7月20日と21日に木曽の開田高原に小さな旅をしました。
この旅のテーマは中山道の宿場町、奈良井と木曽馬と開田高原の縄文時代でした。
今迄に奈良井の宿と木曽馬に関する記事は掲載しましたので、今日は開田高原の旧石器時代と縄文時代の様子を書いてみます。
開田高原の発掘調査の研究報告のURLは末尾の参考資料にあります。国学院大学の小林達雄教授たちが詳しく調べています。
柳又遺跡から発掘された3000点の石器や縄文土器は開田考古博物館に展示してあります。詳しくはこれも末尾の参考資料にあります。
さて縄文時代は大体、14000年前に始まり紀元前4世紀までの11600年間の長い間続きました。
縄文時代の前には土器が無く、石器だけの旧石器時代でした。粗末な掘っ建て小屋の家さえも無く焚火だけの生活でした。
日本の旧石器時代の始まりは不明です。旧石器時代の石器が出て来るのは約4万年前からと言われています。
開田高原は広大な森に覆われ、旧石器時代から縄文時代に人々が住んでいたのです。夏の夜は写真のような天の川の星々を仰ぎ見ながら生活をしていました。
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1番目の写真は天の川の写真です。この写真は、『空と海…繋がる世界「風景写真ブログ」』https://524select.com/archives/8363 からお借りしました。
この夏の夜が明けると御嶽山の麓に広がる開田高原の森の風景が見えます。
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2番目の写真は御嶽山の麓に広がる森の風景写真です。
旧石器時代から縄文時代にかけての日本には大型哺乳動物のヘラジカ、ヤギュウ、オーロックス、ナウマンゾウ、オオツノシカなどが棲んでいました。小型哺乳動物のニホンジカ、イノシシ、アナグマ、ノウサギなども棲んでいました。
当時の人々はこれらの動物を狩猟対象にして暮らしていたのです。
2番目の写真のように開田高原には深い森が広がっていたので、人間の食べ物になる動物も数多く棲んでいたに違いありません。
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3番目の写真は高原の道端で偶然に見つけて月見草の花です。ホッとする光景だったので写真をお送りします。
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4番目の写真は柳又遺跡から出土した縄文土器です。底の尖っている土器は地面に立て、周囲から焚火で加熱して料理を煮ていた様子が伺えます。土器の発明で採集した栗や豆類を煮て柔らかくして食べることが出来たのです。獣肉も塩味で煮上げることが出来ます。それよりもお湯が飲めるようになったのです。それに比べると、土器のなかった旧石器時代の生活は不便なものでした。
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5番目の写真は野生の動物を仕留めるための矢の先端につける鏃の黒曜石です。特に尖頭器は特殊な鋭い形に仕上げてあり柳又ポイントという名前がつけられていて考古学界では有名な尖頭器です。
このように尖頭器は鋭利に仕上げてあり、矢が確実に獲物を仕留めるように加工してあります。
黒曜石の産地は伊豆七島の神津島と諏訪湖の傍の和田峠でした。それが全国に流通していたことは驚きです。
さて以下は想像です。
紀元前400年の頃稲作が朝鮮から伝わって弥生時代が始まったと言われています。
しかしそれは九州と西日本の一部だけです。開田高原では弥生時代になっても長期間、縄文時代の狩猟生活が続いていたに違いありません。高原の寒冷地では水田が作れなかったのです。開田高原で稗田が開墾されたのは江戸時代になってからなのです。
開田高原の生活を支えたのは高原の畑でも育つ蕎麦やイモ類と木曽馬の飼育だったのです。
何を言いたいかというと、日本の旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代まどの歴史年表の区分は地方、地方によって非常に異なるという事実です。当たり前と言えば当たり前でですが。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料:柳又遺跡の発掘調査結果===============
(1)『国学院大学文学部考古学実習報告』 第28集
長野県木曽郡問田村
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/214
YANAGIMATA-A SITE
第5次発掘調査報告書
1996年、国学院大学文学部考古学研究室、小林達雄監修
(2)開田考古博物館・県宝山下家住宅 http://www.82bunka.or.jp/bunkashisetsu/detail.php?no=249
歴史博物館 1990開館
旧馬地主の土蔵造りの倉庫を博物館として利用し、村内で出土した旧石器時代からの遺跡物約3,000点を展示している。馬屋を備えた山下家住宅の復元工事が終わり、1997年4月にオープンした。
旧石器時代から縄文時代までの石器・土器、ジオラマ、柳又遺跡遺稿、開田村立体地図模型、大馬主の復元住宅
この旅のテーマは中山道の宿場町、奈良井と木曽馬と開田高原の縄文時代でした。
今迄に奈良井の宿と木曽馬に関する記事は掲載しましたので、今日は開田高原の旧石器時代と縄文時代の様子を書いてみます。
開田高原の発掘調査の研究報告のURLは末尾の参考資料にあります。国学院大学の小林達雄教授たちが詳しく調べています。
柳又遺跡から発掘された3000点の石器や縄文土器は開田考古博物館に展示してあります。詳しくはこれも末尾の参考資料にあります。
さて縄文時代は大体、14000年前に始まり紀元前4世紀までの11600年間の長い間続きました。
縄文時代の前には土器が無く、石器だけの旧石器時代でした。粗末な掘っ建て小屋の家さえも無く焚火だけの生活でした。
日本の旧石器時代の始まりは不明です。旧石器時代の石器が出て来るのは約4万年前からと言われています。
開田高原は広大な森に覆われ、旧石器時代から縄文時代に人々が住んでいたのです。夏の夜は写真のような天の川の星々を仰ぎ見ながら生活をしていました。
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1番目の写真は天の川の写真です。この写真は、『空と海…繋がる世界「風景写真ブログ」』https://524select.com/archives/8363 からお借りしました。
この夏の夜が明けると御嶽山の麓に広がる開田高原の森の風景が見えます。
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2番目の写真は御嶽山の麓に広がる森の風景写真です。
旧石器時代から縄文時代にかけての日本には大型哺乳動物のヘラジカ、ヤギュウ、オーロックス、ナウマンゾウ、オオツノシカなどが棲んでいました。小型哺乳動物のニホンジカ、イノシシ、アナグマ、ノウサギなども棲んでいました。
当時の人々はこれらの動物を狩猟対象にして暮らしていたのです。
2番目の写真のように開田高原には深い森が広がっていたので、人間の食べ物になる動物も数多く棲んでいたに違いありません。
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3番目の写真は高原の道端で偶然に見つけて月見草の花です。ホッとする光景だったので写真をお送りします。
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4番目の写真は柳又遺跡から出土した縄文土器です。底の尖っている土器は地面に立て、周囲から焚火で加熱して料理を煮ていた様子が伺えます。土器の発明で採集した栗や豆類を煮て柔らかくして食べることが出来たのです。獣肉も塩味で煮上げることが出来ます。それよりもお湯が飲めるようになったのです。それに比べると、土器のなかった旧石器時代の生活は不便なものでした。
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5番目の写真は野生の動物を仕留めるための矢の先端につける鏃の黒曜石です。特に尖頭器は特殊な鋭い形に仕上げてあり柳又ポイントという名前がつけられていて考古学界では有名な尖頭器です。
このように尖頭器は鋭利に仕上げてあり、矢が確実に獲物を仕留めるように加工してあります。
黒曜石の産地は伊豆七島の神津島と諏訪湖の傍の和田峠でした。それが全国に流通していたことは驚きです。
さて以下は想像です。
紀元前400年の頃稲作が朝鮮から伝わって弥生時代が始まったと言われています。
しかしそれは九州と西日本の一部だけです。開田高原では弥生時代になっても長期間、縄文時代の狩猟生活が続いていたに違いありません。高原の寒冷地では水田が作れなかったのです。開田高原で稗田が開墾されたのは江戸時代になってからなのです。
開田高原の生活を支えたのは高原の畑でも育つ蕎麦やイモ類と木曽馬の飼育だったのです。
何を言いたいかというと、日本の旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代まどの歴史年表の区分は地方、地方によって非常に異なるという事実です。当たり前と言えば当たり前でですが。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料:柳又遺跡の発掘調査結果===============
(1)『国学院大学文学部考古学実習報告』 第28集
長野県木曽郡問田村
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/214
YANAGIMATA-A SITE
第5次発掘調査報告書
1996年、国学院大学文学部考古学研究室、小林達雄監修
(2)開田考古博物館・県宝山下家住宅 http://www.82bunka.or.jp/bunkashisetsu/detail.php?no=249
歴史博物館 1990開館
旧馬地主の土蔵造りの倉庫を博物館として利用し、村内で出土した旧石器時代からの遺跡物約3,000点を展示している。馬屋を備えた山下家住宅の復元工事が終わり、1997年4月にオープンした。
旧石器時代から縄文時代までの石器・土器、ジオラマ、柳又遺跡遺稿、開田村立体地図模型、大馬主の復元住宅