日本には昔、昔から神道がありました。自然にある山や巨木、そして偉大だったある人間をご神体として祀った自然宗教です。そこへ隋・唐から高度な教えを持った仏教が伝わりました。当然、神道側は仏教を追い返そうとします。佛教側は神道を駆逐しようとします。しかし両方を同時に信じるともっともっと御利益があると考える人々が多かったのです。神社の中にお寺を作り、そのお寺を神社の守り役にしたのです。また一方ではお寺の境内に神社を作り、そのお寺の守り役にしたのです。
この現象を神仏習合と言います。あるいは神仏混淆とも言います。
信者は神社へお参りへ行ってもお釈迦さまの慈悲に接することが出来、その上、家内安全・商売繁盛を神社に祀られた神に守って貰えるのです。不思議な宗教ですね。しかし、同じ境内に日本の神と仏像が居るのは具合が悪いものです。当然、どちらが偉いのかという問題が起きます。神官と僧侶のどちらが管理権を持つのかという問題も起きます。
その問題を見事に解決したのが本地垂迹説なのです。
日本の神社に祀られている全ての神々は本来、お釈迦様や菩薩様の生まれ代わりなのです。そしてかりそめの姿になって日本へ降りてきたのです。そのように仮の姿で下りて来ることを「権現」と言います。ですから@@@@権現様は仏教の菩薩なのです。ですからこそ神社の本殿で別当寺の僧がお経を唱えても不思議ではありません。
このような本地垂迹説が奈良時代に出来あがり、神社とお寺が仲良く共存するようになりました。そして同じ境内の中に神社と佛教のお寺や五重の塔や鐘楼が作られたのです。同じ境内に神道の神主や神官が、仏教で得度した僧達と仲良く住んで、共同で宗教行事を分担して来たのです。神官が主導権を持てば神社になり僧侶が主導権を持てば仏教のお寺と理解出来ます。
実例で説明します。東京の西にある高尾山の真言宗の薬王院というお寺の建物の配置を写真で示します。山を登って行くとまずお寺風の山門が出てきます。そこを潜って入るとその下の写真のようなお寺の本堂が現れます。
ここで終れば普通のお寺です。ところが本堂の脇に石段があり、そこを登って行くと鳥居があり、神社風の本殿があります。「権現造り」の色鮮やかな桃山風の本殿です。祀ってある神は飯綱大権現様なのです。菩薩が飯綱山のご神体へ化身し、降りて来たのです。ですから飯綱大権現様は仏教の菩薩なのです。ですからこの神社風の本殿が薬王院で一番重要な建物なのです。
高尾山薬王院の場合は真言宗の寺院が出来、後に飯綱大権現神社が出来たようです。そして全ての管理運営権は僧侶が握ってきたものと想像できます。ですから敢えて分類すれば高尾山薬王院はお寺です。
このようにお寺の中に神社を作った場合とは逆に、神社がもともと存在していて、その境内に仏塔や鐘楼や仏像を祀った仏教形式の御堂を作っていった場合があります。その実例が府中市の大国魂 神社です。
明治維新の時、神仏分離令に端を発する廃仏毀釈の嵐の中でどのような運命をたどったかは神仏のどちらか管理権を持っていたかによって決まったようです。
その事情は、自ら率先して神仏分離をした府中市、大国魂神社の場合 をご覧下さい。
神仏習合と廃仏毀釈は日本の文化の重要な根幹をなしています。それをもう一度考え直す事が大変重要ではないかと信じています。その故にこの問題を根気よく追い続けているのです。(続く)
参考資料:
薬王院は今から約1200年前に開山された真言宗の寺院で、正式には「高尾山薬王院有喜寺」といいます。現在は成田山新勝寺、川崎大師平間寺とともに真言宗智山派の三大本山として広く知られています。
御本尊は「飯縄大権現」。不動明王の化身で、五つの相を併せ持ったお姿が特徴です。
大本堂では毎日諸願成就のお護摩(ご祈祷)が行われております。一年を通じて多くの方々が種々の悩みやお願い事を御本尊の前で僧侶とともに一心に祈念しています。