奥多摩の秋川上流には東京都西多摩郡檜原村があり、その山地奥深く「数馬の里」がある。
屋根が異様に大きい兜造りの家々があり、いかにも古い歴史のあるの雰囲気である。
南北朝時代の1336年ころ、南朝方の武士、中村数馬が落ちて土着したので「数馬の里」と言う。
豊臣秀吉が天正18年(1590年)、小田原城を落とし、甲斐の武田一家も滅んだ。武田の落ち武者も「数馬の里」に住み着いたと言う。江戸時代になって甲斐から兜造りが入ってきた。
数馬の里は武蔵平野や甲斐盆地から隔絶された孤島のような山郷で、独特な方言や地域文化を維持してきたという。現在も地名の読み方が不思議だ。人里と書いて、へんぼり、と読む。笛吹は、うずひき。神戸は、かのと。事貫は、ことずら。日向平は、ひなたびら。
こんな歴史のエピソードを知った上で下の写真6枚をお楽しみ下さい。尚、下の大きな写真は「蛇の湯」と言い、日帰り入浴歓迎。傷ついた大蛇が傷をいやしたと言い伝えられている。いつもコメントを下さる高山さんによると、この事は江戸時代寛政年間の林述斎の「新編武蔵野風土記稿」に載っているそうです。
撮影日時:4月12日午後2時頃。