今回、お盆に帰省したのを機に、鳥取県史跡探訪を敢行することにした。早朝三時半に京都を出て、途中兵庫県朝来市山東町の史跡に立ち寄った後、国道9号線をひたすら北上する。第一目的地である岩美町の浦富海岸に着いたのは、午前七時半のことであった。
鳥取に来たのは、昭和四十七年(1972)以来である。このときは家族といとこの家族で、浜村温泉(鳥取県鳥取市)に宿泊し、翌日鳥取駅経由で関西に帰るというスケジュールであった。古いアルバムに残る記録によれば、このとき浦富海岸や鳥取砂丘を見学したことになっているが、ほとんど記憶にない。唯一覚えているのは、当時八歳だった弟がホテル内で迷子になり、従業員に部屋まで連れて来られたことだけである。
ともかく私にとって四十五年振りの鳥取県ということになり、四十七都道府県のうち、最も足が遠ざかっていた場所である。鳥取県を訪問することで、ようやく四十七都道府県の史跡を訪ねたことになる。パズルにたとえると最後のピースがはまったような快感である。勿論、訪問すべき史跡は山ほど残っており、私の史跡訪問の旅は、まだまだ終わりが見えない。
(最勝院)

最勝院

適處正墻先生之墓(正墻薫の墓)
鳥取市内の最初の訪問地は、湯所町の最勝院である。墓地に正墻薫の墓がある。
正墻薫は、文政元年(1818)元旦、鳥取藩医正墻泰庵の子に生まれた。雅号は適処。少壮より武技を好んで、家業の医を修めず、大阪で藤沢東畡に学び、江戸では佐藤一斎に師事。弘化二年(1845)、江戸昌平黌に入学した。のち大阪で篠崎小竹の塾の塾頭となった。嘉永二年(1849)には姫路仁寿山黌に招かれ、教務を統べた。嘉永六年(1853)、学校吟味役文場掛、この間尚徳館の学制改革に貢献した。文久元年(1863)、内命をおび、正木屋薫蔵と変名し、行商を装って九州諸藩の内情を偵察。元治元年(1864)、学校文場学正、同年九月、藩内の尊攘劇派弾圧により免職。厳重謹慎を命じられ、慶応二年(1866)に赦された。慶応四年(1868)五月、産物会所吟味役となり、桑茶樹栽培を奨励し、大船利渉丸建造に尽くした。明治二年(1869)、学館副寮長、翌三年(1870)、村岡藩の招きに応じ、その学事を総括した。明治六年(1873)には伯耆国久米郡松神村に私塾を開き教育に尽くした。明治九年(1876)、年五十九で没。
(鳥取城)

鳥取城
鳥取城は、久松山の地形を利用して築城された山城で、その起源は戦国時代の前期まで遡るといわれるが、史上この城を有名にしたのは、天正八年(1580)豊臣秀吉の兵糧攻めであろう。餓死者が続出したため、時の城主吉川経家は自らの命と引き換えに開城を決意した。江戸時代に入ると、池田光政が城主に任じられ、それまで五~六万石規模であった城を三十二万石に相応しい城郭に改めた。現在も残る石垣など城郭の主要な部分はこの頃に完成したものである。
明治後、城の建物はことごとく取り壊され、残った石垣も昭和十八年(1943)の鳥取大地震で多くが崩落してしまったが、それでも今美しい石垣を見ることができる。仁風閣の前から二ノ丸方面に上ろうとしていると、ボランティアの方に声をかけられ、反対側の鳥取西高校の方から登るように強く勧められた。確かにそこから見上げる石垣は、芸術的といって良いほどの景観である。建物が残っていれば、かなり見事な城郭だったことは想像に難くない。地元の方が、この石垣を見せたい気持ちは分からなくもない。
あまりに私がそわそわしているものだから、ボランティアの方から「お時間はどれくらいありますか」と聞かれたので、「十分」と答えたところ、
「とんでもない。二の丸に上るだけで片道十分はかかります。ま、自分のペースで行ってください」
と見放されてしまった。結果的に往復で十五分を要した。さすがに往復十分は無理でした。

鳥取城二の丸三階櫓跡
二ノ丸には江戸時代前期まで藩主が住み、家老らが政治を司る御殿があった。三代藩主池田吉泰のとき、三ノ丸に移され、享保五年(1720)の火災で焼失し、その後、弘化三年(1846)まで再建されなかった。二ノ丸には三階櫓が立ち、元禄五年(1692)に天守櫓が焼失した後は、鳥取城の天守に代わる象徴的建造物であった。そのため享保五年(1720)の火災の約八年後に三階櫓は再建されている。

仁風閣
仁風閣(じんぷうかく)は、明治四十年(1907)五月、時の皇太子殿下(のちの大正天皇)の山陰行啓に際し、宿舎として、もと鳥取藩主池田仲博侯爵によって建てられた洋館である。設計は片山東熊。仁風閣の名は、行啓に随行した東郷平八郎によって命名されたもので、直筆の額が二階ホールに掲げられている。
(興禅寺)

興禅寺
興禅寺は鳥取藩主池田家の菩提寺であるが、境内に池田家の墓所はない。鍵屋辻の仇討(寛永十一年)で有名な渡辺数馬の墓や疋田流槍術の開祖猪多伊折佐の墓がある。

一岳玄了居士塔(渡辺数馬墓)
有名な伊賀上野鍵屋辻の仇討は、寛永十一年(1634)の朝、十数名の加勢に守られる河合又五郎との間で闘われた。日本三大仇討の一つに数えられる。事件の発端は、寛永七年(1630)七月、備前池田藩の城下岡山で、藩主忠雄の小姓渡辺源太夫を、又五郎が斬って逐電したことに始まる。事件は池田藩と旗本の不穏な対立にまで発展し、この間、池田藩は鳥取・岡山への国替えを命じられている。姉婿荒木又右衛門の助勢で首尾よく仇を報じた数馬は、寛永十九年(1642)、三十五歳で死去。

猪多伊折佐重良墓
猪多伊折佐(いだいおりのすけ)は、疋田流眞理開祖と伝えられる。名を重良といった。疋田文五郎景兼について新陰疋田流刀槍二術の極意を相伝。寛永九年(1632)藩祖池田光仲にしたがって、鳥取にきた。四百石の知行をえて、藩士を指導し、門弟は鈴木庄兵衛を初め多数にのぼった。寛永十年(1633)九月、死去。

贈従四位故米子城主荒尾清心齋在原成裕之墓
渡辺数馬の墓の前をさらに進むと、米子城主荒尾家の墓所がある。
荒尾成裕は、清心斎と称す。伯父荒尾成緒の養子となり、嘉永四年(1851)、家督を継いで米子城代となった。元治元年(1864)には藩主池田慶徳の代理で上京した。明治十一年(1878)、六十五歳で死去。
(鳥取県庁)

箕浦家武家屋敷門
県庁の一画に武家屋敷門が移築されている。これはもと御堀端の南澄にあって、二千石の箕浦近江宅の門として使われていたもので、昭和十一年(1936)に現位置に移築保存されたものである。

藩校尚徳館碑
尚徳館は、宝暦七年(1757)、鳥取藩第五代藩主池田重寛によって創設された藩校である。十二代藩主慶徳のときに学制改革が行われ、万延元年(1860)、この尚徳碑が校内に建立された。文武併進を以って尚徳館の教育の理念とすることが記されている。藩校は明治三年(1870)に至るまで百年以上にわたり、鳥取藩教育の中心であった。
(観音院)

観音院

増井熊太先生墓
観音院の墓地は、急な斜面に作られているが、その最も高いところに増井熊太の墓がある。
増井熊太は、天保十四年(1843)の生まれ。万延元年(1860)、学校小文場句読方手伝を免じられて江戸に赴き、剣を斎藤弥九郎に学んだ。文久三年(1863)、藩主池田慶徳の養母法隆院に従って帰国。元治元年(1864)禁門の変では、藩に従い宮門を護衛した。当時、鳥取藩は勤王と佐幕の二派が対立していたが、熊太は佐幕派に対抗し、一時謹慎を命じられた。幕府が征長軍を起すと、藩は征長参加を決定。その指導者を堀庄次郎と目して、同年九月、沖剛介とともにこれを暗殺した。その直後、切腹して果てた。二十二歳。