後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

連載小説、馬場 駿著、「雪積む樒」(ゆきつむしきみ)、その2、母の危うい姿

2013年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム

「コーヒー淹れたよ」<o:p></o:p>

 

 頭のなかを 現在(いま)に戻す言葉だった。<o:p></o:p>

 

 鉛筆を栞(しおり)代わりに冊子に挟んで私は、妻の側に座った。<o:p></o:p>

 

「明日、みさきのところに行ってくる」<o:p></o:p>

 

「うん、一年以上会ってないなぁ、俺は」<o:p></o:p>

 

 三歳になっている孫の顔は写真でしか知らない。<o:p></o:p>

 

「おとなみたいな口きくのよ、頭いいのかも」<o:p></o:p>

 

「大人の真似をするからこどもなんだ。傍にいる大人は親だから、口調が親そっくりになる」<o:p></o:p>

 

 だから可愛いとも言える。水を注すようだが頭の良し悪しはこの段階では判らないものだ。真似の速さや記憶力などとは本来無縁のものだからだ。他人との関係の捌(さば)きの中にこそ現われる。そう思う。<o:p></o:p>

 

「コーヒーの淹れ方、うまいな、相変わらず」<o:p></o:p>

 

「またまた」<o:p></o:p>

 

 そう言いながらも笑顔で「おかわりでしょ」と妻が腰を上げる。<o:p></o:p>

 

「親はさ」<o:p></o:p>

 

「え? 何」<o:p></o:p>

 

湯沸しの音で、つぶやき調の声ではよく聞こえないのだろう。<o:p></o:p>

 

「寄り添って、信じて、褒めてやることだよ」と大声を出した。<o:p></o:p>

 

 そうすれば子供は、親の想いから大きく外れたりはしない。だから学齢前の親子の大事な時期を、可愛がるだけの爺婆が邪魔をしてはいけないと、そう思う。変わり者の発想かもしれないのだが。<o:p></o:p>

 

「可愛くば五つ教えて三つ褒め、二つ叱って良き人とせよって言ってね」<o:p></o:p>

 

「標語みたいね、語呂が良くて」<o:p></o:p>

 

「そのとおり。四十年ほど前に運送のバイトをしていて湘南の道路で見たんだ」<o:p></o:p>

 

「すぐメモしたとか」<o:p></o:p>

 

「うん、あとでミソ帳にもシッカリ書き留めた」<o:p></o:p>

 

「そういうとこ普通じゃないな、やっぱり」<o:p></o:p>

 

 禁止と命令だけというのは親の愚行でしかない。無視・無関心は最悪の罪とさえいえる。これも私の持論だ。<o:p></o:p>

 

「学校の先生、似合うかもね、もう遅すぎるけど」<o:p></o:p>

 

 妻が首をすくめて笑った。<o:p></o:p>

 

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母は私を無視したのだろうか。自伝の中に出てくる「私」は二行だけだった。糅()てて加えてそれが出てくる頁も、何と四四。縁起も悪い。<o:p></o:p>

 

『その頃三男(駿)が生まれました。あぶなく三男を忘れるところでした。昭和二十二年四月九日、六人目の子です』<o:p></o:p>

 

 その忘れそうになった子が、自伝の編集をしたとは、泉下の母も苦笑しているのではないか。<o:p></o:p>

 

(いや、違うかも……)<o:p></o:p>

 

遠い記憶を辿った。<o:p></o:p>

 

 そうだ、母の自伝がいつの間にか分厚くなったのを見て、私が「本になるねぇ、この分量なら」と言ったときだ。<o:p></o:p>

 

 「きれいに書き直してるだけだよ、そうしとけば、いつか誰かが読んでくれるだろ」と、皺が目立ってきた小さな顔を、悪戯っぽく崩した母。<o:p></o:p>

 

 その「いつか誰か」の初めが私になるだろうことを予測し、期待していたのではないか。「何とゆう字?」の相手は常に私だったのだから。<o:p></o:p>

 

 母のその想いが、死が来る前に自作を何冊か上梓して遺しておきたいという現在(いま)の私の想いに繋がっている。もしそうだとしたら……。<o:p></o:p>

 

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『母の作品の真意を過(あやま)りなく第三者に伝達すること、果たしてそれは可能なのか。私が筆を執っては擱()き執っては擱きした事情はここにある。<o:p></o:p>

 

 しかし私は負けた。気をとり直した。<o:p></o:p>

 

 第二稿の終り頃に「目を瞑る」の字を見たときに。第一稿では書けなかった「一生懸命」の漢字を第二稿で見つけたときに。尋常小学校中退の母が、仏典の解釈を自分なりに自分の言葉で叙述しているのを見たときに。もしかしたら母は、私の数倍の学問をしてきたのではないか。そうであれば私が母の作品を編めるわけがない。逆接に言うことがゆるされるならば、右の自覚が急速に私の筆を速めた。母の声を聞こうと思ったからである。当初百八十枚になると思っていた稿が九十一枚で終わったのも同じ理由に因る。<o:p></o:p>

 

 この作品は父の死亡によって終焉を迎えるべき、と思ったのである。夫への愛憎は相半ばして母の人生に彩(いろど)りを添えた。それは余りにも激しく、余りにも極端であった。夫の行状に怒り首を絞めて殺そうとして子供に現場を見られ、朝が来るのが怖かったという条(くだり)は文字面を追っただけでも哀しい。父の一周忌近く、母が狂った事実を長兄と私は知っている。一年の歳月が父と母を限りなく近づけたのである。二人の間に生まれた息子でしかない私たち二人が出来たことは母を病院に運ぶことだけであった。あの場面で母が半狂乱の中で頼ったのは既に物故していた父であり、長兄でもなければ、ましてや三男の私でもなかった。このことに気付いたとき私は、この作品の骨格を初めてイメージできたのかもしれない。』<o:p></o:p>

 

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Sikimi_21
 昭和四十四年。
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 ……初めて見る危うい姿だった。私だけでなく、長兄にとってもそうだったろう。八畳間に置かれた二段ベッドの下段で、滂沱(ぼうだ)の涙を流し、髪を振り乱して囈言(うわごと)を繰り返す母は、確かに女だった。<o:p></o:p>

 

(オヤジが迎えに来ている?)<o:p></o:p>

 

子どもの目から見ても家庭人としての父は最悪の男だった。苦労をさせられ続けた夫から呼ばれ、それに従おうとして自分が置かれた現実と戦っている。見せている狂態はその証だ。そんな気がした。<o:p></o:p>

 

 長兄が近所の内科医院に走った。<o:p></o:p>

 

母と二人だけになったそのとき、私は一生忘れないであろう台詞を耳にする。<o:p></o:p>

 

「駿、勉強しなよ、駿、勉強…し、なよ』<o:p></o:p>

 

 二度目は声がかすれて不完全だった。<o:p></o:p>

 

 (嘘だろう? 何でいまなんだよ)<o:p></o:p>

 

しばらくの間その場に立ち尽くした私。<o:p></o:p>

 

 毅然たる無関心、そうではなかったのか。だとしたらこれまでの「仕打ち」の意味は? 親に、家庭に対する怒りを熱源にして独学を続け、父が逝った昭和四十三年に文部省大学入学資格検定に合格した私、その意味さえも覆す一言だった。<o:p></o:p>

 

(おふくろが、いまさら勉強って、何。いまさらだろう? ……何言ってんだ)<o:p></o:p>

 

俄かに目頭が熱くなり何も答えられなかった。ただジッと母を見詰めて、医者が来るのを待った。<o:p></o:p>

 

「脳軟化(脳梗塞)の疑いがあります。救急車を呼びましょう」と、往診に来た医師が言った。救急車の中で長兄と私は、迫り来る何かに囚われている母を凝視しながら、極度に緊張をしていた。<o:p></o:p>

 

 ところが運び込んだ総合病院の医師は診察後、救急隊員に質問されて明確に答えたのだ。<o:p></o:p>

 

「何でもありません」<o:p></o:p>

 

 それでは困ると隊員に念を押されても、彼の確信は変わらなかった。ある意味では「仮病」と診断されたことになる。<o:p></o:p>

 

長兄と私が、「ちょっとこちらへ」と医師に呼ばれた。<o:p></o:p>

 

「お母さんに、きょう、何かきついことを言いませんでしたか? 所見自体はありません、精神的なものです、症状は全てそこから出ています」<o:p></o:p>

 

 身に覚えが無かった長兄と私はキョトンとして顔を見合わせた。<o:p></o:p>

 

 処置室に戻ると、身繕いをすませた母がベッドから降りようとしている。<o:p></o:p>

 

落ち着いたいつもの表情になっていた。まるでカタルシスのあとのように。<o:p></o:p>

 

(また放り出されてしまった)<o:p></o:p>

 

ここでも私は、そう感じて横を向いた。(続く)<o:p></o:p>

 

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日本文化の特徴は無責任体制にある・・・個人の責任は問わない文化

2013年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム

福島の4つの原発が爆発して甚大な被害が出ました。

しかし日本人は自らの手で、その責任者を追及して裁判にかけ、処罰しようとしませんでした。個人の責任は問わないという文化なのです。

この文化は先の大戦で日本が完膚無きまでの敗戦になっても、その責任者を追求しなかったと同じです。

日本には脈々として無責任体制を良しとする文化が根付いているのです。ヨーロッパ文化と日本文化の相違を忘れないためにもう一度日本とドイツの比較をしたいと思います。

戦後、日本では戦争を指導した政治家や軍人をみずからの手で逮捕し、裁判にかけ、処刑をしようという発想がありませんでした。

ところがドイツ人は全く違ったのです。ナチス一派の政治家や軍人を6500人以上逮捕し有罪にしました。オーストリアでは13607人が有罪になり43名が死刑判決でした。

ドイツ人自身がドイツ人のナチス一派を戦争犯罪者として逮捕したのです。

日本人は生き残った参謀や高級将校を逮捕して、裁判にかけようとはしませんでした。

開戦を指導した政治家も逮捕しません。

軍に没収された財産の返還を求める裁判もしません。

特高警察で違法な暴力を受けた市民も裁判にかけませんでした。

インパール作戦のような無駄死を命令した参謀を逮捕しませんでした。

未成年の沖縄の女学生や中学生を駆り出して、死なせた沖縄防衛軍の生き残り将校を逮捕しませんでした。

この日本とドイツの相違は文化の相違です。個人の責任を重視する欧米の文化と、個人の責任があいまいで、個人の責任を重視しない日本の文化の違いです。

21世紀を完全な世界平和の世紀にするためにはこの文化の違いも考えて、どちらの文化にしても戦争のキッカケになる事をしないことが重要です。

以下に、ドイツ現代の歴史の非常に優れた研究者である清水正義氏の研究発表をご紹介いたします。清水正義氏の研究を、日本人は高く評価して、もっと注意深く読むべきと思います。

特にドイツの戦後の戦争にまつわる裁判は日本の新聞が殆ど報道しなかったようです。

私も詳しく知りませんでした。多分マッカーサー司令部が新聞報道を規制していたものと私は想像しています。

日本とドイツの占領政策は切り離して、マッカーサー司令部は日本だけを混乱なく統治したかったのかも知れません。

あるいは昭和天皇を裁判にかけようとする運動を無いものにしたかったのかも知りません。

以下の清水正義氏の明快な研究成果も是非お読み下さい。

=====ドイツ人自身によるナチス一派の裁判===========

出典は清水正義氏のホームページです。

http://www.geocities.jp/dasheiligewasser/qanda/vergangenheitsbewaeltigung.htm

戦後ドイツはナチスの過去と深刻に向き合ってきました。この過去との対決のことをドイツ語では「Vergangenheitsbewaeltigung」といい、日本では「過去の克服」と訳しています。

「過去の克服」は次の5つくらいの方向でなされています。

 

第一に、ナチス犯罪者を処罰することです。

第二次世界大戦後、連合国のニュルンベルク国際軍事裁判が開かれ、ヘルマン・ゲーリング、ルドルフ・ヘスなどナチス指導者が裁かれました。また戦勝各国それぞれがナチスの犯罪者を裁く裁判を行いました。

さらにその後、ドイツの国内裁判でナチスの幹部や犯罪実行者などが裁かれ、この国内裁判だけで現在までにおよそ6500人程度が有罪にされています。

 

日本でも、太平洋戦争後、連合国による東京国際軍事裁判や連合国によるBC級戦犯裁判が開かれていますが、その後、ドイツのように国内裁判で戦争犯罪人を処罰することはありませんでした。

この点で、ドイツがナチス犯罪者を処罰しようとする姿勢は、日本人から見ると際立っているように見えました。しかしユダヤ人など被害者側から見ると、まだ不徹底であるという批判がされています。

第二に、ナチス関係者を公職から追放したことです。

戦後、連合国によってナチス党は禁止され、ナチス党員は自らの過去を占領軍当局に報告することが義務付けられ、公職を追放されました。ただし、公職追放は連合国の方針の不統一や冷戦の開始などの政治状況の変化によって不徹底なものにとどまりました。とくに裁判官などの場合は簡単に人員交代ができないこともあって、元ナチス党員が戦後も枢要な地位にとどまったと言われています。

第三に、ナチス暴力の被害者となった個人に対して金銭や現物返却による補償措置がとられました。

最初のうち、ナチスによって財産を没収された人(とくにユダヤ人)の財産返却のための措置がとられ、ついで、イスラエルやヨーロッパ諸国の人たちを対象に金銭による補償措置がとられました。そして、ドイツ国内在住の被害者に対して連邦補償法による金銭の補償措置がとられるようになり、これがドイツ戦後補償の基本となりました。

近年になって東欧諸国からの戦時強制労働被害者に対して基金の設立のような形で補償措置がとられるようになっています。

第四に、憲法や法律などの中でナチス的なものが極力排除されました。

ドイツ憲法は、ナチスの再来を許さないようなさまざまな工夫がこらされています。例えば、ヒトラー政権誕生にいたる過程で、当時のワイマール共和国憲法下の大統領権限の大きさが問題とされたので、戦後はこうした大統領の政治的権限を著しく弱体化させました。またワイマール時代に議会が少数政党の乱立から機能不全に陥り、結果的にナチス党のような極右政党の進出を許したことから、戦後憲法では有権者の5%の得票を得ない少数政党は連邦議会議席を得られないことにしました。また、ナチス党を賛美したり、ナチス式敬礼(「ハイル・ヒトラー!」と右手を挙げる敬礼)をすることは法律によって禁止されました。

第五に、学校教育における反ナチス教育の徹底です。

ドイツでは中学校くらいのときにナチス時代のことを集中的に学ぶ機会があり、ナチスの権力掌握の意味や、当時のドイツ国民の考え方、どうしてナチスを支持したか、アウシュヴィッツなど強制収容所の実態などが細かく学習されます。ナチスの被害者となったポーランドとの間では歴史教科書をめぐる対話が進んでいます。

以上の5つの方向以外に、戦後の言論界におけるナチス的ものに対する批判、ドイツ国防軍の行動範囲の限定、歴史的なドイツ国境の放棄と戦後国境の承認などなど、戦後ドイツの内外政はナチスの過去と無関係に扱われるものは少ないのです。

こうした戦後ドイツのナチスとの向き合いについて、これを高く評価する見方がある一方、まだまだ不徹底であるとする見方もあります。

とくに1989年のベルリンの壁の崩壊、翌年の東西ドイツ統一以後、旧東ドイツ部分で再びナチス的な考え方が目立ってきたという見方もあります。

それは経済的に困難な地位に置かれた旧東ドイツの人々が、ドイツにたくさんいる外国人労働者に対して排外的な態度をとりがちであることも関係しています。

このように、ドイツではナチスの過去に対して真剣に取り組む実績を持ちつつ、しかし、今もなお、その努力が充分であったかと問い直すことが行われています。

日本での戦争責任論、歴史教科書問題などの問題を考える際にも、ドイツの事例がしばしばとりあげられるのはこうした背景があります。

 ======以下省略======================

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)