史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

鳥取 Ⅰ

2016年10月08日 | 鳥取県
 これまで全国四十七都道府県を踏破したと広言している私であるが、実は鳥取県の史跡は一つも探訪できていなかった。鳥取県を避けてきたわけでもないのだが、京都の実家からだとどうしても宿泊が必要になるので、なかなか鳥取県の史跡探訪に踏み切れなかったというだけである。
 今回、お盆に帰省したのを機に、鳥取県史跡探訪を敢行することにした。早朝三時半に京都を出て、途中兵庫県朝来市山東町の史跡に立ち寄った後、国道9号線をひたすら北上する。第一目的地である岩美町の浦富海岸に着いたのは、午前七時半のことであった。
 鳥取に来たのは、昭和四十七年(1972)以来である。このときは家族といとこの家族で、浜村温泉(鳥取県鳥取市)に宿泊し、翌日鳥取駅経由で関西に帰るというスケジュールであった。古いアルバムに残る記録によれば、このとき浦富海岸や鳥取砂丘を見学したことになっているが、ほとんど記憶にない。唯一覚えているのは、当時八歳だった弟がホテル内で迷子になり、従業員に部屋まで連れて来られたことだけである。
 ともかく私にとって四十五年振りの鳥取県ということになり、四十七都道府県のうち、最も足が遠ざかっていた場所である。鳥取県を訪問することで、ようやく四十七都道府県の史跡を訪ねたことになる。パズルにたとえると最後のピースがはまったような快感である。勿論、訪問すべき史跡は山ほど残っており、私の史跡訪問の旅は、まだまだ終わりが見えない。

(最勝院)


最勝院


適處正墻先生之墓(正墻薫の墓)

 鳥取市内の最初の訪問地は、湯所町の最勝院である。墓地に正墻薫の墓がある。
 正墻薫は、文政元年(1818)元旦、鳥取藩医正墻泰庵の子に生まれた。雅号は適処。少壮より武技を好んで、家業の医を修めず、大阪で藤沢東畡に学び、江戸では佐藤一斎に師事。弘化二年(1845)、江戸昌平黌に入学した。のち大阪で篠崎小竹の塾の塾頭となった。嘉永二年(1849)には姫路仁寿山黌に招かれ、教務を統べた。嘉永六年(1853)、学校吟味役文場掛、この間尚徳館の学制改革に貢献した。文久元年(1863)、内命をおび、正木屋薫蔵と変名し、行商を装って九州諸藩の内情を偵察。元治元年(1864)、学校文場学正、同年九月、藩内の尊攘劇派弾圧により免職。厳重謹慎を命じられ、慶応二年(1866)に赦された。慶応四年(1868)五月、産物会所吟味役となり、桑茶樹栽培を奨励し、大船利渉丸建造に尽くした。明治二年(1869)、学館副寮長、翌三年(1870)、村岡藩の招きに応じ、その学事を総括した。明治六年(1873)には伯耆国久米郡松神村に私塾を開き教育に尽くした。明治九年(1876)、年五十九で没。

(鳥取城)


鳥取城

 鳥取城は、久松山の地形を利用して築城された山城で、その起源は戦国時代の前期まで遡るといわれるが、史上この城を有名にしたのは、天正八年(1580)豊臣秀吉の兵糧攻めであろう。餓死者が続出したため、時の城主吉川経家は自らの命と引き換えに開城を決意した。江戸時代に入ると、池田光政が城主に任じられ、それまで五~六万石規模であった城を三十二万石に相応しい城郭に改めた。現在も残る石垣など城郭の主要な部分はこの頃に完成したものである。
 明治後、城の建物はことごとく取り壊され、残った石垣も昭和十八年(1943)の鳥取大地震で多くが崩落してしまったが、それでも今美しい石垣を見ることができる。仁風閣の前から二ノ丸方面に上ろうとしていると、ボランティアの方に声をかけられ、反対側の鳥取西高校の方から登るように強く勧められた。確かにそこから見上げる石垣は、芸術的といって良いほどの景観である。建物が残っていれば、かなり見事な城郭だったことは想像に難くない。地元の方が、この石垣を見せたい気持ちは分からなくもない。
 あまりに私がそわそわしているものだから、ボランティアの方から「お時間はどれくらいありますか」と聞かれたので、「十分」と答えたところ、
「とんでもない。二の丸に上るだけで片道十分はかかります。ま、自分のペースで行ってください」
と見放されてしまった。結果的に往復で十五分を要した。さすがに往復十分は無理でした。


鳥取城二の丸三階櫓跡

 二ノ丸には江戸時代前期まで藩主が住み、家老らが政治を司る御殿があった。三代藩主池田吉泰のとき、三ノ丸に移され、享保五年(1720)の火災で焼失し、その後、弘化三年(1846)まで再建されなかった。二ノ丸には三階櫓が立ち、元禄五年(1692)に天守櫓が焼失した後は、鳥取城の天守に代わる象徴的建造物であった。そのため享保五年(1720)の火災の約八年後に三階櫓は再建されている。


仁風閣

仁風閣(じんぷうかく)は、明治四十年(1907)五月、時の皇太子殿下(のちの大正天皇)の山陰行啓に際し、宿舎として、もと鳥取藩主池田仲博侯爵によって建てられた洋館である。設計は片山東熊。仁風閣の名は、行啓に随行した東郷平八郎によって命名されたもので、直筆の額が二階ホールに掲げられている。

(興禅寺)


興禅寺

 興禅寺は鳥取藩主池田家の菩提寺であるが、境内に池田家の墓所はない。鍵屋辻の仇討(寛永十一年)で有名な渡辺数馬の墓や疋田流槍術の開祖猪多伊折佐の墓がある。


一岳玄了居士塔(渡辺数馬墓)

 有名な伊賀上野鍵屋辻の仇討は、寛永十一年(1634)の朝、十数名の加勢に守られる河合又五郎との間で闘われた。日本三大仇討の一つに数えられる。事件の発端は、寛永七年(1630)七月、備前池田藩の城下岡山で、藩主忠雄の小姓渡辺源太夫を、又五郎が斬って逐電したことに始まる。事件は池田藩と旗本の不穏な対立にまで発展し、この間、池田藩は鳥取・岡山への国替えを命じられている。姉婿荒木又右衛門の助勢で首尾よく仇を報じた数馬は、寛永十九年(1642)、三十五歳で死去。


猪多伊折佐重良墓

 猪多伊折佐(いだいおりのすけ)は、疋田流眞理開祖と伝えられる。名を重良といった。疋田文五郎景兼について新陰疋田流刀槍二術の極意を相伝。寛永九年(1632)藩祖池田光仲にしたがって、鳥取にきた。四百石の知行をえて、藩士を指導し、門弟は鈴木庄兵衛を初め多数にのぼった。寛永十年(1633)九月、死去。


贈従四位故米子城主荒尾清心齋在原成裕之墓

 渡辺数馬の墓の前をさらに進むと、米子城主荒尾家の墓所がある。
 荒尾成裕は、清心斎と称す。伯父荒尾成緒の養子となり、嘉永四年(1851)、家督を継いで米子城代となった。元治元年(1864)には藩主池田慶徳の代理で上京した。明治十一年(1878)、六十五歳で死去。


(鳥取県庁)


箕浦家武家屋敷門

 県庁の一画に武家屋敷門が移築されている。これはもと御堀端の南澄にあって、二千石の箕浦近江宅の門として使われていたもので、昭和十一年(1936)に現位置に移築保存されたものである。


藩校尚徳館碑

尚徳館は、宝暦七年(1757)、鳥取藩第五代藩主池田重寛によって創設された藩校である。十二代藩主慶徳のときに学制改革が行われ、万延元年(1860)、この尚徳碑が校内に建立された。文武併進を以って尚徳館の教育の理念とすることが記されている。藩校は明治三年(1870)に至るまで百年以上にわたり、鳥取藩教育の中心であった。

(観音院)


観音院


増井熊太先生墓

 観音院の墓地は、急な斜面に作られているが、その最も高いところに増井熊太の墓がある。
 増井熊太は、天保十四年(1843)の生まれ。万延元年(1860)、学校小文場句読方手伝を免じられて江戸に赴き、剣を斎藤弥九郎に学んだ。文久三年(1863)、藩主池田慶徳の養母法隆院に従って帰国。元治元年(1864)禁門の変では、藩に従い宮門を護衛した。当時、鳥取藩は勤王と佐幕の二派が対立していたが、熊太は佐幕派に対抗し、一時謹慎を命じられた。幕府が征長軍を起すと、藩は征長参加を決定。その指導者を堀庄次郎と目して、同年九月、沖剛介とともにこれを暗殺した。その直後、切腹して果てた。二十二歳。

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岩美

2016年10月08日 | 鳥取県
(浦富海岸)


浦富台場跡 お台場公園

 黒船の来航に危機感を募らせた幕府は、各藩に海防の強化を命じた。これを受けて長い海岸線を持つ鳥取藩でも、文久三年(1863)、因・伯海岸の要地に計十一の台場を配備した。現在、このうち五か所(橋津・由良・淀江・境・浦富)の台場跡が残されている。浦富台場には、現大栄町(当時の六尾村)の反射炉で鋳造した鉄製の台場砲四門が配備され、家老鵜殿長道が守備した。台場の築造に当たっては、在方では農民の労役に頼ったが、守備でも農兵(民兵)を組織し、洋式訓練を施した。古い絵図によれば、浦富台場は二か所に分かれていたらしい。文久三年(1863)頃には、庄屋を民兵隊長として郷士に取り立て、苗字帯刀も許したとされる。

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養父 Ⅳ

2016年10月07日 | 兵庫県
(山田風太郎記念館)


山田風太郎記念館

 国道9号線を和田山から鳥取方面に走っていると、養父市街地を過ぎたところに山田風太郎記念館がある。山田風太郎は、大正十一年(1922)一月四日、養父市関宮に生まれた。代々続く医者の家系で、実父もこの地で病院を開業していた。当人も東京医科大学を卒業したが、医者は志さず作家としてデビューした。その後の活躍は広く知られる通りである。「魔群の通過」や「警視庁草紙」など幕末維新に題材をとった小説も多い。
 ここを通過したのが朝の六時半だったもので、当然ながら開館時間前であったため、館内の見学はまたの機会に譲り先を急いだ。

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山東

2016年10月07日 | 兵庫県

(楽音寺)


楽音寺

 いわゆるお盆のシーズンの週末ということもあって、どう考えても渋滞が予想されたので、早朝三時半に京都の実家を出た。ところが ――― 世の中の皆さんの考えることは同じで ――― 名神高速から中国自動車道に入る吹田ジャンクションではもう渋滞が始まっており、考えが甘かったことを思い知らされた。
 しかし、振り返れば渋滞らしい渋滞にあったのはこれだけで、あとは順調にドライブを続けてほぼ二時間後には第一目的地である朝来市山東町に到着した。


淨邦院風雲勁節居士墓(小山六郎の墓)

 楽音寺本堂の前に小山六郎の墓と「志士の碑」と題する顕彰碑がある。
 小山(こやま)六郎は、村役人の子に生まれ、初め六郎右衛門と称した。文久三年(1863)、北垣晋太郎、平野國臣らが但馬農兵組織化を始めると、これに参加し本多小太郎(素行)と美作に赴いて同志を糾合した。生野挙兵においては、節制方を担当した。破陣の後、逃れて長州に走り、遊撃隊に属して俗論政府と戦ったが、眼を病んで失明し、慶応四年(1868)帰郷した。山陰道鎮撫総督西園寺公望が来ると、苗字帯刀を赦された。従軍を請うたが、眼疾のため赦されなかった。明治四年(1871)、生野県が廃され、豊岡県が設置されたが、人民は新法に服せず、六郎は鋭意調停を図っていたが、同年十二月、新政府の有司専制・開明的諸政策に反対する上奏文を県庁に提出し、その帰途轎中にて割腹自決した。年三十七。


志士之碑

(向大道共同墓地)
 大月西交差点を数百メートル西に行くと、向大道共同墓地がある。驚いたことに、六十区画あるこの墓地の五十以上は小山姓である。この共同墓地の西側に「志士之墓」と書かれた石碑が置かれており、そこを上ると藪の中に小山六郎の墓がある。楽音寺本堂前の「志士の碑」に記載されている「事績は宝珠峠の碑に伝えられ」とあるのが、この墓碑のことであろう。


小山喜昌之墓

 喜昌は小山六郎の諱である。

(山東町郷土資料館)
 山東町郷土資料館は、南北朝時代から続く町内有数の土豪であった山崎邸を借り整備したものである。山崎家からは、応仁の乱、京都村雲合戦(1467)で名を挙げた与布土又三郎や生野義挙で農兵組立に尽力した山崎甚兵衛(誠蔵)らを出した。
 説明によれば、母屋の各所に生野義挙に参加した農民が幕府の処分を恐れて打ちこわしに来た際の傷跡が残ると記されているが、どこにその傷跡があるのか確認できなかった。ここを訪れたのが未だ早朝六時前だったこともあり、尋ねるにも誰も周りにいなかった。


百笑茶屋 喜古里

 喜古里は地元で採れた食材を提供するレストランである。

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醍醐

2016年10月07日 | 京都府
(醍醐寺)
 世界遺産にも登録される醍醐寺は、天暦五年(951)に完成した京都最古の五重塔(国宝)をはじめ、多くの国宝や重要文化財を所蔵している(伏見区醍醐伽藍町)。応仁の乱や文明の乱で、五重塔を残して全て焼失したが、慶長三年(1598)、豊臣秀吉が北政所らを伴って醍醐の花見に訪れたことをきっかけに秀吉の厚い帰依を受けて復興した。三宝院庭園は、華麗にして豪華な桃山時代の庭園である。


醍醐寺仁王門


醍醐寺三宝院

 元治元年(1864)七月、禁門の変の際に醍醐寺三宝院に隠れていた長州藩金剛隊の六名を新選組および見廻組が捕縛した。

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大津 Ⅲ

2016年10月01日 | 滋賀県
(大津宿本陣跡)
 大津宿は、京都を出て最初の宿場であった。大阪屋嘉右衛門家(大塚本陣)と肥前屋九左衛門家の二軒の本陣と、播磨屋市右衛門の脇本陣を有し、街道筋には多数の旅籠が軒を並べていた。大津は、北国街道と東海道の合流地点でもあり、さらに湖上交通の拠点でもあったことから、宿場町として繁栄を極めた。しかし、現在遺構らしきものは一切残っておらず、大塚本陣の跡地に、明治天皇の休息所として利用されたことを示す聖跡碑が建てられているのみである。


明治天皇聖跡

 文久元年(1861)十月二十一日、江戸に向かう和宮が最初に宿泊したのが大津であった。

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彦根 Ⅳ

2016年10月01日 | 滋賀県
(清涼寺)


長野義言先生之墓

 この日、東近江の鯰江城まで歩き、さらに愛知川宿を探索して十分に疲れていた。そして両足の指にはマメができて歩くたびに痛んだ。彦根駅から清凉寺までの道のりは、いったいどこまで歩けばゴールなのかというほど遠く感じた。数か月前から万歩計を携帯しているが、この日の歩数は三万六千歩を越えた。個人記録更新であった。
 清凉寺でのお目当ては、長野主膳の墓である。墓地を隈なく歩いて、漸く見付けることができた。長野主膳の墓は、清凉寺本堂裏手の墓地の一番高く奥まった場所に、本当にひっそりとたたずんでいる。その横には夫人の墓が寄り添うように建てられている。

(龍潭寺)

 清凉寺を訪ねた後、龍潭寺の墓地で井伊直弼の生母の墓を探した。


要妙院殿瑞宝知誓大姉(井伊直弼の生母の墓)

 井伊直弼の生母は、俗名を君田富子という。美貌の賢婦人として知られ、立ち居振る舞いは優雅、絶世の佳人であったという。藩中の人々は「彦根御前」と呼んだ。文政二年(1819)二月、三十五歳で世を去った。鉄三郎と呼ばれた直弼はまだ五歳であった。天保十二年(1841)、生母の二十三回忌の法要で、墓碑の後ろにあった松の木を見上げ、直弼は亡き母を偲んで歌を残している。

そのかみの 煙とともに消もせで
つれなく立てる 松ぞわびしき

 残らずば 誰をなげきの友と見む
 つれなき松も むつまじきかな


招魂碑

 龍潭寺参道にある招魂碑。何にも解説が付されていないので、何を対象とした石碑なのか不明である。

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愛知川

2016年10月01日 | 滋賀県
(愛知川宿)


中山道 愛知川宿

 愛知川(えちがわ)は中山道の宿場の一つで、やはり文久元年(1861)、和宮東下の際にここで宿泊している。近江鉄道愛知川駅を降りて五~六分西へ行くと、昔の風情を残した街並みに出会う。残念ながら本陣の建物は残っていないが、八幡神社(高札場跡)や問屋跡を示す石碑が建てられている。


竹平楼

 竹平楼は、明治天皇が明治十一年(1878)、北陸東山御巡幸の際、十月十二日と同月二十一日の両度にわたり、小憩をとった場所で、今も邸内には御座所が旧観のまま保存されているという。今も料亭として営業を続けている。

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東近江

2016年10月01日 | 滋賀県
(鯰江城跡)
 鯰江城の最寄り駅は近江鉄道の八日市駅である。JR近江八幡駅から近江鉄道に乗り換えると、三十分ほどで八日市駅に行き着く。
 ここでレンタサイクルを調達する予定で、下調べもしてきたのだが、その自転車屋さんのシャッターが下りたままであったのは誤算であった。この街には路線バスが走っていない。市が運営する循環バスを時折見かける程度で、これも旅人にはとても実用的とはいえない。迷わず歩くことにした。
 鯰江まで片道歩いて一時間。往復で二時間。この日の気温は三十五度を超えた。太陽から身を隠す日陰もなく、非常に過酷な史跡探訪の旅であった。
 鯰江城は、鯰江郷の豪族であった鯰江氏によって築城された中世の城である。戦国時代に織田信長の近江平定により天正元年(1573)に落城した。現在、城跡地に小さな石碑があるだけであるが、その横に丹羽正雄の顕彰碑が建っている。この石碑を見るためにここまで往復したのである。


史蹟 鯰江城阯


丹羽正雄之碑

 丹羽正雄は、天保四年(1833)、近江国鯰江に生まれた。父はこの地で農業を営む福田市右衛門。馬淵俊斎に医を学んでいたが、「天下の脈をとりたい」と発奮して速水橘園に儒学を学び、しばしば京都に出かけて梅田雲浜、平野國臣、頼三樹三郎らと交わり、尊攘を唱え兵法剣術を修めた。長沼流の長剣に「尊王攘夷赤心報国佐々成之佩刀」と刻んでいた(佐々成之は丹羽正雄の変名)。万延元年(1860)、三条家の世臣丹羽豊後守正庸の養子となり、筑前介、ついで出雲守を称した。三条実美の七卿落ちに従って長州に下ったが、元治元年(1864)三条から密奏を頼まれて河村李興と変名して上洛。伏見三栖院で幕吏に捕えられ、同年七月、禁門の変の際に六角獄舎にて斬られた。

 八日市駅に戻ってくると、朝シャッターを下ろしていた自転車屋は開いていた。営業開始時間は午前九時からと書いてあったが、私は今朝九時にこの店の前にいたのだが、結果から言えばもう少し我慢すれば良かったのだろう。「待つのが嫌い」という性分が災いした。

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碧南

2016年10月01日 | 愛知県
(貞照院)


貞照院

 碧南市へは東海道線刈谷で乗り換えて、名鉄線で三十分。碧南中央駅で下車する。事前調査では駅前で自転車を借りることができるはずであったが、実際に行ってみるとそれらしいものは影すら見つけられなかった。市が運営している無料の循環バスもあるらしいが、一日に四本しか走っておらず、あまり実用的ではない。
 太陽が遠慮会釈なく照り付けるが、覚悟を決めて歩き始めた。


正五位山中先生墓

 貞照院には山中静逸(信天翁)の墓がある。墓地は、寺の境内の道をはさんで向かい側にあり、その道路側に山中家の墓域がある。

 山中信天翁は諱を献、雅号は信天翁のほか、静逸、対嵐山房、二水間人など。文政五年(1822)の生まれ。実家は東浦村の大地主で、沼津藩御用達の家であった。父山中七左衛門有功も文人・画家であった。篠崎小竹。斎藤拙堂らに学び、安政年間に上京して梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎らと交わった。安政の大獄後、修学院村に隠れ住んで岩倉具視と接触した。慶応四年(1868)二月、徴士内国事務局判事に任じられた。東幸御用掛、桃生県(のち石巻県)知事、登米県知事、伏見・閑院・白川各宮家令等を歴任。明治四年(1871)六月、官職を辞して京都嵐山に隠棲し、詩賦書画をこととした。明治十八年(1885)、六十四歳で死去。

 同じ墓所には父山中子敏(有功)の墓もある。


子敏先生墓

(神明社)
 神明社は、どこにでもありそうな神社であるが、本殿の傍らに山中信天翁の顕彰碑が建てられている。この神社の近所は、気のせいか山中姓の家が多いが、恐らくその中の一つに信天翁の縁者もあるのだろう。


神明社


信天翁山中先生之碑

(康順寺)


康順寺

 康順寺の最寄り駅は名鉄北新川駅である。この駅にも貸自転車も路線バスもなく、片道三十分、ひたすら歩くしかない。


静照院殿前對州釋昇覺大居士(本多忠鵬の墓)

 康順寺に最後の西端藩主本多忠鵬の墓がある。墓地の最前線にあるので、すぐに見つかる。
 本多忠鵬は、安政四年(1857)、藩主本多忠寛の長子に生まれた。慶応二年(1866)、九歳で二代藩主に就いた。十二歳のとき、西端藩知事、さらに西端県知事となったが、廃藩置県により東京に移り住んだ。明治二十九年(1896)、三十八歳にて死去した。

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