史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

水戸 全隈

2017年09月08日 | 茨城県
(園部家)
 水戸市全隈の園部家は長屋門を備えた立派な屋敷である。その長屋門に、天狗党の手によるといわれる刀痕が残されている。どういう状況で刀痕が残されたか不明であるが、偶発的なものではなく、柱に向かって何度も斬りつけたような形跡が感じられる。


園部家


長屋門の刀痕

(水戸浪士の墓)


水戸天狗党志士之墓

 園部家から数百メートル北に少し幅の広い道があり、その坂道を森林公園に向かって上って行くと、左手に「水戸浪士の墓」と書かれた看板がある。自動車の場合、小さな看板なので見逃さないように、スピードを抑えて走行する必要がある。
 この看板から雑草が伸び放題の道を進むと突き当りに水戸天狗党の墓がある。建立されたのは、昭和四十七年(1972)十二月のことなので、比較的新しいものである。
 元治元年(1864)のある日のことである。園部家の裏山に一人の天狗党員が逃げ込んで来た。園部家では負傷した青年を自宅に匿って介抱しようとたが、彼は固辞した。それでも園部では食事や水を運んで面倒を見たが、結局傷が悪化して数日で息絶えた。この墓はその無名の天狗党の青年を葬ったものである。

(森林公園)


加倉井砂山先生之像

 結果からいえば、水戸浪士の墓の前の道をそのまま北上すれば森林公園に行き着けたのであるが、引き返してしまったのが失敗であった。森林公園は成沢町と全隈町にまたがっていて、私は成沢町の公園内をぐるぐると回っていたのだが、目当ての加倉井砂山の像があるのは、全隈町の方であった。自然環境活用センターの前に加倉井砂山の像がある(水戸市全隈町1416‐1)。

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笠間 Ⅵ

2017年09月08日 | 茨城県
(笠間稲荷つづき)


西南戦争戦没者慰霊碑

 笠間稲荷の本殿の裏側に、西南戦争戦没者慰霊碑がある。建立は明治二十年(1887)。篆額(済みません、一番右の字が読めません。「紬果毅」?)は有栖川熾仁親王、撰文は山田顕義、書は山口県士族氏家邦卓。

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常陸太田 Ⅳ

2017年09月08日 | 茨城県
(法然寺)


二本松藩烈士殉難之瑩域

 法然寺の本堂近くの墓地とは別に木崎一町830‐2にある墓地に二本松藩士の墓がある。元治元年(1864)の天狗党の騒乱に際して、幕府の命を受けた二本松藩兵が太田守衛の任に就いた。この周辺地域での天狗党との戦いにより戦死した佐倉源五衛門ほか十数名がここに眠る。二本松藩兵の身命を惜しまぬ働きにより、太田は戦火から免れた。

 二本松藩士小笠原是馬助、佐倉源五右衛門、朝河安十郎の三名は「幕末維新全殉難者名鑑」に名前を確認することができる。彼らの連名墓の前に小さな墓石が四つ並んでいて、少なくとも五名の名前(一人は法名)を確認することができる。彼らの名前は「名鑑」にはない。


小笠原是馬助 佐倉源五衛門源政行 
朝河安十郎 墓


二本松藩士の墓
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常陸大宮 Ⅳ

2017年09月08日 | 茨城県
(粕谷新五郎生家)
 常陸大宮市野口平の粕谷新五郎の生家と墓の正確な位置を知りたくて、市の商工観光課に問い合わせをした。早速、電話があり住所や粕谷家の電話番号などを教えていただいた。「訪問するときは必ず事前に電話してください」と念を押された。確かに粕谷家の墓地に行くには、粕谷家の敷地内を通らなくてはいけないため、やはり事前に断りを入れるのが礼儀であろう。
 電話するとその日御主人は不在で、代わりに奥様に対応いただいた。
 粕谷家の墓は、裏山の中腹にあり正面に粕谷家の墓、その手前に粕谷新五郎ら歴代の墓が並べられている。まず墓前に花を供えた。


粕谷新五郎宗伯君墓

 粕谷新五郎は、文政三年(1820)生まれ。父は粕谷忠兵衛といった。水戸で町同心などを務めていたが、後に江戸に出て目付方務に就いた。安政五年(1858)脱藩。密勅の返納問題では長岡に参集した。万延元年(1860)八月には同志とともに江戸の薩摩藩邸に駆け込み、攘夷の決行を迫った。これにより藩から処分を受けて文久二年(1862)はるまで江戸藩邸に幽閉されていた。放免された文久三年(1863)、幕府が募集した浪士組に参加して上京。江戸帰還に反対して、芹澤鴨、近藤勇らとともに京都に残留して、新選組結成当初の名簿に名前を連ねている。しかし、時期は不明ながら故郷に戻って、元治元年(1864)三月の天狗党の筑波山挙兵に参加。脱走して同志に捕まり、同年六月下野小山の持宝寺で自害させられている。四十五歳。

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那須 Ⅲ

2017年09月08日 | 栃木県
(グリーンピアセカンド)


浮浪徒十四人之墓

 水戸浪士(天狗党隊員)の戦死者を葬った「浮徒十四人之墓」を探して、この辺りを走り回ること四度に及んだが、どうしても見付けることができない。そこで那須町観光協会に問い合わせたところ、写真付きで詳しい地図を送っていただいた。これがあれば、迷うことなく探し当てることが可能である。
 七月のどんより曇った日、念願を果たすため、早朝に自宅を出発して一路浮徒十四人之墓を目指した。場所は県道72号を進んで黒川橋を渡って直ぐに左折。グリーンピアセカンドという別荘地に至るが、最初に出会う三叉路を左に入り、二つ目の交差点を左折し、その先の田圃の中にある。車で近くを走っていて見える場所ではなく、やはり場所を知らずに探し当てるのは簡単ではない。やっと対面できたことに感慨一入であった。小雨が降り始めたが、しばしこの墓の前にたたずんだ。
 この墓は、文字とおり水戸浪士十四人を葬ったもので、葬られているのは田中愿蔵隊に属した隊士(いずれも農民)といわれる。元治元年(1864)十月、捕えられた彼らはこの地で処刑された。明治九年(1876)、十三回忌を機に建てられたものである。

(山田資料館)
 JR東北本線の黒田原駅から徒歩数分という住宅街の中に山田資料館がある。明治二十四年(1891)、黒田原一帯の払下げを受けた山田顕義は、開拓のための農場事務所をこの地に構えた。当時は母屋、事務所、宿泊部屋、穀倉などを備えていたが、今は事務所の一部が残っているのみである。資料館では山田顕義やその子孫の写真や遺品を展示している。入場無料、要事前予約。
 例によって私がこの場所を訪れたのは朝の七時半で、開館時間の遥か前であった。


山田資料館


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栃木 Ⅳ

2017年09月08日 | 栃木県
(近龍寺)
 定願寺と同じく、天狗党が宿所とした寺である。定願寺に本陣が置かれ、田丸稲之右衛門や藤田小四郎らが宿泊。元治元年(1864)六月一日、近龍寺には田中愿蔵隊が入った。
 田中愿蔵は定願寺の総裁田丸稲之右衛門から軍装が華美に過ぎることを咎められ、近龍寺の裏門から出立するよう命じられた。


近龍寺


近龍寺裏門

 栃木を出た天狗勢は結城に移動したが、ここから田中愿蔵隊は独自行動を取り始める。栃木に引き返した田中は、非武装・無抵抗の住民を殺害した上、街に放火した。火事は終夜収まらず、焼失家屋四百余という被害を出した。さらに消火しようとした町民が田中愿蔵隊の手によって殺害された。栃木では「愿蔵火事」と呼んだ。
 田中愿蔵は、攘夷にとどまらず倒幕思想を有していたといわれる。それにしても、無辜の住民を殺害し、街に放火するという暴虐な事件は正当化しようがない。天狗党は軍律を重んじていたが、若い田中を制御することができなかった。本来であれば、このような事件を起した時点で、田中愿蔵を処刑するか、討伐しておく必要があったであろう。しかし、田中愿蔵隊は天狗党と行動を別にしながら、時には共同して諸生党と戦った。外から見て、やはり田中愿蔵隊は天狗党の一部であり、天狗党=残虐な集団というイメージを最後まで払拭することはできなかった。田中愿蔵隊の存在があったから、諸生党に「こちらが正義」というお墨付きを与えることになったし、幕府も迷うことなく天狗党の追討を命じることになった。天狗党が悲惨な最期を迎えた伏線は、既に田中隊が暴虐事件を起こした時点で芽生えていたといって良いだろう。

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泉岳寺 Ⅳ

2017年09月01日 | 東京都
(泉岳寺つづき)


大觀院神易呑象居士(高島嘉右衛門之墓)

 高島嘉右衛門は、天保三年(1832)の生まれ。父は遠州屋(本姓薬師寺)嘉兵衛といった。父とともに江戸で材木商を営んだが、盛岡藩境沢鉄鉱の経営に従事し、金貨密貿易で万延元年(1860)下獄。慶応元年(1865)出獄後は横浜で旅館業、土木建築業で成功を収めた。明治三年(1871)、高島学校(洋学)を創立。新橋・横浜間の鉄道開通式には庶民総代の一人に選ばれた。横浜でガス燈事業を起こし、愛知セメント、北海道炭鉱鉄道会社を興して社長となり、北海道に高島農場を開設した。その後、東京市電鉄社長となった。この間、易者としても名声を得た。長女多摩子は伊藤博文嗣子博邦に嫁した。大正三年(1914)、年八十三で没。

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浜松町 Ⅱ

2017年09月01日 | 東京都
(東京ガス本社)


創業記念碑

 浜松町東京ガス本社の前に創業記念碑がある。昭和十年(1935)の建立。
 首都におけるガス事業の始めは意外と古く、明治六年(1873)十二月のことである。銀座街頭にガス燈を設置し、そこへガスを供給するためにこの地にガス製造所が建設された。この事業を東京ガスが引き継いだのは、明治十八年(1885)のことである。さすがにガス製造は移転しているが、今もこの地に東京ガス本社が立地している。

(汐留ビルディング)


新見藩屋敷の石垣

 汐留ビルディングの東側に備中新見藩の屋敷の護岸に使用されていた石垣を見ることができる(港区海岸1‐2‐20)。新見藩は、岡山新見に陣屋を置く一万八千石の小藩で、江戸中期から幕末まで外様の関家が治めた。戊辰戦争では官軍についた。

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清澄白河 Ⅳ

2017年09月01日 | 東京都
(増林寺)
 先日、市原の小柳常吉の墓を訪ねたところであるが、小柳常吉のことを調べていたら、小柳の墓が浄心寺にあるということが「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)に記載されていた。過去に浄心寺の墓地は、黒川盛泰の墓を探して散々歩いたので、多分探しても無駄足に終わるだろうという予感はあったが、念のため探してみることにした。小柳常吉の本姓は高石というが、その姓の墓すら見付けることができず、やはり空振りに終わった。
 そのまま地下鉄の乗って帰ろうとしたところ、出入り口の深川歴史散歩地図に増林寺に剣豪にして勝海舟の従兄弟である男谷(おだに)精一郎の墓があると説明があった。今までこの界隈を何度も歩いたが、ここに男谷精一郎の墓があることは知らなかった。急遽予定を変更して増林寺を訪ねることにした。

 墓地を歩き回った結果、男谷家の墓を一つ発見したが、側面には男谷直中とか男谷銑次郎といった名前しか読み取れない。精一郎とは別家のように思われる。


増林寺


男谷家之墓

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新橋 Ⅱ

2017年09月01日 | 東京都
(愛宕神社つづき)


愛宕神社

 愛宕神社の男坂である。男坂は、将軍家光の頃、間垣平九郎という男が馬でこの急坂を駆け上がり、将軍の求めに応じて梅を取って戻ったという故事に因んで、別名「出世の石段」とも呼ばれる。サラリーマンの街に相応しい名所といえるかもしれない。


西南戦争戦死者追悼碑

 愛宕神社の境内に西南戦争の戦死者を追討する石碑がある。西南戦争後の明治十二年(1879)の建立。表面が剥落して読解不能になっているのが惜しまれる。

(青松寺つづき)


追哀墳

 旧山口藩御親兵死没合祀之碑の傍らに請西藩の追悼碑がある。表には「追哀墳」と刻まれている。この石碑は、昭和十二年(1937)、即ち戊辰戦乱から七十年の式典の際に建碑されたものである。

(浅野内匠頭終焉之地)


浅野内匠頭終焉之地

 マッカーサー通りが開通し、工事のため一時撤去されていた浅野内匠頭終焉の地の石碑も元に戻された。浅野内匠頭がこの地で自刃したのは、元禄十四年(1701)のこと(港区新橋4‐31)。辞世

 風さそふ 花よりもなほ 我はまた
 春の名残を 如何にとやせん

 この石碑がある付近は、一関藩主田村右京大夫の屋敷があったことから、かつて田村町と呼ばれていた。現在藩邸があったことを偲ぶものとしては、この石碑しかない。

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