東北新幹線の北上駅からバスで五能線沿いに北上し、竜飛岬を観光し、金木で太宰の生家の斜陽館を見て新青森駅から帰ってきました。鰺ヶ沢から岩木山中腹に登り、ナクア白神ホテルに一泊しました。津軽半島をグルリと回る旅でした。
五能線乗車体験、12湖、白神ブナ林、13湖、竜飛岬、津軽鉄道乗車体験、斜陽館などはみな印象深いものでしたが、それらについてはいずれ写真をまじえてご報告いたします。
それよりも何よりも一番心を痛めた光景は五能線沿いの漁村の生活の厳しさです。
冬の地吹雪は4ケ月も続き、漁に出られる日は数えるほどしかありません。
生活が困窮します。
日本海からの雪まじりの烈風を防ぐための木造の高い囲いが家の中を真っ暗にします。
燃料節約のためにストーブもたかず、炬燵だけで厳寒の冬を過ごすのです。
子供たちは高校がないのでみな五所川原や弘前や青森へ出て行ってしまいます。就職口が無いにので学校を終えると大部分は東京です。
残った老夫婦はゆっくりながら次第に死に絶えて行きます。
村落に残るのは廃屋だけです。
日本海沿いの村落を通り抜けるバスの車窓からは雨戸を締め切った無人の家々が数多く見えるのです。
その光景は去年の6月に北海道の函館の東の太平洋岸の漁村の下のような光景と寸分違わないのです。
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日本国中、山奥の村落も廃屋が沢山あります。しかしそれらは観光ルートからかけ離れた場所にあるので都会の人々に目には入りません。
しかし漁村は、その先に美しい浜辺や灯台のある岬があるので必ず通り抜けることになります。
この日本の現実を忘れないで考えることも重要なことと感じさせる五能線沿いの道行でした。
さて竜飛岬の帰りは津軽半島の真ん中を南下しました。
津軽平野の広大な水田が全て田植えを終えています。水を満々とたたえている水田は残雪をいただいた岩木山を写しだしています。
この水田地帯にくると家々が急に立派に見えます。広い明るい農道が走り、村落の集会所や農協の建物が立派なのです。
山々の向う側の漁村の光景とはまったく違うのです。
しかしその光景は第二次大戦後の占領軍の命令による農地解放と小作人制度の廃止によって次第に出来てきた風景なのです。
戦前の小作人は地主の搾取が厳しくてろくにコメのご飯も食べられなかったのです。
冷害の年には娘たちが売られていったのです。小作人の家々は貧しい小さな藁葺の小屋や地主の納屋だったのです。
そんな時代を示すものが部屋数が19もある太宰治の生家の津島家の豪邸、斜陽館なのです。津島家は津軽平野の何人かいた大地主の一人だったのです。
下にその写真を示します。
この家は太宰治の父が建てたもので津軽平野の中の金木という所にあります。
太宰治の祖父が金貸しで財をなし、農地を買い集め大地主にのし上がったそうです。写真はいずれ示しますがこの家はすべて高価な青森ヒバで出来ており、その内部には洋風の部屋も含め19室ある豪華なものです。使用人が30人いて、小作人が300人いたそうです。
言い方を変えれば津島家は小作人の収奪によってますます金持ちになって、このように贅沢過ぎる豪邸を建てたのです。
しかし戦後はこの家も人手に渡り、「斜陽館」という旅館になっていたのです。
平成の時代になってかから金木町が改修し、地元活性化のシンボルとして公開しているのです。
今回の津軽半島の旅で一番心を打ったものが漁村の悲惨な光景と、水田地帯の大地主の小作人搾取によって出来た豪邸のすごさでした。
美しい風景については写真をまじえて今後、ご報告して行きます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)