後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

私はかつてこのような家族を持っていました、しかし今はもう居ない

2013年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム

以下は1970年、現在から43年前にドイツで撮った写真です。妻と子供2人、そして妻の父と私が写っています。かつてこんな家族を持っていました。

しかしそれは夢まぼろしのように消えてしまいました。

義父は亡くなりましたが他は生きています。しかしその肉体も心もすっかり変わってしまって別人のようになってしまいました。あの家族はもう居ないのです。そして間もなく死がやって来て家族はばらばらに消えて行きます。

今朝の読売新聞に出ていた和歌です。

「遠きひと 近き人など 呼びており かぐはしきかな あちらの時間」 辺見じゅん

人間は死んで浄土に行けば生前の家族、友人、知人、と皆一緒にお釈迦様に会えるという意味の「?会一処」という言葉と通ずる和歌です。

キリスト教では皆が死ねば全てイエス様に会える、一緒に天国に住むという信仰を持ちます。人間の本来の住処は天にあるのです。ですから死ぬことを帰天といいます。

人間はどんなに変わっていっても又会えると私は信じています。

そんな想いを込めてかつての家族の写真を掲載します。

なお写真を撮ったドイツの気候は、暗い、厳しい寒さのドイツの思い出 に書いてあります。

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幕末から明治初期のキリシタン弾圧の壮絶さ

2013年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は日曜日です。小生はカトリックの信者です。狂信はしていません。仏教も好きです。

このブログでは日曜日の朝はキリスト教関連の記事を書いています。

日本にはキリスト教徒は非常に少ない仏教国ですが、その考え方は日本の政治、社会、文化などに深い影響を与えています。ですから毎週一回くらいはキリスト教のことを考えてみたいと思っています。

今日は幕末から明治初期のキリシタン弾圧の壮絶さについて簡単に書きます。

1853年、アメリカのペリー提督が浦賀に来て日本を開国させました。そして5年後の1858年(安政5年)に江戸幕府はフランス、アメリカ、オランダ、イギリス、ロシアと修好通商条約を結び、1859年には横浜に各国の総領事館が出来ます。

江戸時代の末期の1862年に横浜の山下にカトリック教会が出来ました。徳川家康の禁教以来、260年、初めての近代的な教会堂がフランス人神父によって完成したのです。

しかし家康のの禁教令はそのままで、外国人だけが宗教の自由を許されていたのです。この横浜の「フランス寺」を見物に集まった日本人は幕吏によって逮捕され牢へ送られたのです。

その後、1864年には長崎に大浦天主堂が完成し、長崎奉行も招待して完成式典が盛大に行わたのです。しかし招待された長崎奉行は出席せず、反対に隠れキリシタンは大浦天主堂に現れるのを厳重に警戒していたのです。

そんな長崎奉行の警戒の中にもかかわらず、1865年の3月17日に大浦天主堂に15名程の農民が近づいて来て、プチジャン神父へ告白します、「私達は貴方様と同じ心です。長い間(250年間)、パーデレ様(神父様)が帰って来るのを待っていました」と言うのです。そして、「サンタ・マリアの御像はどこですか?」と聞きます。

プチジャン神父は驚喜します。これで隠れキリシタンが皆フランス寺の信者になってミサに参加出来れば、メデタシ、メデタシで一件落着になるのです。

しかし歴史は過酷でした。信仰を申し出た浦上村の村民は全員逮捕され、長崎奉行所の牢に入れられてしまったのです。そうしているうちに江戸幕府は大政奉還し、明治政府が成立します。

牢獄に入れられていたキリシタン達は釈放されると歓びます。しかし明治政府は一層過酷な弾圧をします。延べ3384人の逮捕者を数百人ずつ分けて中国地方の役所の牢獄へ預けたのです。流罪です。この流罪を「大浦崩れ」と言います。

「114匹を備前岡山預け、179匹を安芸広島預け、、、、、」などと、キリシタン信徒を公然と家畜なみに公文書に記載してあります。

各地の牢獄は不潔極まりなく、食事もひどいものだったのです。その上、牢獄の食料代として多額のお金を請求されました。

こうした残酷な流罪によるキリシタンの弾圧が、実に明治6年(1873年)に禁教令が廃止されるまで続行されたのです。

1862年、横浜にカトリック教会が出来、見物人が逮捕されて以来、1873年の禁教令の廃止まで、実に11年の長きにわたり信仰を告白したキリシタン達が弾圧されたのです。

明治維新になって宗教の自由が認められたと簡単に理解している人が多いようですが、日本に宗教の自由が定着するまでには多くの犠牲があったのです。

上に記した事は森 禮子著、「神父ド・ロの冒険」教文館、2000年出版を参考にしました。著者へ感謝の意を表します。)

それでは流罪になった浦上の農民はどうなったのでしょうか?

一つの例として、津和野へ送られた農民の運命を紹介したいと思います。

2年ほど前に津和野へ観光旅行に行きました。その時、ある大きなお土産屋の主人がボランティアとして観光案内をしてくれました。

津和野の家老町や白壁の街並みを説明しているとき、「津和野では36人のキリシタンを殺しています」とそこだけ悲しそうに、残念そうに話すのを聞きました。

一通りの案内が終って自分の店へ私達を連れて行って銘菓の「源氏巻き」を買うようにと勧めるのです。皆はその店でいろいろなお土産物を買いました。町の中心にある大きな土産店で、奥座敷で抹茶と源氏巻きを楽しみました。

その店の向かいに大浦天主堂を小さくしたようなカトリック教会があるのを私は見ました。

私は店を抜け出して、独りで教会を訪ねました。

長崎によくあるような畳敷きの教会です。

維新後の明治政府による弾圧(浦上4番崩れ)のとき、113名のキリシタンが津和野へ送られ、拷問に遭い、36人が殺されたのです。その殉教者の鎮魂のために、この教会を大浦天主堂に似せて建てたのです。津和野の町の真ん中にです。人々は36人も殺してしまったので建てるのを黙認したのでしょう。その教会の横には大きなカトリックの幼稚園があり数多くの園児が遊んでいました。

36人の拷問死は津和野の人々の心の中に、町の歴史として残っているのです。下にカトリック津和野教会の写真を示します。

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津和野でのキリシタンの殉教につては「乙女峠友の会」を検索すると詳しく出ています。キリシタン弾圧の一例を紹介いたしました。

それはそれとして、津和野は城下町でした。戦災に合わなかったので江戸時代の街並みが良く残っています。白い壁や家老門の連なる風景は美しい風景です。

感動したのは町役場が昔の家老門の中に古風な木造の建物を現在でも使っていることです。日本全国で江戸時代の家老門を構えている役場は津和野だけだそうです。

下に津和野の風景写真を示します。一番上の写真が町役場です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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