始めにこの記事で何を主張したいかを書きます。
『戦争は軍人の命を取るだけでなく富を食いつくし、庶民の生活は何時までも貧しさから抜け出せないのです。戦後72年の平和がしみじみと有難いのです。』という主張を書きたいのです。
昨日、「写真で見る明治時代の貧しさと人情の篤さ」と題する記事を書き明治時代の貧しい生活の様子を示す数枚の明治時代の写真を示しました。
その貧しい生活は日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、太平洋戦争という戦争の連続で太平洋戦争後まで、ほとんど変わらなかったのです。
日本の庶民の生活が豊かになったのは1970年代の経済の高度成長の頃からのことなのです。
その戦争直後の生活と現在の生活の比較を写真で示そうと思います。
場所は北海道東部にある別海町の牧場地帯の様子です。
戦争直後の写真は趣味人倶楽部の「でいしゅうさん」がお送り下さいました。
現在の風景写真は2012年の9月に観光旅行に行ったおりに自分で撮った写真です。
別海町の終戦直後と現在の風景を比較して見ると、日本の農村の生活が非常に豊かになったことが分ります。
さて北海道の東部に広がる別海町は海岸には野付半島があり、内陸は牧草地が広がり、ヨーロッパの農村風景を連想させている美しい場所です。
この別海町では酪農が盛んで、全国1位の生乳生産量です。年間生産量は43万トンだそうです。
そして海岸部の本別海、尾岱沼等ではサケ、アサリ、ホタテ、ホッカイエビなどの漁業が盛んです。
まず2012年の9月の旅の折りに撮った現在の写真を4枚示します。
1番目の写真は別海町のある牧場の入り口の写真です。
広大な別海町を車で走っていると次々とこのような牧場の看板が出て来ます。牧場の建物は入り口から遥か奥の方に小さく見えます。
2番目の写真は偶然、通りかかった道産馬の牧場です。開拓のために活躍した重量馬の子孫です。農作業に使う目的ではなく、趣味で飼っているのです。重量物を曳く道産馬レースに出すために飼っているようです。
3番目の写真は別海町の広い牧草地です。
牧草地の端は緑豊かな森によって区切られています。開拓民はこのような森を開拓して牧草地に変えていったのです。
4番目の写真は牧草を刈り取り冬の牛の餌にする巨大な塊です。
白い包みは、トラクターで牧草を刈り取って、圧縮してビニール布で丸めた巨大な塊です。こうして牧草を貯蔵し、発酵させてから乳牛に食べさせると消化が良いそうです。
さてこのように美しい景観の別海町ですが、終戦直後の風景はどのようだったのでしょうか。
下の4枚の写真でその様子を示します。
5番目の写真は終戦後に入植したある農民が住んで居た家です。冬の寒さの厳しさが偲ばれるような粗末な作りになっています。
6番目の写真は道産馬で牧草地を耕している光景です。人間は馬の引く犂(スキ)の上に座っています。
7番目の写真は生産された多量の牛乳を缶に入れて道産馬に引かせて牛乳の殺菌工場へ運んでいる様子です。別海町には昔から雪印や森永の牛乳処理工場があったのです。
8番目の写真は終戦後も長期間、活躍したガソリンカーの写真です。戦争中の昭和16年に導入されたようです。現在は廃線になりました。
上に示した終戦後の4枚の写真についていた、でいしゅうさんの説明文を、許可を得て下に掲載いたします。
「私が別海町の住民だった期間は2年間だけでしたが、此処の地方の歴史を調べ歩きました。
野付半島の砂嘴には幻の町「きらく」があったそうです。今でも茶碗の欠片がたくさんあります。しかし安物の陶器です。アイヌの城塞もあり矢じりなども出土しています。
興味があったのは、植民鉄道です。最初は馬力で、その後はディゼルカーで運行していました。当時のレールは家畜競り市の屋根の材料とか、バックネットの骨組みになって残っています。鉄路の跡もわかります。間もなくその跡も、記憶もなくなるでしょう。現在は国道の橋に跨線橋の名前が残っています。そして廃線になった国鉄線も残っています。
戦争中の掩体壕跡やB29のプロペラも残っていて、面白いですね。すべて「別海町百年史」よりの受け売りです。文化的なものは何もありません。私の好きな刀剣もありません。
歴史的なものは壊しています。昔の町には馬を繋ぐ輪があったそうです。何も残っていません。
浜に行けば内地の漁師の仮小屋の残骸があるだけです。アイヌの痕は何もありません。内陸部は牧場に代わり「新酪農計画」で牧草のみが茂っています。」
さて北海道全体を見ますと牧畜だけでなく、富良野には香水の原料にするラベンダーの花畑が広がっています。その上、北海道の米の生産量は全国1位なのです。( http://suido-ishizue.jp/kindai/hokkaido/05.htmlより)
このように農業が盛んな北海道の生活は終戦後まで貧しかったのです。
自動車もトラクターも無く、荷物の運搬も耕作作業も全て馬に頼っていたのです。
その農村風景は明治時代の北海道の開拓時代と変わりが無かったのです。
何を言いたいのか?
戦争は軍人の命を取るだけでなく富を食いつくし、何時までも貧しさから抜け出せないのです。戦後72年の平和がしみじみと有難いのです。
それにしても日本は本当に豊かになったものですね。しかし貧しかった頃を忘れてはいけないと思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
『戦争は軍人の命を取るだけでなく富を食いつくし、庶民の生活は何時までも貧しさから抜け出せないのです。戦後72年の平和がしみじみと有難いのです。』という主張を書きたいのです。
昨日、「写真で見る明治時代の貧しさと人情の篤さ」と題する記事を書き明治時代の貧しい生活の様子を示す数枚の明治時代の写真を示しました。
その貧しい生活は日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、太平洋戦争という戦争の連続で太平洋戦争後まで、ほとんど変わらなかったのです。
日本の庶民の生活が豊かになったのは1970年代の経済の高度成長の頃からのことなのです。
その戦争直後の生活と現在の生活の比較を写真で示そうと思います。
場所は北海道東部にある別海町の牧場地帯の様子です。
戦争直後の写真は趣味人倶楽部の「でいしゅうさん」がお送り下さいました。
現在の風景写真は2012年の9月に観光旅行に行ったおりに自分で撮った写真です。
別海町の終戦直後と現在の風景を比較して見ると、日本の農村の生活が非常に豊かになったことが分ります。
さて北海道の東部に広がる別海町は海岸には野付半島があり、内陸は牧草地が広がり、ヨーロッパの農村風景を連想させている美しい場所です。
この別海町では酪農が盛んで、全国1位の生乳生産量です。年間生産量は43万トンだそうです。
そして海岸部の本別海、尾岱沼等ではサケ、アサリ、ホタテ、ホッカイエビなどの漁業が盛んです。
まず2012年の9月の旅の折りに撮った現在の写真を4枚示します。
1番目の写真は別海町のある牧場の入り口の写真です。
広大な別海町を車で走っていると次々とこのような牧場の看板が出て来ます。牧場の建物は入り口から遥か奥の方に小さく見えます。
2番目の写真は偶然、通りかかった道産馬の牧場です。開拓のために活躍した重量馬の子孫です。農作業に使う目的ではなく、趣味で飼っているのです。重量物を曳く道産馬レースに出すために飼っているようです。
3番目の写真は別海町の広い牧草地です。
牧草地の端は緑豊かな森によって区切られています。開拓民はこのような森を開拓して牧草地に変えていったのです。
4番目の写真は牧草を刈り取り冬の牛の餌にする巨大な塊です。
白い包みは、トラクターで牧草を刈り取って、圧縮してビニール布で丸めた巨大な塊です。こうして牧草を貯蔵し、発酵させてから乳牛に食べさせると消化が良いそうです。
さてこのように美しい景観の別海町ですが、終戦直後の風景はどのようだったのでしょうか。
下の4枚の写真でその様子を示します。
5番目の写真は終戦後に入植したある農民が住んで居た家です。冬の寒さの厳しさが偲ばれるような粗末な作りになっています。
6番目の写真は道産馬で牧草地を耕している光景です。人間は馬の引く犂(スキ)の上に座っています。
7番目の写真は生産された多量の牛乳を缶に入れて道産馬に引かせて牛乳の殺菌工場へ運んでいる様子です。別海町には昔から雪印や森永の牛乳処理工場があったのです。
8番目の写真は終戦後も長期間、活躍したガソリンカーの写真です。戦争中の昭和16年に導入されたようです。現在は廃線になりました。
上に示した終戦後の4枚の写真についていた、でいしゅうさんの説明文を、許可を得て下に掲載いたします。
「私が別海町の住民だった期間は2年間だけでしたが、此処の地方の歴史を調べ歩きました。
野付半島の砂嘴には幻の町「きらく」があったそうです。今でも茶碗の欠片がたくさんあります。しかし安物の陶器です。アイヌの城塞もあり矢じりなども出土しています。
興味があったのは、植民鉄道です。最初は馬力で、その後はディゼルカーで運行していました。当時のレールは家畜競り市の屋根の材料とか、バックネットの骨組みになって残っています。鉄路の跡もわかります。間もなくその跡も、記憶もなくなるでしょう。現在は国道の橋に跨線橋の名前が残っています。そして廃線になった国鉄線も残っています。
戦争中の掩体壕跡やB29のプロペラも残っていて、面白いですね。すべて「別海町百年史」よりの受け売りです。文化的なものは何もありません。私の好きな刀剣もありません。
歴史的なものは壊しています。昔の町には馬を繋ぐ輪があったそうです。何も残っていません。
浜に行けば内地の漁師の仮小屋の残骸があるだけです。アイヌの痕は何もありません。内陸部は牧場に代わり「新酪農計画」で牧草のみが茂っています。」
さて北海道全体を見ますと牧畜だけでなく、富良野には香水の原料にするラベンダーの花畑が広がっています。その上、北海道の米の生産量は全国1位なのです。( http://suido-ishizue.jp/kindai/hokkaido/05.htmlより)
このように農業が盛んな北海道の生活は終戦後まで貧しかったのです。
自動車もトラクターも無く、荷物の運搬も耕作作業も全て馬に頼っていたのです。
その農村風景は明治時代の北海道の開拓時代と変わりが無かったのです。
何を言いたいのか?
戦争は軍人の命を取るだけでなく富を食いつくし、何時までも貧しさから抜け出せないのです。戦後72年の平和がしみじみと有難いのです。
それにしても日本は本当に豊かになったものですね。しかし貧しかった頃を忘れてはいけないと思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)