謹賀新年
実に六年振りの秋田における史跡訪問(その九割は墓巡りである)となった。
秋田県にはつい数か月前にも出張したばかりであったが、この時は個人的な時間をとれなかった。今回は金曜日の午後、秋田市近くの工場を見学し、翌日土曜日はゴルフというスケジュールであったが、ゴルフを嗜まない私は、週末を全て史跡訪問に充てることができた。
金曜日の夜に開かれた宴会は、秋田県の郷土料理(きりたんぼやら、ハタハタやら、いぶりがっこなど)と日本酒飲み放題というコースであった。地元の人にいわせると「日本酒は翌日残らない」というが、そもそもさほど酒に強くない私には、相当なダメージであった。脳みそが厚い雲で覆われているような朝であったが、それでも日の出時間に合わせて活動を開始した。レンタカー店の開く朝八時までは市内の寺院を歩いて回った。酒の影響だろうか、いつもの勘が働かず、いくら探しても見つけられない墓が三基。各寺で想定以上に時間を費やしてしまい、秋田市内の寺を回り終えた時点で、正午を過ぎていた。当初予定していた大仙市の史跡は諦めて、大曲から横手に直行することにした。一日目は横手市内の史跡も半分くらい積み残してしまったので、翌日も早朝から動きだし、前日の遅れを取り戻した。結果的には当初予定していた目的地を全て回り、予定になかった角館(仙北市)のお寺もいくつか回ることができた。
(旧亀ノ丁新町)
旧亀ノ丁新町
最初の訪問地は、宿泊した市内のホテルに近い南通六丁目である。本来この辺りに雷風義塾址石碑があり、前回秋田市内を探索した時もその石碑を探し求めて歩き回ったが、行き当たらなかった。今回はその石碑に再挑戦したが、やはり見つけられなかった。「旧亀ノ丁新町」という旧町名の説明した鉄柱に、「幕末この辺りに雷風義塾が置かれた」と記載がある。雷風義塾は、平田篤胤の門人、小野崎通亮、井口糺らが始めた私塾で、幕末には秋田勤王派の拠点となった。
(正覚寺)
正覚寺
織田寅蔵は岩崎(椿台)藩士。慶応四年(1868)八月二十九日、羽後長浜にて負傷。九月四日、八橋病院にて死亡。三十歳。
織田寅蔵平信之墓
(聲体寺)
聲体寺
官軍 吉川勇五郎忠行墓
吉川(きっかわ)勇五郎は銃士。明治元年(1868)九月十五日、羽後境村にて戦死。二十八歳。
故執政小埜岡府君之墓
小野岡義音(よしね)は、秋田藩家老(1785~1845)。天保の大飢饉では食糧調達に努めた。
(鱗勝院)
鱗勝院
仁平文九郎は橋本助右衛門隊銃士。慶応四年(1868)八月十三日、羽後角間川にて戦死。二十六歳。
官軍 秋藩 仁平文九郎之墓
官軍 秋藩 樋口長吉之墓
樋口長吉は斥候。慶応四年(1868)八月二十四日、羽後花館にて戦死。二十七歳。
官軍 秋藩 鎌田伊太郎之墓(右)
官軍 秋藩 忠岩道性居士
鎌田伊太郎は銃士。明治元年(1868)九月十五日、羽後境村にて戦死。二十五歳。墓石が二つ並べられているが、左手は遺族が私的に建立したものだろうか。
官軍 隊長 瀬谷和三郎之墓
瀬谷和三郎は浅利運吉隊。御刀番。慶應四年(1868)八月十三日、羽後角間川にて負傷。十月三日、死亡。三十二歳。
(傳法寺)
傳法寺
傳法寺の無縁墓石の中に秋田藩士武藤善太郎の墓石がある。もう一つ官軍 秋藩の墓石があるが、被葬者不明。
秋田藩士の墓
武藤善太郎の墓
武藤善太郎は銃士。明治元年(1868)九月十五日、羽後境村にて戦死。二十七歳。
(龍泉寺)
龍泉寺
設楽大助 設楽和一郎 墓
設楽和一郎は卒。慶応四年(1868)七月二十八日、羽後矢島にて戦死。二十七歳。
田所勇之進の墓
田所勇之進は銃士。慶応四年(1868)八月一日、羽後関村にて戦死。二十三歳。
(誓願寺)
竹様の「戊辰掃苔録」によれば、ここに秋田藩士堀尾茂の墓があるはずだが、二回誓願寺を訪ねたが、見つけることはできなかった。
誓願寺
(應供寺)
應供寺
應供寺墓地の一角に秋田藩士の墓が集められている。
秋田藩士の墓
前列右から 佐々木米蔵頼静之墓
祓川勝蔵朝晴墓 梅津忠名妻墓
伊勢久吉貞真墓 斎藤兵蔵墓 中山善右衛門墓
梅津忠村之奥墓(梅津千代吉の墓)
佐々木米蔵は梅津千代吉家人。明治元年(1868)九月八日、羽後福部羅にて戦死。十五歳。
払川勝蔵(正蔵とも)は梅津千代吉家人。明治元年(1868)九月八日、羽後福部羅にて戦死。二十六歳。
伊勢久吉(久治とも)は、梅津千代吉家来。明治元年(1868)九月八日、羽後福部羅にて戦死。十八歳。
斎藤兵蔵も梅津千代吉家人。明治元年(1868)九月八日、羽後福部羅にて戦死。二十一歳。
中山善右衛門は梅津千代吉勢。歩行士。慶応四年(1868)八月(九月とも)八日、羽後福部羅にて戦死。二十八歳。
梅津千代吉は番頭。隊長。明治元年(1868)九月八日、羽後福部羅にて戦死。二十七歳。