後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ああ、昭和は遠くなりにけり

2011年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム

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老人になると少年のころが無性に懐かしくなる。昭和11年に生まれたので、昭和天皇が懐かしい。それにしても昭和時代はもう23年も昔のことになってしまいました。ああ、昭和は遠くなりにけり、ですね。

そこで昭和天皇記念館のことをご紹介したいと思います。

立川市の昭和記念公園の花みどり文化センターの中の昭和天皇記念館を訪れた。

展示はいろいろある。昭和21年から29年にわたる全国の津々浦々へ行幸なさったたときの白黒写真のスライドが大写し画面で、ゆっくりと流れる。筆者が住んでいた仙台市へいらした時のもある。小学6年生の秋であった。小旗を振ってお迎えした。展示のスライドは全国各地の人々の群れに囲まれた天皇のお姿が映っている。みな貧しげな服装であるが、顔が明るく輝いている。

この時ほど昭和天皇を身近に感じたことが無い。全国の都道府県をすべて巡幸された。沖縄県以外は。

沖縄では基地反対運動などで騒然とした時代が長く続く。そんな中で天皇の訪問は政治的に慎重にならざる得ない。ついに 昭和62年、沖縄国体の時、沖縄訪問の予定が決定する。しかし残念にもご病気で取り止めになる。

その時、代理でいらした皇太子に託した沖縄県民への手紙も展示してある。沖縄上陸作戦に民間人が巻き込まれ、悲惨な地上戦が3ケ月も続いた。そんな沖縄への切々たるお気持ちがあふれた文章である。人間性豊かな天皇であった。終世、沖縄訪問を願いつつ果たせなかった。

また展示室右手上には6枚の大型液晶画面があり87年のご生涯の映像が出る。

晩年にテレビ記者と会見したときのお元気な御声をかなり長時間聞くことができる。これは係の人に申し出て、是非お見逃しなく。

展示室の中央には昭和10年から52年までご愛用になられた箱形ベンツ乗用車が磨きあげて飾ってある。たびたび新聞写真でみた懐かしい乗用車です。

館内は撮影禁止なので入口のドアーと受付のところの2枚の写真以外は記念館のホームページ、http://www.f-showa.or.jp から引用しました。 下の列の左から2枚目は87年のご生涯の折々のお写真、3枚目は生物研究室の様子、4枚目は公務用の机、5枚目は昭和3年のご即位の折の行列の一部の様子です。

撮影日時;2008年7月31日午前11時頃 (終わり)


今日の散歩・・・武蔵野の森公園

2011年07月21日 | 写真

今日は久しぶりに最高気温が20度で、秋のようなさわやかな風が吹いています。

猛暑続きで散歩など出来ませんでしたが、今日は調布飛行場の西側に隣接する武蔵野の森公園を歩いて来ました。4km程の散歩でした。ついでに大島通いの小型旅客機の写真を撮りました。曇りなので良い写真は撮れませんでした。(終り)

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日本人は心を一つにして東日本大震災の復興を15年努力しよう!

2011年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム

大震災の起きた3月11日から4ケ月以上経過しました。時が経過するに従って、被災地以外の人々は大震災を忘れがちになって来ました。

プロ野球も大相撲も何時ものように賑わっています。マスコミでも、大震災関連の報道が少なくなって来ました。

しかし大津波に襲われた町の復興には少なくとも10年、いや15年はかかると思います。1945年のアメリカ軍の大空襲で焼け野原になった町の復興には10年、20年という期間がかかったのです。今回の大災害の復興は一朝一夕で出来るものではありません。

その事を思い、今回の大津波からの復興を根気よく努力しなければいけないと思います。日本人はみな被災地に心を寄せ、支援を続けることが重要と信じています。その思いを新たにする為に、下に1945年の大空襲で焼け野原になった仙台市の写真と、今回の大津波で破壊された町の写真を2枚掲載いたします。

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(1945年7月10日の仙台大空襲の後、仙台駅から南町通りの向こうの西公園方面の光景。)

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空襲による戦災と大津波による被災は同じようです。復興には同じような期間と努力が必要です。

いきなり個人的な経験を書いて失礼致します。下の写真は私が小金井市に引っ越して来た1964年頃の駅前の写真です。駅舎の前の広場には水が溜まっていて、アメリカ軍のトラックを改造したバスが走っていました。1945年の敗戦以来、20年近く経過していてもこのありさまでした。

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更に下の写真は引っ越して来た家の北側にあった商店へ続く道の様子です。舗装もされていなくて、風の日は土埃の舞い上がる道でした。

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蛇足ながら、最後の写真は昨年やっとJR中央線の高架化が出来て、新しく整備された小金井駅の様子です。

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戦後の復興と今回の大災害からの復興の大きな違いは日本の経済力の違いです。今回の大災害は全国に及ぶものでは無かったのです。

茨城、千葉の海岸地域や漁港はみな大津波に襲われましが、大被害が起きたのは岩手、宮城、福島の3県だけに限定されたのです。

しかしこの3県の被災地の復興には10年、15年と長い期間と努力が必要なのです。復興はこれからなのです。この秋には被災者のほぼ全員が仮設住宅に移れるでしょう。本格的な復興はそれから始まります。

全国の人々が心を一つにして、これから始まる本格的な復興を支援するようにと祈っています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人