後藤和弘のブログ

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特攻攻撃が与えた意外に大きい連合国側の損害の一覧

2017年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「日本文化と武士道が特攻隊の悲劇を生んだ」と題する記事を掲載しました。
その冒頭の部分は次のようでした。
日本の300万人余におよぶ犠牲者の鎮魂を深く祈る日です。そしてアジア地域での中国人、フィリピン人などアジア人と米英豪などの総数、2千万人とも言われている犠牲者のご冥福をお祈りします。みんな日本軍の犠牲になったのです。
その上、ヨーロッパ戦線での何千万人の犠牲者に心を寄せる日です。世界第二次大戦は人類史上で初めての一番大規模で悲惨な戦争でした。
あれから茫々72年。人々は決して悲劇の数々を忘れません。想像を絶するいろいろな悲劇が起きました。
今日は日本軍だけにあった組織的な特攻隊が何故実行され、6000人余の戦死者を出したか考えてみたいと思います。
その内訳は、海軍、4,156名 、陸軍、1,689名 という数が報告されています。・・・

そこで今日はこの特攻隊、6000余人の犠牲によって連合国側にどの位の損害があったのかを客観的に書いてみたいと思います。
まずマッカーサー太平洋戦域連合軍総司令官の感想からご紹介いたします。(出典は、https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13128680533 です。)
「沖縄では、特攻が殆どの日本軍機による攻撃で我が軍は艦船36隻沈没、破壊368隻、航空機損失800機の損害を出した。これらの損害は米海軍がメルボルンから東京までの間に受けたそれまでの損害を遥かに超えるものである。」

太平洋艦隊司令長官のニミッツ元帥はもう少し具体的に語っています。
(4ヵ月に渡った沖縄戦で)「我が海軍が被った損害は、戦争中のどの海戦より遥かに大きかった。沈没30隻以上、損傷300隻以上、9000人以上が死傷もしくは行方不明になった。この損害は主として日本軍の航空攻撃、主に特攻によってなされた。」

そしてアーネスト・キング海軍元帥も次のように語っています。
「4月6日からはじまった日本機の攻撃は、いままで嘗てなかった激烈なものだった。この特攻戦は凄惨を極めた。(略)海上では戦死行方不明4907名、戦傷4824名であった。 艦船は沈没36隻、損傷368隻であり、飛行機の喪失は763機であった。」

特攻が開始された1944年10月から終戦までのわずか10ヶ月間に、米海軍史上最大の損害を与えたのです。その損害の内訳は次の通りです。

(1)特攻で撃沈された艦船と廃艦、
撃沈・廃艦の総合計 護衛空母4隻 駆逐艦38隻 他28隻 合計70隻
この内訳は以下の通りです。
護衛空母 セント・ロー  オマニー・ベイ  ビースマルク・シー合計3隻


駆逐艦(掃海・輸送・護衛各型を含む)、21隻
アブナ・リード  マハン ワード  レイド ロング  ディカーソン ブッシュ  エモンズ コルホーン  マナートLアベール  プリングル アーロンワード  リトル モリソン  オバーレンダー  ベイツ バリー  ドレクスラー ウィリアムD ポーター トゥィッグス  アンダーヒル キャラハンなど。

大型給油船 ミシシネワ(排水量25800トン)他輸送船等27隻

特攻で大破し廃艦スクラップとなった艦船、護衛空母 、サンガモン

駆逐艦、合計17隻、
ブルックス ベルナップ  ロイツェ ニューコム  モリス ハーディング  ハッチンス ハガード  ルース シェイ  イングランド ヒューwハドリー  エバンス ザッチャー  バトラー シュブリック  ウィリアムディッターなど。

(2)特攻で撃破された艦船
正規(含軽空母)空母20隻 護衛空母13隻 戦艦11隻 巡洋艦12隻 駆逐艦150隻 その他100隻以上 合計300隻以上(撃破の内108隻は戦闘行動が不可能になる深刻な損害)

太平洋戦争中日米水上艦船がいたるところで激しい海上戦を展開しましたが、それで失われた米駆逐艦は16隻、また日独潜水艦が沈めた米駆逐艦15隻で合計31隻にすぎないところを見れば、たった10か月の特攻攻撃期間で駆逐艦38隻を沈めたのは特攻攻撃によるものだったのです。
また特攻で損傷した艦、300隻以上は沈みはしませんでしたが戦闘能力は無くなったのです。
日本軍は大戦中50000機の航空機を損失しましたが、その内のわずか2550機の5%程度の特攻機がこれだけの戦果を挙げたのです。

以上のように連合国の損害を文章で示すと分かり難いのですが、それを整理して一覧表にしたものが以下のURLにあります。是非ご覧ください。
『特攻攻撃が与えた損害の一覧』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%94%BB%E3%81%A7%E6%90%8D%E5%AE%B3%E3%82%92%E5%8F%97%E3%81%91%E3%81%9F%E8%89%A6%E8%88%B9%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
この一覧表は次のように整理、分類されています。
1連合軍の被害、1.1沈没、1.2損傷による除籍処分、1.3損傷、1.3.1巡洋艦以上、1.3.2駆逐艦以下
そしてそれぞれの表には、沈没日、艦名、艦種、場所、戦死者、負傷者の項目が示してあり、非常に分かり易い一覧表になっています。

さて日本側の6000人余の戦死者を出した特攻隊の犠牲に対して、以上の連合国の損害は大きかったでしょうか?小さかったでしょうか?この問いに対する議論ほど空しいものはありません。
ただ日米の両軍の全ての犠牲者の冥福を祈るだけです。

ところで表題に『特攻攻撃が与えた意外に大きい連合国側の損害の一覧』に書きましたが、「意外に大きい・・・」の 部分は私個人の感じ方です。
戦前生まれ、戦後のマッカーサー占領軍の指導による教育は、日本の軍国主義の復活を徹底的に防ぐ目的の教育でした。従って野蛮な特攻攻撃は何の戦果も上げられなかった、無意味な作戦だったという内容の教育でした。
戦後の満員の映画館のニュース映画では特攻機がアメリカの戦艦の銃撃で無残に黒煙を吹いて海に墜落して行く場面を何度も見ました。たまに特攻機がアメリカの戦艦に体当たりして、艦上で燃える特攻機に対して何本もの消火ホースで水をかけている場面も出ますが、アメリカ側の損傷は軽微なのです。
そのようなニュース映画ばかり見て育ちました。
冒頭に紹介したマッカーサー太平洋戦域連合軍総司令官や太平洋艦隊司令長官のニミッツ元帥の談話はアメリカ国内向けの談話で、日本の新聞では殆ど掲載されませんでした。当時は全ての報道に対してアメリカ軍司令部、GHQの検閲が厳しかったのです。
今日、ご紹介した連合国側の損害が明るみになったのは戦後、随分後になってからなのです。
戦後の教育を受けた高齢者は表題にある、「意外に大きい・・・」という表現に同感すると思います。

今日の挿し絵代わりの写真は特攻隊出撃直前の搭乗員たちの写真と、彼等が生まれ育った仏教国、日本のお寺の風景です。
お釈迦様はすべての生きものを殺してはいけないと教えました。人間の弱さと無常を感じます。
1番目の写真の出典は、http://www.sankei.com/premium/news/150406/prm1504060008-n1.htmlです。
2から4番目までのお寺の写真の出典は、http://www.miyabi-kyoto.net/sp/midokoro.html#05 です。

終戦の日、8月15日に当たり、全ての戦争犠牲者の鎮魂と冥福を祈ります。後藤和弘







===参考資料============================
List of United States Navy losses in World War II、https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_United_States_Navy_losses_in_World_War_II
日本語は、https://matome.naver.jp/odai/2144809749091311801 にあります。
太平洋戦争でのアメリカ海軍喪失艦
太平洋戦争の勝者であるアメリカの海軍艦艇喪失数は、例えば日本が戦艦を8隻失ったのに対してアメリカは2隻だけというように少ない。それでもここに挙げた戦艦、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦だけでもアメリカは140隻前後失っており、戦力が低下していく中で日本軍がいかに戦ったかがうかがえる資料です。

日本文化と武士道が特攻隊の悲劇を生んだ

2017年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様、明日は太平洋戦争の終戦記念日です。
日本の300万人におよぶ犠牲者の鎮魂を深く祈る日です。そしてアジア地域での中国人、フィリピン人などアジア人と米英豪などの総数、2千万人とも言われている犠牲者のご冥福をお祈りします。みんな日本軍の犠牲になったのです。
その上、ヨーロッパ戦線での何千万人の犠牲者に心を寄せる日です。世界第二次大戦は人類史上で初めての一番大規模で悲惨な戦争でした。
あれから茫々72年。人々は決して悲劇の数々を忘れません。想像を絶するいろいろな悲劇が起きました。
今日は日本軍だけにあった組織的な特攻隊が何故実行され、6000人余の戦死者を出したか考えてみたいと思います。
その内訳は、海軍、4,156名 、陸軍、1,689名 という数が報告されています。(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1018978050)

このような自分の命を捨て敵を攻撃する組織的な戦闘行為は欧米諸国には存在していません。現在のイスラム過激派の自爆テロ以外、世界には例の無い、日本独特の自己犠牲による戦闘行為でした。

私は毎年、8月15日が近づくと、「何故、日本だけに特攻隊があったのか?」と考え込みます。
とても難しい問題ですが、それには2つの要因が深く関連していると考えています。
江戸時代に出来た「武士道」と明治維新後の天皇を中心にした富国強兵策が合体して出来た考え方が特攻隊という組織を生んだのだと考えています。
明治憲法では軍隊の統帥権は天皇にあり、全ての軍人は天皇へ忠誠を誓わなければなかったのです。
それは明治維新以後の日本文化の一部でした。
この文化的背景のもとにアメリカ軍に圧倒された日本軍は武士道の精神で天皇陛下のために死ぬ特攻隊を組織化したのです。
現在の日本人には考えられないでしょうが、日本兵が戦死する場合は必ず「天皇陛下、万歳!」と叫ぶように教育されていたのです。
いわゆる忠君愛国の教育です。

武士道は主君に対する倫理的な忠誠が一番重要とする思想です。そして江戸時代の中頃に、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の一節で有名な『葉隠』が佐賀藩の山本常朝によって書かれました。
この一節が「武士道とは死ぬことを恐れない」という意味で戦争中にもてはやされたのです。
ですから第二次大戦のあった昭和時代には、すべての日本兵は昭和天皇の赤子(せきし)として、昭和天皇に忠誠を誓い、天皇のために死ななければならなかったのです。
それが日本の文化だったのです。
全ての戦死兵は天皇に命を捧げたのです。
そして絶対に生還出来ない条件で敵を攻撃したのが特攻隊だったのです。戦闘機に片道のガソリンだけを入れ、多量の爆薬を積んで行ったのです。また爆弾を船首に積んだ小型の特攻艇も片道の燃料だけで出撃して行ったのです。
私が戦争中に学んだ国民学校の教室の一番前の壁の高いところには昭和天皇の写真が飾ってありまいた。校庭に小型ながら立派な神社のような建物があり、それを奉安殿と呼んでいました。それは教育勅語が納められた建物でした。
このような文化が戦前の日本にあったのです。
ですから日本がアメリカ軍に追い詰められ、沖縄が占領され、日本の都市が焼けつくされると、当然のように特攻隊が増強されて行ったのです。
ですから私は日本独特の特攻隊は江戸時代の武士道と明治維新以後の天皇を中心とした富国強兵策が合流して出来たのだと思います。
この戦前の日本文化は死滅しました。
現在の憲法では自衛隊と言う軍隊の統帥権は国民を代表する総理大臣にあります。憲法改正で一部の日本人は明治憲法を復活させよと主張しています。とんでもない話です。

1番目の写真は我が故郷、仙台市の昭和20年7月10日の大空襲後の風景です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E7%A9%BA%E8%A5%B2 です。

当時、私は9歳、国民学校の3年生でした。1945年7月11日の明け方、故郷の仙台市が一面紅蓮の炎を上げて燃えているのを高台から何時までも見ていました。仙台の空には低空でゆっくり飛んでいる B-29が何機も見えます。その機体が下の一面の炎で白く光っていました。
全国(内地)で200以上の都市が被災し、焼け野原になってしまったのです。
全国の空襲による犠牲者は、原爆の犠牲者約20万人を含めて50万人と言われています。

2番目の写真は焼け野原になった甲府市の様子です。
写真の出典は、https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8c/Air_raid_Kofu-City.jpgです。

3番目の写真は東京の亀戸の空襲後の写真です。
写真の出典は、http://www.huffingtonpost.jp/2015/03/12/tokyo-firebombing-70th-gifanimation_n_6854922.htmlです。

このような戦争の悲惨さを忘れることなく子々孫々に伝承し、平和を守って貰いたいと念じます。
明日の8月15日に当たり、全ての戦争犠牲者の鎮魂と冥福を祈ります。後藤和弘

===参考資料======================
特攻隊とは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A

神風特攻隊とは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%A2%A8%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A
特攻第一号
1944年(昭和19年)10月20日午前10時、大西が神風特攻隊の訓示と命名式を行い、初の特攻隊である敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊が編成された。大西は敷島隊に「日本は今、危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示した。同日、一航艦司令部に帰った大西は神風特攻隊編成命令書の起案を副官の門司親徳に命じたが、門司は不慣れであったため、大西と猪口も手伝って起案され、命令書は、連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信された。

特攻で損害を受けた艦船の一覧、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%94%BB%E3%81%A7%E6%90%8D%E5%AE%B3%E3%82%92%E5%8F%97%E3%81%91%E3%81%9F%E8%89%A6%E8%88%B9%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7