昭和10年以後、帝国大学の工学部を卒業した多くの人々は海軍の技術工廠へ入りました。技術士官として少尉になるのです。海軍が使う艦艇を造り、海軍の戦闘機の開発に参加したのです。また呉の製鋼所に入り働く人もいました。戦後は大学に戻ったり民間会社へ入ったりしました。しかし、若い頃、海軍の訓練を受けると影響が大きいようです。時間に正確で、明るくて、公平で、全てに建設的な態度をとるのが海軍と理解出来ます。私の恩人もそのような方でした。長い間お世話になっていると帝国海軍の良い面だけが輝きとなって私を明るくしてくれました。
その方が先週、静かに旅立ちました。2年ほど前にガンになり闘病生活が始まりました。
静かにスマートに一生を終えたいとお考えになったようです。年賀状も止めましょう。お歳暮ももう結構です。もう静かになりたいのです。随分とお世話になりました。と、恩人が若輩の私へ手紙を下さったのは2年ほど前でした。そして今年の1月には小康状態になったので近くの公園を奥様と一緒に散歩している。と、明るい葉書を下さいました。
2年程前、発病の前に、ある方のお葬式が教会でありました。その帰り道、私と恩人ご夫妻とゆっくり歩きながら久しぶりに話し合いました。階段を降りるのが怖い以外はすべてが楽しく、幸せな毎日ですとニコニコ笑いながら話していました。
この恩人と初めてお会いしたのは1961年、オハイオ州立大学でした。その時、恩人はある大学の教授でした。「日本へ帰ったら、私の研究室へ来ても良いですよ」と言ってくださいました。1962年オハイオから帰国し、この恩人の方の研究室に入りました。
それ以来、大学の助教授の席を探してくれたり、学会活動で若い私を引き立ててくれたり、文字通り職業上の全てのお世話をして下さいました。
一生不思議で仕方がありません。卒業した大学も違い、一切の縁故関係も無いのにどうしてこんなに親身に面倒を見てくれるのだろうか?何百回も考えました。
この方のお陰で私の人生が明るくなりました。私も学会を明朗な雰囲気になるように努めました。
見るとこの恩人は他の大学の人々にも公平に接しています。若い研究者を助けようとします。他の大学の研究者が研究発表をすると必ず褒めています。
この方の研究室に4年間お世話になっている間いろいろな所に連れていって貰いました。後年になってからは日中間の技術会議にも一緒に参加しました。思い出は尽きません。
海軍時代の話は一切しませんでした。ただ練習航海として駆逐艦に乗せられて横須賀軍港から台湾まで一回だけ航海したと聞きました。
ご葬儀はご家族のみでした。本当は自宅に参上し線香をたき、お花を供えたいのです。でもご本人はきっと、「それは止してくれ」と仰言るでしょう。
代わりに横須賀軍港を出港し台湾へ向かう折にご覧になったであろう観音埼灯台前の海原の写真を掲載して、ご冥福をお祈りしたいと思います。合掌