後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

教養としてのキリスト教(10)洗礼を受けると何か良いことがありますか?

2009年04月13日 | うんちく・小ネタ

日本人は洗礼ということに何かひどく抵抗感を感じるという。毎年ミッションスクールを卒業する人は数十万人いるが、ほとんどの卒業生は洗礼を受けていないという。江戸時代の禁教令が心理の底に残っているのかも知れない。洗礼を受けると仏式や神道のお葬式や結婚式へ出席出来ない。親類同士の付き合いが断絶する。なにか村八分にあうような恐れがある。そして欧米人へ迎合しているようで、純粋の日本人ではなくなる。教養としてキリスト教は勉強するが、洗礼は絶対に受けない。というような気持があるのだろうか?

全て、大変な誤解です。私が1971年にカトリック立川教会の塚本金明神父さまから洗礼を受けたのは神父さんが好きになったからである。いやになったら止めれば良い。信者というコースを卒業すれば良い。と、実に気軽に考えていた。そんな調子なので、洗礼を受けても悪い性格は一向に良くならない。悩みは少なくならない。職場では浅はかな競争心をむき出しにする。酒は飲む。

しかし、洗礼とは、浅い川をジャブジャブ歩いて渡るようなものだ。何も良いことは起きなかったが、川を一旦渡ってしまうと回りの風景が違って見える。キリスト教だけでなく仏教の教えが深く理解できる。なんといってもこれがとても嬉しく思う。仏教を大切にして来た日本人の心が分かる。

キリスト教徒になっても以前通りお葬式があればお経も唱和するし、法事にも出る。親類付き合いはむしろ進んでするようになった。神社へ行ったらお賽銭を律儀に上げるようになった。その結果、神社にお参りに来る人々の気持ちが理解できるようになった。

洗礼を受けたら、何々をしてはいけない。何々を実行すべし。という堅苦しいことを想像するのは間違いだと思う。少なくとも自分の心は自由に、気楽になった。心配ごとが少しだけ減った。

肉体の復活や最後の審判は疑わしいと思うときもある。ところが先週の神父様の説教では「信仰とは、99%の疑いと1%の希望なのだ」、と、言う。1%位の希望なら私も持っている。

洗礼を受けて変わったもう一つのことは欧米人の心が以前より深く理解出来るようになったことである。川をジャブジャブ渡って向こう岸からみると、欧米人の悲しみや苦しみがよく分かる。昔から教養としてキリスト教に関する本は随分と読んだ。しかし洗礼を受けて初めてキリスト教のことが少し分かったような気がする。自分が愚かであったのだろう。

最後に洗礼を受ける資格について説明したい。いろいろな国家資格には試験が付き物だ。1971年に塚本金明神父様へ聞いた、「洗礼を受ける資格はなんですか?」と。

その時の塚本神父様の困惑した顔が忘れられない。しばらく考えたあとで答えられた、「資格はなにも要らない。ただ今までの人生が間違っていたと反省していれば良い」、「反省文でも提出するのですか?」「そんな物は不要です」ということなので、試験も受けず、反省文も出さずに洗礼を受けました。数回お話を伺っただけで、とにかく気楽に受けたのです。気楽に川を渡ってしまったので何時でも帰ることが出来ます。

洗礼は身構えて、決心して、まなじりを決して受けるものでは有りません。イエス様がさりげなく誘ってくれたら自然な気持ちで受けてみるのも良いものです。

しかし洗礼を受けてもこの世では何も良いことは起きません。(続く)


心が浮き立つ老境の歓び

2009年04月13日 | 日記・エッセイ・コラム

仕事を止めて老境にはいる。年を重ねてゆくと、祖父母、親、伯父叔母は勿論、お世話になった恩人や友人があの世に旅たって行く。別離の悲しさが多くなる。体力も衰えハイキングもままならない。悲しい。老人は毎日、悲しい日々を生きているのだ。若い頃はそのように思い込んでいた。しかし自分が老境になって見ると悲しいことだけでは無い。歓びも多い時期なのだという大発見をする。

仕事を止めて3年になるこの頃は、心が浮き立つような心境にもなる。しかし、この心境になるのには1、2年の準備期間が必要だった。仕事が好きでそれを生き甲斐にしていた人間にとって、引退後の1、2年は人生観を立て直す準備期間である。

現役のころの以下のような考え方は、愚かな私だけなのかもしれないが。国立大学で働いていた。自分は自由な精神の持ち主で、物事を公平に見ていると自慢に思っていた。そう確信して、公平に判断することの重要性を他人へ説教さえもして来た。

70歳になって仕事を止めると、色々な職業をしてきた人々の幅広い話を聞くチャンスが急に増える。意見の多様性に目が覚める。自分が決して公平な目で物事を見ていなかったことを発見して愕然とする。国立大学で働いている人々は皆国家公務員という官僚なのだ。官僚主義の悪弊に染まりきっている。独立法人に組織変えをしても給料も運営経費も100%文部科学省から出ている。

官僚は自分の属している組織の権益の拡大と少しでも多くの予算の獲得に狂奔する。国立大学の事務局長は必ず文部科学省から派遣される官僚である。予算獲得の力で比較すると学長より偉い。国家公務員である以上、「国益のための教育」をする。国益とは中央省庁や大会社の権益や利潤を最大にすることなのだ。学生個人の人生を物心両面から豊にする教育ではない。私立大学や中小企業は低く見る。官尊民卑の悪弊である。

さて上のような考えを脱却するのに私は2年ほどかかった。人間は急には考えが変わらない。他人の意見をよく聞き、時間をかけて変化する。

特にブログやSNSで頂くコメントの多種多様性が自分の狭い視野を浮彫りにする。そうか、世間はこんなに広く、明るいのでだ、と気がつく。物事を色々な視点から見るようになる。これこそが「心が浮き立つような歓び」なのだ。

老境の歓びとは、「精神の自由の獲得」にある。そんな心境なので趣味が一層楽しくなる。いろいろな人々と友達になれるのも歓びだ。インターネットのお陰で遠方に住んでいる人とも友人になれる。華やかな老境とはこのような日々のことと思う。しかし、それも健康でいられる間の一瞬のことなのかも知れない。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。  藤山杜人