後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「霞ヶ浦近辺と南ドイツの魚料理に関する雑談」

2009年05月08日 | インポート

@霞ヶ浦近辺の魚料理

霞ヶ浦の周りにはハス田が広がり、夏には大輪の白い花が風に揺れる。ハスの葉の波に浮かぶ向こうに鰻(ウナギ)屋の看板が見える。「山中のうなぎ」という店の看板である。天然仕立てのウナギを土浦風の濃い味で香ばしく仕上げてある。川エビのてんぷら、芝エビのかま揚げ、ドジョウの柳川鍋、10月から早春の3月までは、透明な生の白魚の刺身などが供せられる。(HPは無い。電話:0298-28-0804)

クルーザーで沖宿の港へ行き、の中を歩くと、湖の魚の佃煮を売っている古い店がある。ワカサギ、小ブナ、ハゼのような小魚、小エビなどの佃煮が種類別に、少しずつ味付けを違えて、昔風のガラスケースに並べてある。分別しない小魚、小エビ類を一緒に佃煮にしたものもある。

以前は、沖宿まで行かないと霞ヶ浦の佃煮が手に入らないものと思い込んでいた。ところが、土浦駅近くの通りに何軒も佃煮専門の店があることが分かった。

思えば、昔、肉や卵が貴重で入手できず、佃煮でご飯を何杯も食べていたものであった。その時代、佃煮の詰め合わせが贈答用としてもてはやされていたことを思い出す。最近、佃煮を買うたびにセピア色の写真を見るような郷愁を覚える。佃煮を買っては食べ残し、また買うのは郷愁を買っているのだ。感傷に過ぎないのだが。

@南ドイツの魚料理

シュツットガルトに住んでいた1969から1970年、魚をよく食べた。ニシンやマスは小麦粉をまぶしてムニエルにする。うろこがほとんどないドイツのコイは溶いた小麦粉をつけて煮え立つ油でカラリと揚げる。タラの切り身はムニエルやポアレ。ノルウエー産サケの切り身は高級な塩引きになる。ニシンは香草とともに酢づけにしてガラス瓶に密閉して売っている。

ウナギは燻製にするか、生のままぶつ切にしてアールズッペというスープにする。ある時、ライン河の生きたウナギが市場でうごめいていた。購入し、下手ながらも三枚におろして蒸し上げ、醤油、砂糖、日本酒で作ったタレをかけオーブンで焼き上げる。香ばしい匂いが家中に漂う。

大きな期待で食べたら不味い!ライン河のウナギは小骨が硬く、蛇を想像させるような野生の嫌な匂いがして食べられたものでない。用意した高級なモーゼルワインも台無し。土浦の天然仕立ての「山中のウナギ」を食べるたびに、ラインウナギのまずさを思い出して苦笑を禁じえない。

ドイツの魚文化で特筆すべき一品がある。生のニシンを琵琶湖のフナずしのように発酵させたものである。マティエステ・ヘリングという。イカの塩辛とくさやの干物をミキサーにかけたような味である。はじめは臭くて食べられない。しかし、たいていのレストランのメニューにあり、腐ったような感じのグチャグチャに身が崩れた一匹を、うやうやしく大きな皿に盛りつけて出してくる。結構高価である。はじめは辟易(へきえき)したが、二、三回食べて病みつきになってしまった。 しかし、マティエステ・ヘリングにも上出来や失敗作もある。上出来なものは臭いが高貴な味がする。出来損ないは腐ったような味がするだけである。日本では一度も見たことがない。

詰まらない雑談なのでお詫びに霞ヶ浦の漁に使用されている帆船の写真を掲載します。壮快に気分になって頂ければ嬉しく思います。(終わり)

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昭和の悲しさ(4)食糧難の体験の記録

2009年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム

出来る事なら一生ひもじい体験などしないほうが良い。しかし運命がそれを体験させる場合もある。少年のころ過ごした仙台では昭和19年ころから戦後の昭和26年頃まで食糧難の時代であった。仙台だけでなく全国の都市は全て食糧難に遭遇した。餓死者も毎日出た。しかし、食糧難の時代も遥か昔になり、60年近くなると悲しいことは全て忘れてしまう。残るのは懐かしい、甘い思い出になってしまうから不思議だ。

昭和19年になると米の配給も不足し、お粥や大根の葉を刻みこんだご飯になる。サツマイモやジャガイモの蒸かしたものに塩を付けて昼食にする。庭でとれたカボチャを夜のご飯へ混ぜて炊く。肉などは何ケ月も見たことが無い。だだし、仙台は塩釜漁港に近いので腐った臭いのする激塩のタラ、ホッケ、ニシン、イワシ、が一品だけ何日か間をおいて魚屋に並ぶ。三陸沖で取れるクジラ肉も並ぶ日もある。製氷機が無いのですべて塩を多量に使った塩付けである。それでも腐るから凄い臭いだ。今書きながら臭いの酷さと塩辛さを思い出して生唾がほとばしる。そのせいで塩味の濃い料理が好きになり、今でも薄味好みの家人と意見が合わない。臭い魚は腐っているのではなく、発酵しているの場合が多いので食べられる。

そんな食生活も敗戦の8月15日の後に一変する。社会の秩序がなくなると食料の輸送や流通経路が混乱し、店からは食料関係の商品が消えてしまった。毎日、食べるものが無い。

ひもじさの余り長屋の友達に教わったアカザ、スカンポ、ハコベ、オオバコなどの葉や茎を野山から採ってきて醤油で煮付けたり、おひたしにして食べた。でも空腹はおさまらない。米を精米するとき出る糠に少しの小麦粉を混ぜてフライパンで焼いたパンも食べた。

まずい代物で喉につかえる。赤い高粱もゆでて食べる。これも不味い。戦後しばらくして進駐軍の食糧援助で軍隊用の豆のケチャップ煮の大きな缶詰めが配給になった。まずくはないし、栄養があって元気が少し出た。それに精製していない赤っぽい砂糖が多量に配給になった。米の配給の代用品である。カルメ焼きという玉杓子のような形の銅の小鍋で砂糖を溶かし、溶けたら重曹を付けた棒でかき回し、冷やすと、フックラと膨れ上がった砂糖菓子が出来る。子供でも面白いように出来る。食べるとサクサクとして実に美味しい。しかしいくら食べても米のご飯の代わりにはならない。すぐ飽きる。人間は砂糖だけでは生きて行けないという勉強になる。

肉に餓えていたので、何処の家でも鶏やウサギを飼っていた。毎日2個の鶏卵を5人の家族が分けて食べていた。卵を産まなくなったら殺して鶏肉を食べる。ウサギも殺して食べる。大人が殺して皮を剥いで、肉を鍋にするが、美味しくない。可愛がっていた鶏やウサギを食べて美味しいはずはない。

1960年にアメリカへ留学したとき、毎日肉が好きなだけ食べられることに吃驚した。

こんな国と戦争すれば負けるのが道理だと胃袋が教えてくれた。

現在でも肉料理が出ると、その有難さに思わず頭が垂れる。そしてひもじい思いですごした仙台の日々が甘い追憶として思い出される。(続く)