先日、このブログで「政治家だけを非難するのは間違いではありませんか?」という題目の記事を掲載しました。それに対して、annanさんという方から以下のようなコメントを頂きました。
=====annanさんのコメント====================
直接に満足にお話できた政治家は多分、三方しかおりませんので、それをもって代表するのは、あまりに乱暴である事を先ずはお断りします。
お話できた政治家は個人個人にはそれぞれに素晴らしい方々でした。それが政治家となった時に、何故個人の良さが消え失せてしまうのでしょう。その方の生き様の信念・哲学の問題しょうか?
政治家に限らず経営者にも言えることですが、個人としては皆さん尊敬に値する方々がほとんどですのに、何故その良さが仕事で表現されないのでしょうか。
私は、公私に別の人格・コンプトがあることは美しい生き様とは思っておりません。政治家や経営者が公私一貫したコンセプトで活動しけば、企業献金など些末な問題だと考えます。どのような制限を付しても如何様にも抜け道があるのはこの世の常ですので、要は基本となる考え方の美学ではないでしょうか。
そういった意味で美学のある政治家が少なくなったと残念に思っております。
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このannanさんは「端坐斜眼」という優れた政治・社会批評ブログを書いていらっしゃいます。「検察が自分の組織のために野党をいじめる。それが時々、戦前の特高を連想させる」、「生活保護の相談に行ったら市役所は本気で対応しない。そこで市役所を国家賠償法違反で訴えた人がいる。賛成!、それも怠惰な役人根生を直す一つの方法かもしれない」などなどの鋭い意見が明解に書いてあるブログです。
そこで上にあるannanさんのコメントへ私のお答えを書きます。
政治家が自分の思想や考えを実行しようとすれば広く人々へそれを宣伝し理解してもらう必要があります。マスコミで宣伝するには莫大なお金が要ります。自分の考えを正しく理解してくれ、広い選挙区を歩きまわって他人へ説明してくれる人を多数そろえなければいけません。これは正当な宣伝・広報の費用です。いくら素晴らしい考えを持っていても多数の人が理解しなければ投票してくれません。民主主義にはお金が必要な場面が付きものなのです。小さな村の村会議員の選挙と違って、県会議員、国会議員となってくるに従って宣伝・広報の費用が莫大になります。だからと言って、違法な金の集め方をしても良いと言っているのではありません。この点を絶対に誤解なさらないでください。私の主張は、正しそうな候補者がいたら、個人的に応援するために、個人的な寄付をすべきだということです。会社や団体からの寄付を厳禁すべきと主張しているのです。ましてや国税を使って政党助成金を出してはいけません。公的な政党補助金は、草の根のような個人を基盤にした民主主義を破壊してしまいます。
さて、annanさんは、「個人として素晴らしい人は知っていますが、(選挙に勝って)政治家になった時に、何故個人の良さが消え失せてしまうのでしょう?」という疑問を投げかけています。
私の答えはこうです。「権力を少しでも持った途端に人間は豹変するのです」。
選挙に勝って国会議員という権力者になった途端に、尊敬すべき候補者が豹変し、自分の権力をもっと拡大するためのお金を集めることに狂奔し始めます。お金の亡者になるのですね。彼らの言い分は、「権力を握らないと、私の素晴らしい公約も実行できないのだ!」、そうですね。そんな理論で納得する人が多いから困るのです。
ここに民主主義の陥穽があるのです。人間の権力慾は縄文時代とちっとも変りません。権力慾を認めないと官僚機構や政治機構が作れないという悲しい事情が背景にあります。
annannさん、政治家や会社の経営者が美学を語っていたら権力増大やお金儲けに都合の良い場面だけで語ると思います。そんな事を書いていると自分がさびしくなりますので終わりに致します。公平でバランスの取れたコメントを頂いたのでつい蛇足を書いてしまいました。
失礼致しました。 (終わり)