いつの時代でも政権側にとって都合の悪い失敗は記録から抹殺されます。特に明治維新以後の学校教育で教える歴史は、政権側に不利な事実は絶対に教えません。最近、明治時代を美化する風潮がありますが、真理は真理として客観的に調べてみることが非常に重要と信じています。
明治元年の「神仏分離令」に端を発する廃仏毀釈運動は悪い政策でした。政治が宗教を指導しようとした政策でした。結果として全国で貴重な佛教関係の建物や美術品が破壊され、焼きつくされたのです。
その上、日本の古来からの神仏習合という特有の文化が強制的に排除されたのです。宗教のありかたに優劣はありません。神仏習合が悪いか、悪くないかは民衆が決めるべき問題であり、中央の政府が関与すべき問題ではないのです。
廃仏毀釈運動は、その後、多くの人々に悪政だったと思われました。
明治政府は廃仏毀釈運動をなるべく記録に残さないようにしました。その結果、どれだけ多くの仏教寺院が消滅し、何人の僧侶が強制的に神官へ転職させられたかというような統計資料が残っていません。
この問題は特に戦前には研究出来ないような社会的な風潮がありました。
しかし、いろいろな神社やお寺を訪問すると石碑が立っていて明治維新後の廃仏毀釈運動でどんな事が起きたか明確に刻んであります。
例えば戸隠神社は明治維新以前には存在していなかったのです。以前は戸隠山顕光寺という山岳仏教のお寺だったのです。神仏が習合したお寺だったのです。廃仏毀釈運動で全山の御堂が破壊され、粗末な神社が建てられました。そして現在の戸隠神社になったのです。
今日は私の住んで居る小金井市にある貫井神社(貫井弁財天)とそれに隣接する神仏習合のお寺、貫井山真明寺を取材してきました。
江戸時代は同じ境内にあったのを、コンクリートの塀で東西に分けただけで両方とも生き延びたのです。
どちらの境内にも明治元年の神仏分離令の事が石碑に明確に刻み込んでありました。明治8年に貫井弁財天は厳島神社と改名させられたのです。廃仏毀釈の嵐が終って、しばらくしてから現在の貫井神社という名前になったのです。
一方、貫井山真明寺の石碑には江戸時代には貫井弁財天の別當寺として典型的な神仏習合のお寺であったと書いてありました。そして全国の神仏習合の寺々が破壊されたのに、幸運にも本堂は江戸時代のままに存続出来たと書いてあるのです。
廃仏毀釈運動はかなり気まぐれであった事も明らかです。例えば東京の西郊には山岳宗教の神仏習合のお寺が高尾山と御岳山にありました。高尾山の方は幸運でした。薬王院というお寺と飯綱大権現という神社が現在でも同じ境内の中に仲良く存続しています。
御岳山の方は仏教に関係するお寺や御堂は現在一切有りません。廃仏毀釈運動の犠牲になったに違いありません。有るのは御岳神社だけです。
このような視点で全国の神社仏閣を調べるといろいろな廃仏毀釈運動の様子が明らかになって来ると思います。
皆様の住んでいらっしゃる土地の江戸時代の神仏習合の実態をご存知でしたなら、是非お教え下さい。お待ちしています。
下に廃仏毀釈運動の前は同じ境内に有った貫井神社と真明寺の写真をしめします。完全に隣接しています。