後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

20世紀の独裁者(1)キリスト教聖職者の道を捨てたヨシフ・スターリン

2013年06月06日 | 日記・エッセイ・コラム

まあ、昔の話ですが、私は1970年にベルリンの西側占領地区の観光旅行に行ったことがあります。

当時、ベルリン市はソ連の占領地区とアメリカ、イギリス、フランスが占領していた西側占領地区に2分されたいたのです。そして西側占領地区は観光客が自由に出入り出来ました。

観光客は飛行機で直接、西側占領地区へ着陸しるか、ソ連の厳重な占領下にある東ドイツの中の一本だけ許された自動車道路を通過して行ったのです。

ですからベルリン市は東ドイツの中にポツンとある離れ小島のような存在でした。

私はドイツ人が運転する小型バスで行きました。同乗者は旧枢軸国側のブルガリア、ルーマニア、トルコからドイツへ研究者として招待されていた人々でした。

東ドイツに一本だけ自由交通が許された自動車道路に入る前に、ドイツ人の運転手が我々に身の安全の保証はありませんと厳しく言い渡すのです。

戦後のベルリン封鎖のときこの道路はいきなり通行禁止になり、通行中の車と人間が拘束されたのだそうです。すぐに解放されたそうですが、西ドイツの政府機関や軍隊に所属していた人は解放まで時間がかかったそうです。そして運転手が、「スターリンは冷酷な男で、特に旧枢軸国側の人間に厳しいから覚悟しておいてください」と言ったのです。

戦後、ドイツ人は独裁者スターリンを非常に怖がっていました。

終戦間際に満州に侵入し、60万人の日本人をシベリアへ抑留した男です。国内では数百万人を粛清し、シベリア送りをした残虐な独裁者だったのです。ソ連を巨大な「収容所列島」にして権力を欲しい侭にした男でした。

そのスターリンはどんな人間だったのでしょうか。

彼は1978年にグルジアで生まれ、1953年、モスクワで死にました。

1917年のロシア革命に協力し、1922年から1952年までの30年間、ソ連の独裁者として君臨していたのです。

彼の独裁政治では大粛清を実行し、政策の失敗による膨大な農民を餓死させるなど想像を絶する悲惨な事件を起こしたのです。それは人類の歴史に残る20世紀の一大悲劇でした。

ロシア正教の強いグルジアで生まれた彼が何故、このような残酷なことを実行したのか、私は非常に疑問に思っています。それは答えの無い疑問です。

ヨシフ・スターリンは靴職人の男と農奴出身の女のあいだに生れました。

母は敬虔な正教徒だったのでグルジア正教会の運営する小学校に入ります。

成績抜群で信仰心も篤かったので、グルジア正教会の推薦を受けて神学校へ進学したのです。

しかしマルクス主義に傾倒するようになって、1899年に司祭叙階の直前に神学校を去るのです。

私自身は仏教的なカトリック信者です。キリスト教の道に入りイエス様が私を大切にしてくれていることを信じています。イエス様の愛を感じています。

しかしキリスト教のこの世での限界にも悩んでいます。いろいろありますが、その一つは世界の貧困地帯を解消できない事です。イエス様が本当に全ての人間を愛しているのなら飢餓で死ぬ人はいない筈です。

若いヨセフ・スターリンがこの疑問に悩み、司祭叙階の直前にキリスト教をすてた感じ方には共鳴できます。弱い共鳴ですが、そこまでは理解出来ます。

特に母親が農奴出身だった彼にはロマノフ王朝の農奴制の悲惨さや、非人間性に憤りを感じていた筈です。

しかし1922年からソ連の独裁者になってからの彼の残酷な政治は、どうしても理解出来ないのです。彼は神学校で深く福音書を習い、心の中に刻み込んでいたのです。その影響が微塵もないのです。

そんな彼にチャーチルやルーズベルトがヤルタ会談で日本への侵攻を強く要請して、樺太と全ての千島列島を与えるという秘密協定を作っていたのです。

本当に人間は分からないものです。いくら馬齢を重ねても理解が出来ません。

下に関連の写真を示し、参考資料も付記いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===ヨセフ・スターリンの出生と神学校時代================

1878年12月18日、ヨシフ・スターリンはヨシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリ  として、ロシア帝国領グルジアのゴリ市に生まれた。父ヴィッサリオン・ジュガシヴィリは靴職人、母ケテワン・ゲラーゼは農奴出身という貧しいグルジア系ロシア人の家系であった。両親の第3子であったが二人の兄は幼児で死没している為、実質的には長男として育てられた。

彼の生まれ故郷は騒々しく暴力的で、治安の悪い地域であった。父ヴィサリオンは地元でも評判の職人だったがアルコール依存症を患い、しばしば妻や子供に暴力を振るった。家計は次第に傾いていき、幼少期だけで9回も転居を繰り返した。7歳の時には天然痘に罹患する不幸にも遭い、助かったものの皮膚に目立つ痘痕を残した。また12歳の時までに2度に亘って馬車に撥ねられて大怪我を負い、後遺症で左腕の機能に障害を抱える事になった。

10歳の時、グルジア正教会が運営する初等学校に進むが、此処では帝国の公用語であるロシア語の使用が強制されていた。ヨシフは怪我を乗り越えつつ勉学に励み、やがて優等生として認められる存在になっていった。信仰心も篤く、後に「聖書に精通した唯一の独裁者」とも揶揄された。同じく信心深かった母は大いに喜んだが、父は息子に靴職人を継がせる望みが絶たれるのを恐れて学業に反対した。父ヴィッサリオンは母に「俺は靴職人だ。息子も靴職人になるさ」と言っていたという。

結局、父は別居という形で一家から離れていったが、後に息子を無理やり連れ去って自分と一緒に働く道を選ばせようとしたり、養育費を打ち切るなど抵抗を続けていたという。

度重なる父の反対を押し切って教育を続けていたヨシフはグルジア正教会からの推薦を受け、神学校で聖職者として育てられた。神学校でもグルジア系ロシア人は差別を受け、ロシア語の使用を強制されていた。神学校でも優秀な生徒であったが、マルクス主義に傾倒した事で神学に対する疑問を抱き始めていったとされている。1899年、司祭叙任を目前にしながら授業料不足を理由に神学校を退校している。

その後のスターリンの共産主義者としての活躍は下をクリックしてご覧ください:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3

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上の左はスターリンの母の写真で、右は若い頃のスターリンです。

下の写真は左から順に、ヤルタ会談の時のチャーチルとルーズベルトとスターリンです。

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