いつの時代も下積みの人々は必ずいるものです。
そのいう人々へ関心を持って、少しでもその苦しみを想像するようにしたいと思います。そして私には難しいことですが、そのような人々へ限りない愛を送りたいと願っています。
昨日の掲載記事、満州開拓事業として送りこまれた農民8万人の慰霊碑・・・われわれは決して忘れない はこの願いから書いたものです。
今日は小河内ダム建設殉難者と満蒙開拓青少年義勇隊のことをほん少しだけ書いてみたいと思います。
大きな土木工事には工事中に事故死する人々が必ずでます。特に戦前のトンネル工事や橋梁工事や炭鉱掘削などでは必ず殉難者が出ました。
その一例が小河内ダム建設中の殉難者87名です。下にその慰霊碑の写真を示します。
写真の出典は、http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Cenotaph_of_Ogochi_Dam_construction.jpgです。
この慰霊碑は小河内ダムの堰堤のはるか向こう側にあります。30年位前に歩いて行って、刻まれている殉難者の名前を丁寧に見て行きました。
87名の半分くらいが金とか李とか朴とか朝鮮系の名前なのです。
慰霊碑の足元には野の花と水の瓶が供えてあります。
しかし遠くの異国の土になってしまったので、親兄弟や親類も花一本すら供えることが出来ないと思いました。
その憐れさを想像してみて下さい。そしてほんの少しだけでも彼らの冥福を祈って下さい。
それはそれとして話は満蒙開拓青少年義勇隊のことに変わります。
満州には当時の拓殖省の指導のもと、いろいろな組織が開拓民を送り込みました。
いろいろな開拓団の一つに天皇崇拝主義者の加藤完治が指導し、組織したものが満蒙開拓青少年義勇隊だったのです。
徴兵前の満15歳から19歳の少年を茨城県に設置した「内地訓練所」で鍬と銃の使い方を教え武装開拓農民として満州へ送り込んだのです。
この茨城県にあった「内地訓練所」を終了して満州へ送り出された総数は実に86,530人と多数になったのです。大規模で組織的な武装開拓移民事業だったのです。
しかし昭和19年になると軍は満州にいる日本人の根こそぎ動員をはじめ、苦戦の続く南洋諸島へ送り込んだのです。
その上、終戦時のソ連軍の侵攻や現地人の襲撃にあい、故国に帰れなかった人は24000人だったのです。
下に青少年開義勇隊の慰霊像を示します。
写真の出典は、http://www.geocities.jp/bane2161/manmoukaitakuseisyounengiyuugun.htmです。
そしてこんな説明文もあります。
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この碑をおとずれる方に、
私たちが国策のきびしい求めのまゝに北満州の開拓の任をあたえられたのは昭和16年でした。
総勢269名。
その主力は15歳代の少年でした。
以来 異境の広野にいくたの苦しみを重ね 加えて第二次大戦の戦乱を身をもって経てまいりました。
その間 尊い数々の犠牲者を出しました。
測りがたい心のいたでをも受けてまいりました。
そして、あれから二十有余年。
ここに生存者一同 相計り 今は亡き友の霊をしのび あわせて 私たちの歩みの記録として、ここに一基の碑を建立いたしました。
昭和38年9月吉日
北信拓友会
元満洲開拓青年義勇隊 北村中隊
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満州開拓と言ってもその実態はすでに耕作地にしていた朝鮮人や中国人からその耕地を強制的に買い上げることが多かったそうです。
私は1982年に中国から留学研究生を受け入れたことことがありました。金応培先生という瀋陽にある東北工学院という大学の先生でした。
彼の両親は朝鮮から満州へ移住し農民をしていたそうです。日本人が来て強制的に農地を買い上げられ満州の山岳地帯の辺地へと追いやられたそうです。
極貧の生活のなか山にある巨大な松の実を集め下界の中華料理店へ売り、そのお金を学資にしたそうです。金応培先生は才覚もあり努力家でもあったので大学の先生になれました。
しかし彼の話によると日本人の満州開拓団の強制的な耕地買い上げによって貧民になった中国人が多数いたそうです。その恨みで終戦後、満州の日本人は中国人農民の襲撃にあい多数の人命が失われたのです。
日本の下積みの人々が朝鮮の下積の人々を犠牲にしたのです。そしてその意趣返しを受けたのです。
満州の開拓の実態を知れば知るほど戦争の悲しさ、恐ろしさに震えます。
そして苦しみを受けた彼我の下積みの人々に限りない同情を禁じ得ません。
冥福を祈ります。合掌。