日本人は洗礼ということに何かひどく抵抗感を感じるという。毎年ミッションスクールを卒業する人は数十万人いるが、ほとんどの卒業生は洗礼を受けていないという。江戸時代の禁教令が心理の底に残っているのかも知れない。洗礼を受けると仏式や神道のお葬式や結婚式へ出席出来ない。親類同士の付き合いが断絶する。なにか村八分にあうような恐れがある。そして欧米人へ迎合しているようで、純粋の日本人ではなくなる。教養としてキリスト教は勉強するが、洗礼は絶対に受けない。というような気持があるのだろうか?
全て、大変な誤解です。私が1971年にカトリック立川教会の塚本金明神父さまから洗礼を受けたのは神父さんが好きになったからである。いやになったら止めれば良い。信者というコースを卒業すれば良い。と、実に気軽に考えていた。そんな調子なので、洗礼を受けても悪い性格は一向に良くならない。悩みは少なくならない。職場では浅はかな競争心をむき出しにする。酒は飲む。
しかし、洗礼とは、浅い川をジャブジャブ歩いて渡るようなものだ。何も良いことは起きなかったが、川を一旦渡ってしまうと回りの風景が違って見える。キリスト教だけでなく仏教の教えが深く理解できる。なんといってもこれがとても嬉しく思う。仏教を大切にして来た日本人の心が分かる。
キリスト教徒になっても以前通りお葬式があればお経も唱和するし、法事にも出る。親類付き合いはむしろ進んでするようになった。神社へ行ったらお賽銭を律儀に上げるようになった。その結果、神社にお参りに来る人々の気持ちが理解できるようになった。
洗礼を受けたら、何々をしてはいけない。何々を実行すべし。という堅苦しいことを想像するのは間違いだと思う。少なくとも自分の心は自由に、気楽になった。心配ごとが少しだけ減った。
肉体の復活や最後の審判は疑わしいと思うときもある。ところが先週の神父様の説教では「信仰とは、99%の疑いと1%の希望なのだ」、と、言う。1%位の希望なら私も持っている。
洗礼を受けて変わったもう一つのことは欧米人の心が以前より深く理解出来るようになったことである。川をジャブジャブ渡って向こう岸からみると、欧米人の悲しみや苦しみがよく分かる。昔から教養としてキリスト教に関する本は随分と読んだ。しかし洗礼を受けて初めてキリスト教のことが少し分かったような気がする。自分が愚かであったのだろう。
最後に洗礼を受ける資格について説明したい。いろいろな国家資格には試験が付き物だ。1971年に塚本金明神父様へ聞いた、「洗礼を受ける資格はなんですか?」と。
その時の塚本神父様の困惑した顔が忘れられない。しばらく考えたあとで答えられた、「資格はなにも要らない。ただ今までの人生が間違っていたと反省していれば良い」、「反省文でも提出するのですか?」「そんな物は不要です」ということなので、試験も受けず、反省文も出さずに洗礼を受けました。数回お話を伺っただけで、とにかく気楽に受けたのです。気楽に川を渡ってしまったので何時でも帰ることが出来ます。
洗礼は身構えて、決心して、まなじりを決して受けるものでは有りません。イエス様がさりげなく誘ってくれたら自然な気持ちで受けてみるのも良いものです。
しかし洗礼を受けてもこの世では何も良いことは起きません。(続く)