九州に住んでいらっしゃる江島達也さんは古い炭鉱町の写真を沢山撮っています。
昔の写真を探し出し、自分の撮った現在の写真と較べながらブログ(http://hayabusa-3.dreamlog.jp/)に掲載しています。
石炭が貴重だった時代を懐かしんでいるのです。それは多くの老人にとっては忘れられない原風景なのです。
日本中に蒸気機関車が走り、あらゆる工場の主な動力源が蒸気ボイラーであった時代があったのです。それは明治維新から始まって、戦前、戦中、戦後と非常に長い間続きました。
そして昭和40年頃まで炭鉱住宅が北海道や九州に沢山ありました。
九州には筑豊炭田があり北海道には夕張炭鉱などがありました。
私は炭鉱住宅に住んだことはありませんが、中学時代の友人の父が北海道炭鉱株式会社に勤めていたので炭鉱の様子は詳しく、何度も聞いたものです。
悲惨な炭粉爆発や落盤事故が何度も新聞に出ていました。それが戦後、20年間も続きました。私が生まれてから30歳になるまで石炭は常に重要だったのです。
その後、次第に安価な石油が輸入されるようになると石炭掘りの人々は消えて行きます。
しかし、石炭こそは戦後の復興を支えた貴重なエネルギー源だったのです。
炭鉱事故でもっとも怖いのは石炭の粉が坑道に充満し、それへカンテラの火が引火して爆発する「粉塵爆発」です。
カンテラの火には粉じんへの引火を防ぐため金網のホヤがかけてあります。しかし、たまに、そのホヤが外れて爆発するのです。
江島達也さんのブログの沢山の炭鉱内部の写真や炭鉱住宅の写真を見ていると愕然とします。日本人が「黒いダイヤ」と言ってあんなに有難がった石炭のことを綺麗さっぱり忘れている事に愕然とするのです。
人間はそんなに忘れっぽくて良いものでしょうか。
炭鉱住宅の写真を見ていると戦後の復興期の苦しかったころのことが走馬灯が回るように鮮明に思い出されます。
それにしても戦後生まれのお若い江島達也さんが,炭鉱とその周辺のかつての風景にこだわる意味を考えています。その精神は健全です。貴重です。何故か分かりませんがすがすがしい精神です。
下に九州の炭鉱町の写真をお借りして掲載します。最後の太い錆びた鎖は石炭運搬船を係留するために使ったものです。
写真は江島達也さんの許可を貰って彼のブログからお借りしました。出典は、http://hayabusa-3.dreamlog.jp/ です。付録にある記事とその中にある遺書を是非ご覧ください。
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それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。後藤和弘(藤山杜人)
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付録:江島達也さんの最近の掲載記事をご紹介いたします。
追悼 今も地の底に眠る想い ~ 日鉄池野鉱出水事故の手記より
- カテゴリ:佐世保・北松炭田の炭鉱
日鉄池野鉱は8つもの坑口を持ち、本坑の水平坑道(坑道の内、水平に伸びる部分)は幅8m、長さ1kmもあったと言います。
今ではそんなことさえ知る人も少なくなってしまったようです。
今回はいわゆるトピックではありませんが、「追悼の意」を込めまして、昭和15年に発生した出水事故の記録を紹介したいと思います。これはいたずらに炭鉱現場の危険さをひけらかし、他の注意をひこうというものではなく、悲惨な事故記録の中にも見え隠れする、当事者たちの「想い」を紹介し、炭鉱理解への一助とならんことを願ってのことです。・・・