後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

太宰治が死んで悲しむ5人、その二;子守の越野タケさんの困惑と悲しみ

2013年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム

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(上は小泊にある太宰とタケさんの像 右は晩年のタケさんの写真)

やっぱり本当のことを書いてしまいます。

かつて太宰治は「金木のごじゃらし(恥さらし)」と言われていたのです。

近年はその生家、「斜陽館」が観光資源になって津軽地方の経済が助かっているので、太宰治の悪口を言うひとは少なくなりました。しかし尊敬されてはいないようです。

尊敬と云えば、むしろ青森県知事を3期9年も務め、その後衆議院議員や参議院議員を務めた兄の津島文治氏のほうが皆に尊敬されています。

太宰治の子守をしていた越野タケさんも、彼の中学生以後の放蕩と4回もの自殺や心中未遂事件の噂に困惑し、悲しい思いで過ごしていたと思うのが自然ではないでしょうか。

彼女は小作の年貢米の代わりに津島家の子守になったのです。太宰が2歳の時でした。その家で、我が子のように愛した修治が、「金木のごじゃらし」と言われて非常に心を痛めたに違いありません。

太宰治は1909年生まれで、1948年に心中して果てました。

越野タケは1898年生まれで1983年に85歳で亡くなっています。

1944年に太宰治は30年ぶりに越野タケさんを訪ね、会っています。

この時、太宰は35歳でタケさんは46歳でした。

この30年ぶりの再会を太宰は「津軽」という小説で以下のように書いています。

フィクションですから再開の様子の真実からだいぶ違うのです。その違いは以下の文章の下に引用した越野タケさんのインタビュー記事をご覧になれば明快です。

===「津軽」よりの抜粋:http://www.geocities.jp/sybrma/index.html =====

・・・・・・・
龍神様(りゅうじんさま)
の桜でも見に行くか。どう?」と私を誘つた。
「ああ、行かう。私は、たけの後について掛小屋のうしろの砂山に登つた。砂山には、スミレが咲いてゐた。背の低い藤の蔓も、這ひ拡がつてゐる。たけは黙つてのぼつて行く。私も何も言はず、ぶらぶら歩いてついて行つた。砂山を登り切つて、だらだら降りると龍神様の森があつて、その森の小路のところどころに八重桜が咲いてゐる。たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取つて、歩きながらその枝の花をむしつて地べたに投げ捨て、それから立ちどまつて、勢ひよく私のはうに向き直り、にはかに、堰を切つたみたいに能弁になつた。
「久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来てくれるとは思はなかつた。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかつた。修治だ、と言はれて、あれ、と思つたら、それから、口がきけなくなつた。運動会も何も見えなくなつた。三十年ちかく、たけはお前に逢ひたくて、逢へるかな、逢へないかな、とそればかり考へて暮してゐたのを、こんなにちやんと大人になつて、たけを見たくて、はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいぢや、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行つた時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持つてあちこち歩きまはつて、庫
(くら)の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺(むがしこ)語らせて、たけの顔をとつくと見ながら一匙づつ養はせて、手かずもかかつたが、愛
(め)
ごくてなう、それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。金木へも、たまに行つたが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでゐないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言ふたびごとに、手にしてゐる桜の小枝の花を夢中で、むしり取つては捨て、むしり取つては捨ててゐる。
「子供は?」たうとうその小枝もへし折つて捨て、両肘を張つてモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人。」
 私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかつて、ひとりだ、と答へた。
「男? 女?」
「女だ。」
「いくつ?」
 次から次へと矢継早に質問を発する。私はたけの、そのやうに強くて無遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、私は、たけに似てゐるのだと思つた。・・・・・

====タケさんの証言:http://www.seinan-gu.ac.jp/kokubun/report_2003/dazai_ie.html ========

・・・・ここで注目したいのは生前のタケの証言である。ビデオは昭和五十六(一九八一)年に地元テレビ局RABで特集された「昭和十九年初夏『津軽』~太宰と小泊村~」というものであった。その時タケは八十三歳である。「津軽」を再現するように、昭和五十六年の小泊小学校の運動会の時にインタビューしたものであった。タケの話によると、その時彼女は四十七歳、太宰は三十六歳だった。太宰の服装は編み上げの靴に妙な飾りのようなものの付いた帽子を被り、ゲートルを巻いていた。再会の瞬間は、彼が首を傾げて、あ、いたいたと言い、太宰の右の目の下にはほくろがあったから、太宰と分かったそうである。一方、太宰の方も、タケのほくろを見てわかったようだとタケは言う。その後、小説のように龍神様の桜を見に行きそこで十分ほど話をした。話らしい話ではなかったが、太宰が自分は小さい時どんな子だったかを聞いてくるので、本が好きなとても良い子だったと言うと、ふうん、と笑ったそうである。タケが何のために来たのかと聞いた時には、会いたいと思ってきたと言ったということだ。タケの語る津軽弁は私には聞き取れないが、字幕が付いていたので助かった。大変暖かみのある声で、田舎のお婆さんが持つ独特の安心感を感じた。またそのほかにもタケのインタビューのビデオがもう一つあった。その中では、タケから見て太宰がどんな子どもだったかが語られていた。初めて津島家に来た時、他の兄弟に対しては「さん」付けで呼んだが彼には「修ちゃ」と一度呼んでみたら呼びやすかったので、それからずっとそのように呼んでいたそうだ。まるで本当の家族のように親しかったことが分かる。彼は良い子で「嫌だ」、と言うことがほとんどなかったが、食事の時だけは苦労をしたという。ご飯を一膳食べさせるのがやっとで、彼はよく逃げ回っていたようだ。しかし、家の人々は全く構わなかった。「人間失格」の中で、太宰自身の投影だと思われる主人公大庭葉蔵が幼少時代に、食事の時間が苦痛でならなかったと書いている。「末っ子の自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんの時など、十幾人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。」(「人間失格」)家族の集まる食事の時間に我が儘を言って構ってもらいたかったのだろうか。一種の甘えと見られるが、なお家族は気にすることなく、本当の家族ではない子守のタケだけが彼の甘えに応えた。・・・・

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上の2つの抜粋文をご覧になって皆様はどのようにお考えでしょうか。

 

太宰治が1948年に死んでタケさんはホッとしたでしょう。肩の重荷がとれたように感じたに違いありません。もうこれ以上、恥さらしな事件が起きなくなったのですから。

 

しかしそれから年月が流れていくにしたがって、タケさんの心の中に悲しみの情がしだいしだいに大きくなって行ったと思います。自分の子供のように育てた人間の非業の死を憐れに思ったに違いありません。悲しんだに違いありません。

 

タケさんにもう少し長生きして貰いたっかと思います。太宰治が多くの人々にしたわれて金木の斜陽館に多くの訪問者が絶えない様子を見てもらいかったと、私はむなしい思いをしながら帰って来ました。(続く)


最近の中国の国際外交のはなばなしさ・・・尖閣諸島は棚上げ

2013年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム

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(写真の出典:http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887323924104578522463208911192.html

最近の習近平国家主席の外交戦略は驚くことが多く、従来の中国の国際外交とは格段の差があるようです。

 アフリカ諸国へ驚異的な巨額の経済援助を発表し、貧困に悩むアフリカ諸国から喝采を浴びています。その後で安倍首相がアフリカを訪問し、中国よりは少ない経済援助を発表しました。明らかに後手に回って、外交戦で敗けてしまったのです。

 その前後に習主席はパレスチナ自治区の代表とイスラエルの大統領を北京に招き、中東和平のための「置き石」をおいたのです。この「置き石」はいずれ罠になり、イスラエルが苦杯を甞め、アメリカの面子が潰れる可能性がある「置き石」のようです。

 今日の新聞には、上の写真のように習主席がカリブ海のトリニダート・ドバゴを訪問し、同国とジャマイカ、バハマ、スリナムなど、カリブ海の9ケ国の首脳を食事会に招待したのです。そしてその席上で、中国が9ケ国へいろいろな形の援助をすると発表したのです。

 その後は中米のコスタリカとメキシコを公式訪問してからアメリカで6月7日と8日にオバマ大統領と会談するのです。

オバマ大統領はこの5月初旬にメキシコとコスタリカを訪問しています。その同じ場所を訪問し、アメリカの影響を無にしようとしているのです

カリブ海の9ケ国の首脳を食事会に招待しただけでなく、留学生の奨学金や、技術指導や種々の形の経済援助などを約束したのです。このように習主席の外交戦略のほうがキメ細かで、経済不振にあえぐ国々の人々の心に響いたに違いありません。

アメリカのフロリダ州の沖近くの国々に手を伸ばす中国の外交戦略は侮れません。

ジョン・ケネディー大統領の時代にソ連がキューバに核兵器を持ち込もうとした戦略を思い出させます。あの時はソ連が屈したので戦争になりませんでした。

最近、中国は尖閣諸島の領有権問題は棚上げにし、問題解決は将来の賢い人々にまかせるとする1972年の田中首相との約束に帰ることを一方的に発表しています。

武力で威圧して日本を追い出そうとする強固路線をやめて、日中平和条約の付帯条件へ戻ることに方針を変化させたようです。この付帯条件は田中角栄首相がその後、何度も証言していますから確実な約束だったのです。

中国の武力威圧を利用した国際外交が東南アジア諸国から激しい反発を受けていて、アメリカからも非難されていました。

このような平和的な時代に古色蒼然たる「砲艦外交戦略」は、中国の国益にとって大きなマイナスになることをやっと悟ったのです。

経済的な援助競争によって中国の市場に取り込もうとする戦略は許されるべき資本主義のルールと考えられます。

中国が最近その外交戦略を良い方向へ変えたような印象です。

しかし武力に頼ろうという毛沢東以来の体質はそう急には改まりません。

日本としては注意深く見守りながら中国の外交の先手を打つような戦略を強力に進めるべきです。

安倍首相も外交にもなかなか頑張っていますが、どうも習主席の後手ばかり打っているようです。たまには先手も打って貰いたいものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)