後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

白神十二湖の写真をお楽しみ下さい

2013年06月01日 | 写真

五能線は秋田県と青森県の日本海に沿った地域を走るJRの鉄道です。東能代を起点に十二湖駅、深浦駅、鰺ヶ沢駅、五所川原と続いて川口で本線に合流し、弘前駅が終点です。車両といい、駅舎といい、全てが昔を思い出させるノスタルジックな鉄道なので鉄道ファンにとっては憧れの路線なのです。

その五能線の東能代から4つ目の駅が十二湖駅です。駅の西側は広大な日本海です。ここで下車して東へ向かい、そこから白神山地へ分け入り、大崩(おおくずれ)という山の下まで登ると30ケ程の湖が点在しています。33のちいさな湖がありますが、大崩の山頂からは12湖だけ見えるので白神十二湖という名前になっているそうです。

なお五能線を離れ日本海沿いにさらに北上すると十三湖という大きな汽水湖があります。これは浜名湖のように海につながっていて、北前船の重要な風待ち港がその中にありました。その中に一つの島があり、観光地になっています。

まぎわらしいのですが十二湖と十三湖は全く違う観光地なのです。

下には五能線の西に広がる日本海の写真、大崩という山の写真、鶏頭場の池の写真2枚、そして最後の5枚目に青池の写真を順々にしめします。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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津軽半島最北端の龍飛崎(たっぴざき)の写真をお楽しみ下さい

2013年06月01日 | 写真

龍飛崎は険しい断崖絶壁です。20kmの向うには北海道の松前が見えます。

絶壁の下にへばりつくように三厩(みうまや)の漁港と小さな村落があります。

村落はまさしく地の果てです。太宰治が「ここは本州の極地である。このを過ぎて路はない」とと書いているとおりの風景でした。

断崖の上には龍飛崎灯台と陸上自衛隊のレーダー監視台があり小さな部隊が常駐しています。

岩礁と三厩漁港と灯台の写真をお楽しみ下さい。

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上の写真の左方向から正面位に津軽海峡の向うの北海道が見える筈ですが、昨日は霞んで見えませんでした。漁港は三厩漁港です。

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・灯台は断崖の上の頂上にあります。上の写真の右のほうに灰色の小さなドームが写っています。陸上自衛隊のレーダー監視台です。山の向う側の斜面に津軽海峡監視部隊の駐在施設があります。

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・この灯台は日本海と津軽海峡を行き来する船のために働いています。

晴天に恵まれたので鮮明な写真が撮れました。(2013年5月31日撮影)


廃屋の多い漁村、農村への旅・・・地方の生活の悲惨さ

2013年06月01日 | 日記・エッセイ・コラム

東北新幹線の北上駅からバスで五能線沿いに北上し、竜飛岬を観光し、金木で太宰の生家の斜陽館を見て新青森駅から帰ってきました。鰺ヶ沢から岩木山中腹に登り、ナクア白神ホテルに一泊しました。津軽半島をグルリと回る旅でした。

五能線乗車体験、12湖、白神ブナ林、13湖、竜飛岬、津軽鉄道乗車体験、斜陽館などはみな印象深いものでしたが、それらについてはいずれ写真をまじえてご報告いたします。

それよりも何よりも一番心を痛めた光景は五能線沿いの漁村の生活の厳しさです。

冬の地吹雪は4ケ月も続き、漁に出られる日は数えるほどしかありません。

生活が困窮します。

日本海からの雪まじりの烈風を防ぐための木造の高い囲いが家の中を真っ暗にします。

燃料節約のためにストーブもたかず、炬燵だけで厳寒の冬を過ごすのです。

子供たちは高校がないのでみな五所川原や弘前や青森へ出て行ってしまいます。就職口が無いにので学校を終えると大部分は東京です。

残った老夫婦はゆっくりながら次第に死に絶えて行きます。

村落に残るのは廃屋だけです。

日本海沿いの村落を通り抜けるバスの車窓からは雨戸を締め切った無人の家々が数多く見えるのです。

その光景は去年の6月に北海道の函館の東の太平洋岸の漁村の下のような光景と寸分違わないのです。

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日本国中、山奥の村落も廃屋が沢山あります。しかしそれらは観光ルートからかけ離れた場所にあるので都会の人々に目には入りません。

しかし漁村は、その先に美しい浜辺や灯台のある岬があるので必ず通り抜けることになります。

この日本の現実を忘れないで考えることも重要なことと感じさせる五能線沿いの道行でした。

さて竜飛岬の帰りは津軽半島の真ん中を南下しました。

津軽平野の広大な水田が全て田植えを終えています。水を満々とたたえている水田は残雪をいただいた岩木山を写しだしています。

この水田地帯にくると家々が急に立派に見えます。広い明るい農道が走り、村落の集会所や農協の建物が立派なのです。

山々の向う側の漁村の光景とはまったく違うのです。

しかしその光景は第二次大戦後の占領軍の命令による農地解放と小作人制度の廃止によって次第に出来てきた風景なのです。

戦前の小作人は地主の搾取が厳しくてろくにコメのご飯も食べられなかったのです。

冷害の年には娘たちが売られていったのです。小作人の家々は貧しい小さな藁葺の小屋や地主の納屋だったのです。

そんな時代を示すものが部屋数が19もある太宰治の生家の津島家の豪邸、斜陽館なのです。津島家は津軽平野の何人かいた大地主の一人だったのです。

下にその写真を示します。

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この家は太宰治の父が建てたもので津軽平野の中の金木という所にあります。

太宰治の祖父が金貸しで財をなし、農地を買い集め大地主にのし上がったそうです。写真はいずれ示しますがこの家はすべて高価な青森ヒバで出来ており、その内部には洋風の部屋も含め19室ある豪華なものです。使用人が30人いて、小作人が300人いたそうです。

言い方を変えれば津島家は小作人の収奪によってますます金持ちになって、このように贅沢過ぎる豪邸を建てたのです。

しかし戦後はこの家も人手に渡り、「斜陽館」という旅館になっていたのです。

平成の時代になってかから金木町が改修し、地元活性化のシンボルとして公開しているのです。

今回の津軽半島の旅で一番心を打ったものが漁村の悲惨な光景と、水田地帯の大地主の小作人搾取によって出来た豪邸のすごさでした。

美しい風景については写真をまじえて今後、ご報告して行きます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)