八戸市博物館には付近の風張遺跡から出土した多種多様の漆器類、漆を塗った弓、出来の精巧な土偶、甕葬の甕とその中に入っていた人骨などが展示してあります。一旦、土葬し骨だけにしてから甕に入れ、住宅の側に埋めて日常的に死者を懐かしがっていたようです。
以前、3月10日掲載の記事で、山梨の釈迦堂博物館のおびただしい縄文土器をご紹介しましたが、八戸の風張遺跡の土器のほうが上手に整形し焼き上げているようで、土偶も数等精密に仕上がっています。縄文土器はあちこちでよく見るが出来不出来の差があって面白い。
土器製造のプロが居れば、一方では見習い、あるいは素人のような縄文人が土器を焼いていたようでもある。また石の包丁やナタ、矢じりや釣り針の作り方も精巧なものもあるし、いかにも稚拙なものもあり、現代の工業製品の均質性とは違った血のぬくもりが感じられ見ていて楽しい。
漆器も色々あり、漆塗りの弓矢でイノシシや鹿を狩っていた様子が想像できます。
漁業も盛んで、貝塚からは種々の魚の骨、アワビの殻、ウニの殻、イルカなどの骨なども出て来たと展示されています。
縄文時代の人々はこんなに豊富な知恵と文化を持っていながら、農業はしなかった。なんという文化のアンバランスではないでしょうか? 農業ー食性植物の育成・栽培はそんなに難しいことなのでしょうか?採集・狩猟が容易で食物が容易に手に入ったからでしょうか?
それにしても冬は食べ物に困った筈です。不思議な人間の知恵のアンバランスを考えさせる展示内容でした。(終わり)
撮影場所:八戸市大字根城、八戸市博物館、 撮影日時:3月30日午前10時30分頃
主殿の周りに軍馬の飼育舎、刀剣、槍、弓矢の製造工房、大量の食量貯蔵庫などが再現されている。こんな殺伐とした城は見たことが無い。300年間臨戦態勢であったという実感が迫ってくる。
主殿に接するよう常時20頭以上の軍馬が飼われていた馬屋がある。騎乗の武士1人に5人くらいの兵が従うとすると、主殿には常時100人の戦闘兵が寝泊りしていたことになる。領主の乗る馬は1、2頭だけ主殿に密着した馬屋に飼われていた。
大きな写真は半地下式の陰鬱な武器製造工房である、その小さな入り口は身を屈めないと入れない。暗い入り口の土間を通り抜けると半分地下室の広い工房がある。
弓と刀の鞘や握りを作る工房は、刀、槍、鏃を鍛錬・整形する鍛冶工房とは別々の建物になっている。鍛冶工房へ供給する玉鋼は城砦内の2つにの「野たたら工房」が作っていた。南部地方は砂鉄の山地なので原料には困らない。
縄文時代と同じ構造の竪穴住宅が主殿を取り囲んでいて、米、味噌、漬物、乾魚類、などの戦闘食が多量に貯蔵されていたことが分かる。奥の倉庫に宝物のように大切に貯われて居た食器、櫃などの什器類は質素である。
江戸幕府確立以前の日本の地方政権が300年続いいた例は非常に少ない。平泉の藤原文化は3代で源頼朝に滅ばされ、頼朝の鎌倉幕府も140年弱で滅びた。いや江戸幕府でさえ260年の命運であった。
八戸南部は、同族の盛岡南部と300年並立していたが関が原の戦いで政治判断に失敗し、八戸南部は1627年、遠野へ領地替えになった。その後は盛岡南部の配下へなり、江戸時代は盛岡南部藩の家老職を代々続けた。(終わり)