史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

本巣 根尾

2017年09月23日 | 岐阜県
(蠅帽子峠)


ハエ帽子峠(這法師峠)

 昨年末、腰椎ヘルニアの手術を受けて以来、自分は何時まで山を登ったり、長距離を歩いたりしていられるのだろうと、俄かに将来に不安を持つようになった。体力を要する史跡は、今のうちに回っておかないと、自力で行き着くことができなくなってからでは手遅れとなるという危機感を抱いたのである。
 そこで急遽蠅帽子峠行を計画した。蠅帽子峠は、天狗党西上のルートでも、もっとも困難を極めた場所である。天狗党が蠅帽子峠を通過したのは、この場所が厚い雪で覆われる旧暦の十二月初旬(西暦では正月)のことである。現在国道157号線は冬期閉鎖されるし、とてもでないが同じ時期に踏破することは無理である。
 八王子で午後七時半にレンタカーを借りて、一旦自宅に寄って荷物を積み込み、午後八時に出発。中央道から土岐ジャンクションで東海環状自動車道に入り、終点の関広見ICを降りた時点で、出発から三時間半が経過していた。
 ここからはひたすら国道418号線、さらに国道157号線を進む。進むほどに人家はまばらになり、街灯もない道が続く。途中で野生のシカに二匹遭遇した。
 翌日、明るくなってからこの道を引き返したが、片側はずっと崖が続く山道で、我ながらよく闇夜にこの道を走ったなと改めて危険を感じた。無事に行き着いたからよかったようなものの、本来深夜に走行するべき道ではない。しかもこの夜は小雨が降り続いた。
 蠅帽子峠の登山口に到着したのは零時半過ぎであった。国道沿いにある小さな看板が目印である(冒頭写真)。矢印に従って奥に進むと自動車数台分の駐車スペースがある。ここで夜を明かす。
 身支度を整えるためにわずかな時間ドアを開放したのがいけなかった。その隙に蚊が車内に進入してしまい、夜通し蚊と格闘することになった。明け方までに七匹の蚊を撃墜したが、その代わり一睡もできないまま朝を迎えることになった。
 蠅帽子峠を目指すには、まず根尾西谷川を渡らなくてはならない。前夜の雨で増水していたが、もっとも水嵩が高い場所で膝上くらいである。水量が豊富で油断をすると押し流されてしまう。ここで渡河すること分かっていたので、ダイビングの際に使用するシューズを持参した。慎重に向う岸に渡る。
 渡ったところに文化二年(1805)という刻印のある地蔵がある。この上を登山道が通じている。


根尾西谷川

 登山道は肩幅程度の道幅しかなく、しかもかなりの急角度である。時に木の枝につかまって登攀しなくてはならない。手元の「新・分県登山ガイド 岐阜の山」(山と渓谷社)によれば体力度、危険度ともに最低評価だったので、登山素人にも優しい山かと思っていたが、とんでもなかった。前夜の睡眠不足もあって、登山開始から一時間足らずで、気分が悪くなり吐瀉。気を取り直して歩き始めるも、また少し行ったところで吐瀉。ギブアップして引き返す選択肢もあったが、せっかくここまで来て断念するのはあまりに残念である。気を取り直して山頂を目指した。少し歩いては休みを繰り返すことになった。


麓の石地蔵

 前夜の夜露が残っていたため登山を開始して間もなくズボンは泥だらけでびしょ濡れになった。クツの中まで水が入って極めて歩きにくい。さらに不運が重なる。一旦止んでいた雨が降りだし、本降りになった。全身が濡れるままとなり、著しく体力を奪われた。その上、どこかでペットボトルのお茶を落としてしまったらしく、水分補給もままならない。まるで無遊病者の如く山中をさまよった。泥道に足を取られて転倒することも数え切れず。ほとんど遭難に近い状態であった。
 インターネットで検索すると、多くの人が蠅帽子峠・蠅帽子嶺を踏破している。その記事を読む限り、さほど難易度が高いように受け取れなかった。皆さん、山歩きを存分に楽しんでおられるようであったが、実際歩いてみると、とんでもなく大変であった。


登山道の風景
ひたすらブナ林が続く

 天狗党一行千人は雪で覆われたこの道を越えたのである(吉村昭著「天狗争乱」によれば、元治元年(1864)の冬、例年と比べればこの場所の積雪は少なく、それが水戸浪士が蠅帽子嶺を越えられた一つの理由としている)。途中で人馬が谷底に転落したといわれるが、おそらく彼らは何もできずに呆然と転落者を見送るしかなかったであろう。彼らはこの先にいくらかの希望を持っていたから、この難路にも耐えられたのかもしれない。しかし、結末は歴史が物語るとおりである。結果から見れば、この道は悲劇に続く道であった。
 手元に「新・分県登山ガイド 岐阜の山」(山と渓谷社)の「蠅帽子峠・蠅帽子嶺」のページをコピーして持参したのだが、雨でにじんで文字が読み取れない。自分がどこを歩いているかも分からず、さすがに身の危険を感じた私は、峠にも嶺にも到達しないまま、引き返すことにした。あとで冷静に思い返してみると、恐らく私は蠅帽子嶺(標高一〇三七・三メートル)の手前で引き返したということらしい。天気が良くて、余力があれば登頂できたのであろうが、無念というほかない。
 下山も決して楽な道ではない。滑ったり転んだりを繰り返して漸くたどり着いた。ここにきて雨が止んで青空が見えた。天気のことは一週間前から天気予報を確認して、この日は晴れるという確信をもって登ったのだが、山の天気は読めないものだと痛感した。


蠅帽子峠遠景

 登山口に戻った時には、全身がずぶ濡れで、しかも両手両足に激しい筋肉痛を感じた(枝をつかみながら歩いたので、手まで筋肉痛になってしまったのである)。軽い熱中症にかかっていたのかもしれない。手足が痙攣するので、着替えるのもやっとであった。
 早朝五時に登山を開始して、下山したのが十一時二十分。登山ガイドによれば嶺まで往復して五時間というから、それより一時間も余分にかかったことになる。とても体力の無い素人が単独で克服できる山ではなかった。できれば、再チャレンジしてみたい。


根尾西谷川

 国道157号線を下る途中でも、気分が悪くなり、自動車を路肩に停めてまた嘔吐した。運転を続けることができず、しばらく車内で仮眠をとって、ようやく体力が少し回復した。
 最近万歩計を身に着けて意識して歩くようにしている。平均すれば一日八千歩くらいは歩いているし、週末は二万歩、時には三万歩以上も歩いているので、それなりに脚力は培ってきたつもりであった。しかし、平地と山道は全然違う。甘く見るとヒドイ目に遭わせるぞと山から警告を受けたような気がした。
 山の中でダニかブヨに咬まれたらしく、帰宅後も数日激しい痒みに悩まされた。夏山に入る時は虫刺されにも注意する必要がある。これも今回の教訓の一つであった。それにしても痒い。

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佐原

2017年09月15日 | 千葉県
(佐原水郷)


佐原水郷

 佐原は、利根川に注ぐ小野川に沿って古い商家が軒を並べる「重要伝統的建造物群保存地区」が有名な観光地である。まず駅前の観光案内所に立ち寄ってレンタサイクルを調達する。観光地を回るだけであれば、自転車は却って邪魔かもしれないが、私の目的地は観光スポットから外れた牧野の観福寺だったので、迷わず自転車にまたがった。


伊能忠敬旧宅

 佐原が生んだ偉人に伊能忠敬がいる。伊能忠敬は、延享二年(1745)、上総山辺郡の生まれ。号は東河。通称三郎右衛門、のち勘解由。十八歳のとき、佐原の旧家伊能家に婿養子に入り、酒造、米取引などに専念して家業を挽回した。寛政六年(1794)隠居して、江戸の幕府天文方高橋至時に入門、天文暦学を学んだ。(1800)、蝦夷地測量に出たのを手始めに、全国測量の作業を文化十三年(1816)まで続け、次第に幕府の援助を受けるようになった。ついで我が国初の実測地図「大日本沿海與地全図」(いわゆる「伊能図」)のまとめにかかるが、文政元年(1818)死去。三年後の同図完成まで死は伏せられた。


伊能忠敬記念館


伊能忠敬像

 伊能忠敬記念館は入場五百円。忠敬の生涯、業績や地図などが展示されている。現代人の目で見ても正確な伊能図が、しかも実際に海岸線を歩いてこれを完成させたということを思い合わせると、感動を禁じえない。
 しかも隠居の身で、五十歳を過ぎてからこの事業に着手したというから二度驚く。私もまだまだ老け込むわけにいかない。

(諏訪公園)
 諏訪神社横の諏訪公園には伊能忠敬の銅像が立つ。伊能忠敬は十七歳から三十年余りを佐原で過ごした。この銅像は、忠敬の測量中の姿で、大正八年(1919)に建てられたものである。台石の文字は、「仰いでは斗象を瞻(み)、俯(ふ)しては山川を盡(えが)く」と読み、「天体の観測を行って、立派な地図を作った」という意味で、忠敬の功績を称えている。


仰瞻斗象俯盡山川(伊能忠敬像)

(観福寺)
 観福寺には伊能忠敬の墓がある。忠敬が亡くなったのは、文政元年(1818)五月十七日、江戸八丁堀亀島町、七十三歳であった。遺言により浅草源空寺の高橋至時の墓の傍らに葬られたが、佐原観福寺伊能家の墓には遺髪と爪が埋められている。


観福寺


有功院成裕種徳居士(伊能忠敬の墓)

 元治元年(1864)十一月、降伏した榊原新左衛門らは大洗町大貫の西光院に二泊すると、佐原牧野の観福寺に移された。その間、榊原新左衛門から陳情書が出されたり、幕府方の糾明などがあったが、十二月十一日には預け替えが実施された。新左衛門以下百一人は古河藩預けとなり、武州忍藩に百二十人、房州一ノ宮藩に十六人、出羽長瀞藩に十三人、上総鶴舞藩に十五人、上総大多喜藩に二十人、奥州福島藩に三十人、下総佐倉藩に百三十八人、房州勝山藩に十五人、上総請西藩に十三人、三河西大平藩に十三人、上総飯野藩に二十五人、下総高岡藩に十三人、下総生実藩に十三人、武州岩槻藩に三十人、下総結城藩に二十人、下総関宿藩に百二十人、武州川越藩に百三十六人、上総佐貫藩に二十三人と、大発勢はそれぞれ預けられた。諸藩預けとならない郷士以下四百二十七人はいずれも江戸佃島の獄に投じられた。榊原新左衛門、冨田三保之助、福地政次郎ら十七名は節切腹、沼田久治郎ら十二人が死罪を申付けられたのは、翌慶応元年(1865)四月のことである。なお江戸佃島の獄に投じられた者は、明治維新を迎えると解放されて小石川藩邸に入った。

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潮来 Ⅱ

2017年09月15日 | 茨城県


あやめ公園

 嫁さんと娘たちは出かけるという。「お父さんも好きにして良いよ」と前日に宣告され、慌てて潮来への日帰り旅行の計画を立てた。JRを使って八王子から潮来まで三時間半。駅の出口で、SUICAで精算しようとすると、この駅は未だ自動改札が入っていなかった。出口にあっという間に長い行列ができた。
 駅の建物に観光案内所が隣接している。ここで自転車を借りて市内の史跡を回ることとする(一日五百円)。

(浄国寺)


吉田松陰 宮本茶村を訪う

 前回の潮来でも浄国寺を訪問したが、宮本茶村の墓を訪ねて今回も立ち寄ることにした。
 嘉永四年(1851)十二月、水戸を訪ねた吉田松陰は、鹿島、牛堀、潮来、息栖、玉造を回遊して水戸に戻り、その後東北遊に出た。潮来では、宮本茶村宅に一泊した。時に茶村六十歳、松陰二十二歳であった。そのことを記念した石碑が、平成二十七年(2015)、元治甲子の変殉難百五十年を記念して、茶村の墓の傍らに建てられた。


宮本茶村顕彰碑


水雲宮本先生之墓

 宮本茶村は、寛政五年(1793)、潮来に生まれた。通称尚一郎、雅号は茶村、晩年は水雲と号した。壮時江戸に出て山本北山に学び、帰国して里正となり、郷士に列せられた。弘化の藩難に際し、有志を募って江戸に至り、尾張・紀伊両家および三連枝へ嘆願して水戸赤沼の獄に投獄された。三年を経て赦され、漢学塾を開いて子弟を教授した。学者としての聞え高く、また詩書を能くした。文久二年(1862)没。年七十。

 JR潮来駅前のあやめ公園の水雲橋は、宮本茶村の号に因んだものである。


水雲橋

(長國寺)
 潮来市上戸166の長國寺は、天狗党から分離した川俣茂七郎らが宿泊した場所である。その後、追い詰められた川俣茂七郎は、笠間を経て上州へ落ち延びる途上、笠間にて無念の自刃を遂げた。


長國寺

(潮来第一中学校)
 潮来第一中学校に至る坂道に、元治甲子ノ変殉難百五十年を記念して、平成二十七年(2015)三月、水戸烈士殉難碑と潮来郷校跡碑が建てられた。両碑の間には「筑波山挙兵 元治甲子ノ変殉難百五十年記念碑」が建てられ、潮来周辺から筑波山挙兵に参加した六十一名と大発勢に参加した八十一名の氏名が銅板に刻まれている。


水戸烈士殉難碑


潮来郷校跡

 この場所は、潮来郷校の跡であり、天狗党に加わった潮来勢の本拠地である。安政四年(1857)一月に武館が開設され、継いで同年九月に文館が開館した。創建したのは南郡奉行であった金子孫二郎で、当初は岩谷敬一郎(のち林五郎三郎)が館長を務めた。当時、小川・湊・潮来を「三館」と呼び、尊王攘夷の激派が集結し、諸生派と対立した。元治元年(1864)の騒乱で、幕府掃討軍により焼き討ちされた。

 一口に天狗党と呼ぶが、武田耕雲斎の率いる武田党とつくば挙兵以来の筑波勢、それに潮来勢が合流して、約千人の集団となったもので、この集団が京都を目指して西上の途に就いたのである。


潮来郷校跡 潮来天王台下

(潮来高校)
 県立潮来高等学校(潮来市須賀3025)のすぐ近くに延方郷校跡がある。潮来高校が少し市街地から離れた現在地に移った背景には、延方郷校の存在があったのかもしれないが、潮来高校のホームページ等を見ても、そのようなことは一切書かれていない。
 潮来高校の校門に至る緩やかな坂道の途中の民家の前に延方郷校跡という標柱が立っている。そこから雑木林に覆われた丘へ進むと郷校跡に至る。


茨城県立潮来高等学校


延方学校跡


延方郷校跡

 延方郷校跡は雑草で覆われ、容易に近づけない。雑草に足を取られながら、やっとの思いで写真を撮影できる場所まで行きつくことができた。「文化財を大切にしましょう」と書かれているが、その言葉が虚しく思えるほどの状態である。
 延方郷校は、元水戸延方学校と称し、文化年間初期、延方村の井村松亭(通称水戸屋先生)が加賀藩士沢田平格を招いて内田山の麓に塾を開いたのが始まりである。その後、文化四年(1807)、水戸藩南領の郡宰小宮山楓軒が、延方村の小峰京蔵、高田貞蔵、辻村の内藤伴蔵らとはかり、教育奨励のために内田山上に孔子霊を祀るための聖廟を建てた。これは水戸の弘道館に先立つこと三十有余年であり、水戸藩の中でも小川稽医館に次ぐ歴史を持つ郷校である。文化七年(1810)には大成殿が建てられ、徳川治紀(武公)より賜った「至聖文宣王」の掛軸が祀られ、文化十四年(1817)には哀公斉脩(なりのぶ)親筆による篆書を刻した「至聖先師孔子神位」が代わって祀られた。改築以前の仮聖廟は恵雲寺に移築されて、七面堂として現存している。改築後の聖廟は明治十二年(1879)に辻村に移転し、二十三夜尊堂としてこれも現存している。教学の中心は儒学であるが、日常生活に必要な実用教科や医術・武術に至るまで、現代の高等学校や大学程度にまでおよび、教授も沢田平格のほか、津宮の儒者久保木幡竜も藩命により毎月二回教鞭をとった。潮来村の宮本茶村もしばしば訪れて特別講義をしたといわれる。蔵書数も儒学書、日本文学、歴史伝記等千九百六十二冊あったと言われ、多くの有為の人材を育成した。明治五年(1872)、学生発布に伴い郷校は延方小学校の文教場となり、明治十年(1877)廃校となった。


萬政師表

(恵雲寺)
 恵雲寺には、延方郷校から移築された孔子聖廟が現存している(潮来市潮来1251)。


恵雲寺


七面堂(旧延方郷校仮聖廟)

(普門院)
 普門院地蔵堂は、徳川光圀に命により当時潮来村から延方に移築されたもので、蛙股(かえるまた)、頭貫(かしらぬき)、木鼻(きばな)等、細部までこだわった彫刻が見事である。建築年代は天和三年(1683)といわれ、老朽化のため鉄骨で囲われている。
 筑波勢から分離した藩外出身者は、幕府追討軍の攻撃を受けて鉾田、麻生、鹿島と南下し、その一部が鹿島大船津から対岸の延方へ渡った。ここで幕府軍と激しい戦闘となり、浪士三名が普門院地蔵堂の屋根の上にあがって指揮をとったと伝えられる。


普門院
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鶯谷 Ⅳ

2017年09月15日 | 東京都
(静蓮寺)
 鬼子母神の二軒くらい隣に静蓮寺という寺がある(台東区下谷1‐12‐21)。コンクリート製に建て替えられており、歴史を感じることはできないが、高村光雲の「幕末維新懐古談」(岩波文庫)によれば、師匠高村東雲の墓がここにあるというので、土曜日の午前中、八王子から往復した。


静蓮寺


高村家之墓

 さして広くない墓地に墓石が並んでおり、その一つひとつを確認して歩いた。ようやく高村家の墓を発見したが、側面に名前のある「高村晴雲」は、「幕末維新懐古談」にも「私の弟子には違いないが、家筋からいえば私の師匠筋の人 ――― 私の師匠東雲師の孫に当たる高村東吉郎君(晴雲と号す)があります」と紹介されているその人である。残念ながら東雲の名前を見付けることはできなかった。

 高村東雲は、文政九年(1826)の生まれ。仏師高橋鳳雲の門に入り、十一年間徒弟として修業し、年季明けて独立し、高村東雲と称し、浅草蔵前森田町に仏師として立った。その後、浅草諏訪町、ついで駒形町に転居。さらに蔵前北元町に移った。明治十年(1877)、第一回内国勧業博覧会に「白衣観音像」を弟子光雲とともに共作して出品、竜紋章を受けた。明治十二年(1879)、年五十四にて没。

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土浦 Ⅱ

2017年09月08日 | 茨城県
(善応寺つづき)


聖観音
(佐久良東雄の書)


 善應寺観音堂に掲げられた「聖観音」の草書扁額は佐久良東雄の書である。佐久良東雄は、天保十四年(1843)当時善應寺の住職であった。

(真鍋宿)
 善應寺周辺は、真鍋宿といって土浦宿の北方にあった筑波街道上の宿場の一つである。
 天狗党の田中愿蔵の暴挙といえば、栃木における愿蔵火事が有名であるが、実は元治元年(1864)六月二十一日、真鍋宿も愿蔵隊によって焼失している。被害は甚大で、家屋、土蔵等百四十七棟が焼け落ち、さらに殺害された者二人、負傷三人、奪われた金は三千六十一両余に達した。この事件により田中愿蔵は除名された。


真鍋宿




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かすみがうら Ⅲ

2017年09月08日 | 茨城県
(田伏)


碩学勤王家宮本中務墓
儒醫 服部本英墓
志士 太宰清右衛門墓
従是西一丁右折約一丁

 かすみがうら市田伏は、宮本主馬之助の出身地である。田伏の民家の前に右の石碑を発見した。この近くに宮本中務、服部本英、太宰清右衛門の墓があることを示している。
 早速、辺りを歩いて探したが、廃校となった小学校の近くで服部本英の墓を発見したに終わった。


(鹿島神社)


鹿島神社

 天狗党に参加した宮本主馬之助の養父宮本中務は田伏村の鹿島神社の祠官であった(かすみがうら市田伏1613)。
 宮本主馬之助は、文政十二年(1829)、水戸市吉田村東台の戸村家次男に生まれた。十六歳の時、宮本中務の養子となった。中務は国学に優れ、近くで塾を開いていた服部本英の漢学に対し、国学の中務と呼ばれていた。水戸城下から遠く離れた田伏でも、尊王攘夷の精神は強く、同志竹内百太郎、岩谷敬一郎、太宰清右衛門らとともに勅諚の返還に断固反対するため長岡に集結し、攘夷の決行を迫って江戸の薩摩藩邸に訴えた。そのため二年余りを牢獄で過ごすことになった。文久二年(1862)十二月、赦されて帰郷した。慶応四年(1868)一月、小石川藩邸に入ると、同年三月、国許の奸徒(市川ら諸生党)追討のため藩地に下り、戦闘に参加した。下総八日市場の松山にて追討戦で勝利を収め、さらに市川残党の捕縛のため江戸に出た。維新後は神官などを務めて、明治七年(1874)、四十五歳で病没。

鹿島神社には、文久元年(1861)に小松崎周助と高崎半助の二名が奉納した算額が保存されている。算額は、和算家が解決した算問の解き方を額に書いて神社仏閣に奉納したものである。茨城県内には関流が多いが、これは太白流である。


田伏鹿島神社算額

 私が鹿島神社を訪れた時、ちょうど夏祭りの最中で、大音声でのカラオケ大会が始まるところであった。そこにカメラを持ったオッサンが出現し、村人には異質に映ったことだろう。ある酔っ払いが「おい、どこのカメラマンや、NHKか」と声をかけてきたので「いや、個人的なものです」と答えて、その場を切り抜けたが、せっかく地元の人がいたので、宮本中務や太宰清右衛門の墓の場所を聞いておけば良かった。ま、酔っ払いばかりで、聞いても期待した答えがもらえたかどうかは分からないが。

(服部本英墓碑)


雲堂先生之墓碑

 服部本英は、文化三年(1806)の生まれ。代々が医者の家系で、医学を塩田揚庵、学問を関口備明、太田錦城に学んだ。小川郷校稽医館にも出入し、医術の研鑚に努めるとともに、自ら郷校の世話役をして運営にも参加した。潮来の宮本茶村、斎藤晩晴らとともに「水南の三哲」と称えられた。
 弘化元年(1844)、水戸藩主斉昭が幕府より蟄居を命じられた際には、同志六人で連署の嘆願書を江戸麹町の紀州家役所に差し出したが、同年十一月、斉昭の謹慎が解かれたため、表には出なかった。元治元年(1864)の筑波山挙兵には、太宰清右衛門とともに留守居役として小川館に残り、後方支援に努めた。しかし、一部の隊員から強引かつ野蛮な方法で資金調達に走る者が出たため、幕府の追及の目は天狗党当事者のみならず、後方で支援する者にも及んだ。本英らが一時自宅近くに身を潜めていたが、逃れられないことを知り自首した。安食村の朝日太郎とともに水戸に護送されている途中、水戸が天狗党と諸生党の内乱状態にあったため、途中の田余村高崎台(現・玉里村高崎)にて急遽処刑され、首は長岡の刑場にさらされた。

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石岡 Ⅲ

2017年09月08日 | 茨城県
(萬福寺)


萬福寺

 元治元年(1864)六月二十二日、田中愿蔵隊が府中(現・石岡市)を離れると、それと入れ替わるように武田耕雲斎が府中に入った。武田が府中に来たことを知った小川郷校の者たちは続々と府中に集結し、その数は六百名を越えた。彼らは府中萬福寺(石岡市茨城1‐12‐21)や東耀寺、慈雲寺、法龍寺に分宿した。江戸に向かおうとしていた武田耕雲斎であったが、田中愿蔵による真鍋宿焼討により、土浦城下は通行が禁じられていたため、小川郷校の連中を引き連れて小川へ移動し、そこに留まった。

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大洗 Ⅳ

2017年09月08日 | 茨城県
(西光院)


西光院

 投降した榊原新左衛門らは長福寺に護送され、そこで下総佐倉藩に預けられることが決定され、大洗の西光院に移された。元治元年(1864)十一月二日、西光院を出て佐倉藩に護送されたが、のちに古河藩預けとなり、慶応元年(1865)四月五日、処刑された。
 西光院境内には樹齢六百年というイチョウの巨木があり、さらに参道の両側にはカエデが並木状に植えられている。きっと紅葉のシーズンは見応えがあるだろう(大洗町大貫町802‐1)。

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ひたちなか Ⅵ

2017年09月08日 | 茨城県
(旧泉蔵院墓地)


贈正五位川崎孫四郎君墓志

 手元の「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば、川崎孫四郎の墓は勝田市(現ひたちなか市)枝川の仙蔵院とある。しかし、いくら地図を探しても枝川に仙蔵院という寺はなく、それ以上調査のしようもなかった。最近になって旧泉蔵院墓地が枝川にあることが分かり、早速ここを探索してみることにした((ひたちなか市枝川1310))。
 墓地に行ってみると、川崎家の墓がたくさんあり(ついでにいうと、川島家とか川又家とか紛らわしい名前も多い)、その中から孫四郎の墓を探し当てるのは容易ではない。少し背の高い墓誌が目印である。
 川崎孫四郎(まごしろう)は、文政九年(1826)の生まれ。安島帯刀の従者となり、高橋多一郎が奉行のとき郡吏に挙げられた。安政六年(1859)、高橋多一郎の意を受けて西上し、商人に変装して大阪に居を構え、薩摩藩同志と画策に当たった。万延元年(1860)三月、高橋父子の上坂を迎えて、薩摩藩の動向を探ったが、金子孫二郎らが捕えられたことを知り、急遽進退を協議しているところを捕吏に探知され、同年三月二十三日、自刃したが果たせず、捕えられて翌二十四日死亡した。年三十五。
 孫四郎は、最初大阪四天王寺に仮埋葬されたが、文久三年(1863)。当地に改葬された。

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水戸 塩崎 Ⅱ

2017年09月08日 | 茨城県
(島田香取神社)


香取神社

 元治元年(1864)九月四日、幕府軍目付高木宮内ら追討軍八百余名が大発勢、天狗勢と対決するため那珂湊に向かった。その際、長福寺に駐屯した。その後、林正徳率いる潮来勢三百余が島田香取神社(水戸市島田2042)に入ったとの報を受けると、追討軍は直ちに島田に赴き、ここで激しい戦闘となった。

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