「コーヒー淹れたよ」<o:p></o:p>
頭のなかを 現在(いま)に戻す言葉だった。<o:p></o:p>
鉛筆を栞(しおり)代わりに冊子に挟んで私は、妻の側に座った。<o:p></o:p>
「明日、みさきのところに行ってくる」<o:p></o:p>
「うん、一年以上会ってないなぁ、俺は」<o:p></o:p>
三歳になっている孫の顔は写真でしか知らない。<o:p></o:p>
「おとなみたいな口きくのよ、頭いいのかも」<o:p></o:p>
「大人の真似をするからこどもなんだ。傍にいる大人は親だから、口調が親そっくりになる」<o:p></o:p>
だから可愛いとも言える。水を注すようだが頭の良し悪しはこの段階では判らないものだ。真似の速さや記憶力などとは本来無縁のものだからだ。他人との関係の捌(さば)きの中にこそ現われる。そう思う。<o:p></o:p>
「コーヒーの淹れ方、うまいな、相変わらず」<o:p></o:p>
「またまた」<o:p></o:p>
そう言いながらも笑顔で「おかわりでしょ」と妻が腰を上げる。<o:p></o:p>
「親はさ」<o:p></o:p>
「え? 何」<o:p></o:p>
湯沸しの音で、つぶやき調の声ではよく聞こえないのだろう。<o:p></o:p>
「寄り添って、信じて、褒めてやることだよ」と大声を出した。<o:p></o:p>
そうすれば子供は、親の想いから大きく外れたりはしない。だから学齢前の親子の大事な時期を、可愛がるだけの爺婆が邪魔をしてはいけないと、そう思う。変わり者の発想かもしれないのだが。<o:p></o:p>
「可愛くば五つ教えて三つ褒め、二つ叱って良き人とせよって言ってね」<o:p></o:p>
「標語みたいね、語呂が良くて」<o:p></o:p>
「そのとおり。四十年ほど前に運送のバイトをしていて湘南の道路で見たんだ」<o:p></o:p>
「すぐメモしたとか」<o:p></o:p>
「うん、あとでミソ帳にもシッカリ書き留めた」<o:p></o:p>
「そういうとこ普通じゃないな、やっぱり」<o:p></o:p>
禁止と命令だけというのは親の愚行でしかない。無視・無関心は最悪の罪とさえいえる。これも私の持論だ。<o:p></o:p>
「学校の先生、似合うかもね、もう遅すぎるけど」<o:p></o:p>
妻が首をすくめて笑った。<o:p></o:p>
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母は私を無視したのだろうか。自伝の中に出てくる「私」は二行だけだった。糅(か)てて加えてそれが出てくる頁も、何と四四。縁起も悪い。<o:p></o:p>
『その頃三男(駿)が生まれました。あぶなく三男を忘れるところでした。昭和二十二年四月九日、六人目の子です』<o:p></o:p>
その忘れそうになった子が、自伝の編集をしたとは、泉下の母も苦笑しているのではないか。<o:p></o:p>
(いや、違うかも……)<o:p></o:p>
遠い記憶を辿った。<o:p></o:p>
そうだ、母の自伝がいつの間にか分厚くなったのを見て、私が「本になるねぇ、この分量なら」と言ったときだ。<o:p></o:p>
「きれいに書き直してるだけだよ、そうしとけば、いつか誰かが読んでくれるだろ」と、皺が目立ってきた小さな顔を、悪戯っぽく崩した母。<o:p></o:p>
その「いつか誰か」の初めが私になるだろうことを予測し、期待していたのではないか。「何とゆう字?」の相手は常に私だったのだから。<o:p></o:p>
母のその想いが、死が来る前に自作を何冊か上梓して遺しておきたいという現在(いま)の私の想いに繋がっている。もしそうだとしたら……。<o:p></o:p>
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『母の作品の真意を過(あやま)りなく第三者に伝達すること、果たしてそれは可能なのか。私が筆を執っては擱(お)き執っては擱きした事情はここにある。<o:p></o:p>
しかし私は負けた。気をとり直した。<o:p></o:p>
第二稿の終り頃に「目を瞑る」の字を見たときに。第一稿では書けなかった「一生懸命」の漢字を第二稿で見つけたときに。尋常小学校中退の母が、仏典の解釈を自分なりに自分の言葉で叙述しているのを見たときに。もしかしたら母は、私の数倍の学問をしてきたのではないか。そうであれば私が母の作品を編めるわけがない。逆接に言うことがゆるされるならば、右の自覚が急速に私の筆を速めた。母の声を聞こうと思ったからである。当初百八十枚になると思っていた稿が九十一枚で終わったのも同じ理由に因る。<o:p></o:p>
この作品は父の死亡によって終焉を迎えるべき、と思ったのである。夫への愛憎は相半ばして母の人生に彩(いろど)りを添えた。それは余りにも激しく、余りにも極端であった。夫の行状に怒り首を絞めて殺そうとして子供に現場を見られ、朝が来るのが怖かったという条(くだり)は文字面を追っただけでも哀しい。父の一周忌近く、母が狂った事実を長兄と私は知っている。一年の歳月が父と母を限りなく近づけたのである。二人の間に生まれた息子でしかない私たち二人が出来たことは母を病院に運ぶことだけであった。あの場面で母が半狂乱の中で頼ったのは既に物故していた父であり、長兄でもなければ、ましてや三男の私でもなかった。このことに気付いたとき私は、この作品の骨格を初めてイメージできたのかもしれない。』<o:p></o:p>
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……初めて見る危うい姿だった。私だけでなく、長兄にとってもそうだったろう。八畳間に置かれた二段ベッドの下段で、滂沱(ぼうだ)の涙を流し、髪を振り乱して囈言(うわごと)を繰り返す母は、確かに女だった。<o:p></o:p>
(オヤジが迎えに来ている?)<o:p></o:p>
子どもの目から見ても家庭人としての父は最悪の男だった。苦労をさせられ続けた夫から呼ばれ、それに従おうとして自分が置かれた現実と戦っている。見せている狂態はその証だ。そんな気がした。<o:p></o:p>
長兄が近所の内科医院に走った。<o:p></o:p>
母と二人だけになったそのとき、私は一生忘れないであろう台詞を耳にする。<o:p></o:p>
「駿、勉強しなよ、駿、勉強…し、なよ』<o:p></o:p>
二度目は声がかすれて不完全だった。<o:p></o:p>
(嘘だろう? 何でいまなんだよ)<o:p></o:p>
しばらくの間その場に立ち尽くした私。<o:p></o:p>
毅然たる無関心、そうではなかったのか。だとしたらこれまでの「仕打ち」の意味は? 親に、家庭に対する怒りを熱源にして独学を続け、父が逝った昭和四十三年に文部省大学入学資格検定に合格した私、その意味さえも覆す一言だった。<o:p></o:p>
(おふくろが、いまさら勉強って、何。いまさらだろう? ……何言ってんだ)<o:p></o:p>
俄かに目頭が熱くなり何も答えられなかった。ただジッと母を見詰めて、医者が来るのを待った。<o:p></o:p>
「脳軟化(脳梗塞)の疑いがあります。救急車を呼びましょう」と、往診に来た医師が言った。救急車の中で長兄と私は、迫り来る何かに囚われている母を凝視しながら、極度に緊張をしていた。<o:p></o:p>
ところが運び込んだ総合病院の医師は診察後、救急隊員に質問されて明確に答えたのだ。<o:p></o:p>
「何でもありません」<o:p></o:p>
それでは困ると隊員に念を押されても、彼の確信は変わらなかった。ある意味では「仮病」と診断されたことになる。<o:p></o:p>
長兄と私が、「ちょっとこちらへ」と医師に呼ばれた。<o:p></o:p>
「お母さんに、きょう、何かきついことを言いませんでしたか? 所見自体はありません、精神的なものです、症状は全てそこから出ています」<o:p></o:p>
身に覚えが無かった長兄と私はキョトンとして顔を見合わせた。<o:p></o:p>
処置室に戻ると、身繕いをすませた母がベッドから降りようとしている。<o:p></o:p>
落ち着いたいつもの表情になっていた。まるでカタルシスのあとのように。<o:p></o:p>
(また放り出されてしまった)<o:p></o:p>
ここでも私は、そう感じて横を向いた。(続く)<o:p></o:p>
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