以下はこの直前に掲載した「外国体験のいろいろ(59)」に関連する記事なので再録します。原文は11月12日に掲載しました。
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◎地下室で見た中国人の本音
中国の首相、周恩来が死んだ時、中央政府は公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止しました。たまたま北京にいた私に、旧知の周栄章・北京鉄鋼学院教授が声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言いました。
暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ大學の地下室でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていました。周氏は「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやるよ。それが中国人の根性なのです」と言い切りました。
外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用できたのでしょうか。このような体験は、中国も日本も権力者と一般の人々との考えが違うことを教えてくれました。
中国東北部の瀋陽に行った時、東北工科大學の陸学長がニコニコして「私は日本人の作った旅順工大の卒業です」ときれいな日本語で言いました。そこで、東北大学で習ったM先生が旅順工大にいたことを話しましたら、「悪い先生もいましたが、大変お世話になった素晴らしい日本の先生もいました。ご恩は忘れません」と懐かしそうでした。中国人、少なくとも知識人の方は個人の付き合いと国家同士の論争とは分離して考えているようです。
@オートンさんの思い出
六〇年、米国のオハイオ州立大金属工学、博士課程の講義に初めて出た時に会った、ジョージ・オートン氏は爆撃機を操縦して東京へ焼夷弾を落とした男です。大きな体、坊主頭、赤ら顔のカウボーイのような男でした。面倒見のよい人で、英語のできない私にノートを見せてくれ、何度も家に招待してくれました。当時、彼は空軍大佐でしたが、引退後大学の先生になろうと博士課程を取っていました。
なぜ日本人の私の面倒をそんなに本気でみるのか、かなり親しくなってから聞いたことがあります。「俺は東京へB29で何十回も空襲に行ったよ。それでなんとなく日本人に親近感ができてしまったのかも…」。彼はその話を二度としませんでした。
奥さんのケイが死んだのは二十年も前です。しばらくしてから南部にオートン氏を訪ね、二人でケイの墓参りをしました。いつも大声で陽気に話していた彼は消え入るように沈んでいました。平らな石を水平に埋め込んだ白い墓石が一面に広がり、秋風が吹き渡っていました。また何年か過ぎ、アニタという女性と再婚してから元気になったようです。
1988年、私はオランダの出版社から初めて英語で専門書を出版することになりました。その時、原稿を逐一訂正してくれたのがオハイオ州立大の同級生オートン氏です。
@走馬灯のように
オートン氏のことを思い出すと、1945年7月、少年であった私の目の前で一面火の海になった仙台の町々、空襲の大火に映しだされるB29の白い機体のゆっくりした動きを思い出します。憎しみも悲しみもない走馬灯のように。 オートン氏は2006年の末に亡くなりました。花輪を送り、遠くから冥福を祈るだけです。(この項の終わり)