山梨の甲斐駒の麓にある質素な小屋によく行く。山に入る前の最後のは柳沢という。その入口の道路の両側に高い御影石の柱がたっている。「武運長久」という字がわずかに読める。先の大戦中にから出征していった若者の大部分は帰って来なかったと聞いた。この石柱の間を車で通るたびに戦死者の遺族の悲しさが車の中に流れてくる。あれから64年もたつのに。つい遺族の悲しさへ思いを馳せる。そして外国で見た戦死者の記念碑のことなどを思い出しながら車の運転を続ける。
1971年のことである。南ドイツの田舎の並木道は、地形に従った美しい曲線を描きながら、赤屋根のをつないでいる。道が別れる所には小さな祠(ほこら)がある。マリア様が祭られ、旅人の安全を守っている。しかしよく見ると、所々に大きな石碑があり、先の第二次大戦でから出征し、戦死したの若者の名前が刻んである。その名前を人々は決して忘れない。
戦死者を悼む記念碑は宗教とは関係がないような造り方をしている。しかし、若くして戦死した者を悼む家族は「神様どうぞ戦死した息子を天国に上げてください。イエス様が復活したように、死んだ息子もまたいつか蘇らせてください」と祈るに違いない。
愛する夫や息子を殺したのは誰だ。家族の心中を去来するのは、敵の軍隊、誤った戦略で軍事活動を指導した自分の国の政治家や参謀たち、間違った戦術を指揮した上官、出征を勧めた学校の教師たち、そして出征を止められなかった自分。この悲しみはどうすれば癒されるのか?
南ドイツの田舎道をドライブしながら、日本もドイツも戦死者の遺族の気持ちは同じと思う。と、同時に戦勝国の戦死者の遺族も同じことに思いが広がる。
我々、日本人は中国やヒリッピンなどの戦死者の遺族の気持ちも決して忘れないようにしたい。
山梨の山林の中の小屋に行く度に、「武運長久」の石柱の間を通る。悲しい思いをする。昭和11年生まれの私はこの悲しみから逃れることが出来ない。家族、親類に戦死者が居たわけではないが、昭和という時代の悲しみが心の中に沁みついている。(続く)