1989年ベンリンの壁が壊されてソ連が解体した。国際間の緊張が一気に無くなった。
しかし第二次大戦終了の1945年から1989年までの44年間は、ヨーロッパ諸国の人々は、ソ連の侵攻を日常的な脅威として恐れていた。日本人には理解されていなかったヨーロッパ人の本音を書いて、残して置きたいと思う。
@闇夜の雑木林を歩くスウェーデン人
1975年にバウクさんというスウェーデンの青年を甲斐駒山麓の山小屋へ招待した。
夕食のために自分で燻製にしたマスと、大鍋のチキンスープの用意が出来た。
秋の夕日が落ち、闇夜になってもバウクさんが雑木林から帰って来ない。石空川の崖から落ちたのか?と私達が心配し始めた頃やっと帰って来て、スープの大鍋のかかっている焚き火の傍の椅子に座る。
「随分心配しました。よく真っ暗な雑木林で迷いませんね?」「軍隊に徴兵されて2年間訓練を受けました。闇夜の雪原で方向を間違わないで行進する訓練も受けました。星と手元の磁石で方角を決めます。磁石を10分置きに止まって注意深く見ることです。歩きながらでは駄目です」「スウェーデンの若者は皆軍隊へ行くのですか?」「そうです。原則として徴兵です。除隊後も毎年数日間の訓練があります」「何故そんなに軍事訓練にこだわるのですか?」
「祖国防衛の為です。間も無くベトナム戦争が米国の敗北として終わります。ベトナムへ多量の武器援助をしていたソ連に余裕が出来ます。アメリカの敗北を好機とみてフィンランドやスウェーデンへ攻め込んでくる可能性が大きいのです」「西側はそんなに緊張しているのですか?」「ドイツには米軍も駐留していて、侵攻が難しいので必ずスカンジナヴィア半島へ攻め込みます。フィンランドは親ソ的なのでソ連軍の無血通過を認めるでしょう」
@ポーランドへ移住するバウク青年
1980年ころストックホルム工科大学で工学博士を取るとバウク青年はポーランドの鋳物会社へ就職し移住してしまった。スウェーデンの防衛を情熱的に話していた彼がいとも簡単に共産圏のポーランドの会社に就職したので何か騙されたような感じを受けた。
しかし毎年クリスマスカードが届く。別紙に鋳物会社の中の仕事の様子や家族の様子を直筆の英語で詳しく書いてある。日本人でもこんなに親しげな私信をくれる人は多くは居ない。詳しい手紙の内容には共産主義のことやポーランドの生活の現実については何も書いていない。きっと検閲が厳しいために違いない。何故、民主主義のスウェーデンから共産党独裁のポーランドへ移住したのか?バウク青年の人間としての誠実さに深い疑問を感じつつ時が流れた。
@ベルリンの壁の崩壊で深い疑問が氷解する
1989年のゴルバチョフのソ連解体政策に従ってベルリンの壁も破壊された。
遠方の日本では直接的にその衝撃は感じられない。ただその後で来たバウクさんの手紙には溢れる喜びが描かれている。「私ども一家は第二次大戦後、ソ連を嫌ってスウェーデンへ亡命、移住しました。多くのポーランド人もスウェーデンへ移住しました。受け入れてくれた国へ恩返しで軍務につくのは当然です。ストックホルム工科大学に居る間、ポーランド本国のソ連の締め付けがそんなに厳しくないという情報を得ました。そこで思い切って1980年に移住したのです。この様子を書いて報告出来なくて失礼しました。私はもともとポーランド人です。ゴルバチョフさんのお陰でソ連の世界共産革命政策が放棄されポーランドにもやっと自由がやって来ました。ベルリンの壁の崩壊後、西ヨーロッパに亡命していたポーランド人が続々と帰ってきています」そして「ポーランド人は東郷元帥の頃から日本人を尊敬し、親しい感情を抱いています。」と結んである。
ベルリンの壁の崩壊は冷戦における米国の勝利のシンボルである。ポーランドだけでなくチェコ、スロバキア、ルーマニア、ブルガリア、バルチック3国などから、西側自由圏へ移住していた、多くの人々が奔流のように祖国へ帰っているという。
武力を用いない冷戦が終了した。その後の国際環境の大変革を見ると幸せな気分になる。 ポーランドに繁栄と輝きを!と彼の為に祈っている。(この稿の終わり)