加し、師が帰った後も蝦夷地に残ってアイヌの人々を天然痘の惨禍から救った。
中新井糺君之墓
中新井糺は、通称杢右衛門。旧藩時代は参政より権大参事に任じられ、廃藩後、酒井家に従って東京に移住した。加古郡母里村の新田開発に便宜を図った。明治十六年(1883)没。
劣齋渡部先生墓
渡部劣斎は、文化九年(1812)生まれ。名は璋、圭輔と称した。劣齋は号である。永根伍石、文峯父子に書法を学び、嘉永四年(1851)、藩校好古堂書学寮教授に就任した。門弟はおよそ千人。明治十四年(1881)没。
(正明寺)
今年の全社野球大会は播磨事業所(兵庫県加古川市)で開催された。前の週に練習中にギックリ腰になってしまったが、我がチームは八人しか集まらず ――― つまり、初めから人数が不足していた ――― その上欠員を出すわけにはいかなかったので、腰が曲がらない状態で出場した。走るとその振動で腰に痛みが走り、ゴロも取れないような状態であったが、どういうわけだか、数年振りにクリーンヒットを打つことができた。
集合時間の前に山陽鉄道に乗って姫路まで往復した。起床は四時四十分。五時十八分、高砂駅発の始発に乗った。
正明寺
JR播但線京口駅を降りて数分のところに五軒邸町がある。ここは姫路の寺町である。この一角に正明寺がある。
正明寺に、姫路勤王派の一人、「明治維新人名辞典」に江坂元之助の墓があるとあったので、墓地を歩いてみた。二巡したが、発見できず。
(慶雲寺)
慶応四年(1868)一月の鳥羽伏見の戦いにおいて、姫路藩の軍勢は旧幕軍に加わり、敗走した。藩主酒井忠惇(ただとう)は、徳川慶喜の大阪城脱出に随行し江戸に向かった。同年一月十日、征討総督府は、佐幕的態度をとる伊予松山藩、高松藩、大垣藩、姫路藩を討つように薩摩・長州・土佐・芸州・因州・津藩に命じた。さらに十二日には播磨龍野藩、備前岡山藩に姫路攻めを応援するよう命が下った。
これを受けて姫路藩では、藩主不在の中、重臣が会議を重ね、全藩恭順の方針を固めた。しかし、追討軍主力の長州藩はそれを許さず、飽くまで兵力をもって決着をつけるよう通告した。やむなく岡山藩では空砲を交えて姫路城に向けて砲撃を加えた。この時、姫路城は福中門の鯱瓦が壊れるといった軽い損害が出たという。
姫路藩では徹底抗戦を叫ぶ藩士もいたが、結局家老二人が使者として征討軍に赴き、降伏を申し入れ、開城と武器引き渡しを誓った。開城後、藩庁は慶雲寺に移された。
慶雲寺
(仁寿山)
仁寿山校阯碑
山陽電鉄白浜の宮駅を降りて、北に三十分ほど歩くと、お椀を伏せたような山に出会う。これが仁寿山(標高174メートル)である。
仁寿山
仁寿山の麓にかつて仁寿山黌という学校があった。仁寿山黌は、文政五年(1822)、家老の河合寸翁が開いたものである。頼山陽など有名な学者も特別講義を行ったが、寸翁の死後廃校となった。寄宿舎は藩校好古堂に移され、医学寮のみ現地に残された。現在は井戸と土塀の一部だけが残されている。
河合家の墓所を探して、早朝から附近を歩き回った。近くでゴミ出しをしていたご婦人に聞いたところ、
「河合家のお墓は、ここにはない」
という。少し離れた兼田の方にあるという。既に集合時間が迫っており、今から兼田まで行っている時間はなかった。河合家墓所は次回の課題ということで、今回は見送ることにした。