後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

洗礼を受けて良かったこと(5)全ての障害者へ寛大な気持ちになれたこと

2017年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム
今から46年前の1971年にカトリック立川教会で塚本金明神父様から洗礼を受けました。
洗礼を受けても自分の悪い性格は一向に良くなりません。洗礼の効果はまったくありません。
しかし洗礼を受けたお陰で良かったことが幾つかあります。
その幾つかの良かったことを「洗礼を受けて良かったこと」という連載記事にして次のように書いてきました。
洗礼を受けて良かったこと(1)仏教が理解出来たこと(2017-07-30)
(2)孤独に死せる人々の冥福を祈れるようになった(2017-07-31)
(3)外国人の考え方や感じ方が分かるようになった(2017-08-01)
(4)韓国人や中国人に親しみを持てるようになった(2017-08-06)
以上のような良かったことを並べてみると、洗礼を受けたお陰で私の視野が広がり、心が豊かになったと言えます。それがどうしたと言われれば、「そうですね。あまり変わりませんね」としか答えられません。
しかし何故か自分が本当に自由に、のびのびした気分になったのです。少し幸せになったような気分です。そして洗礼を受けたお陰で良かったことが、まだまだあるのです。
今日は、(5)全ての障害者へ対して寛大な気持ちを持てるようになったことを書いてみたいと思います。

結論を書いてしまえば、神が全ての障害者を愛しているので、自分も自然にそのようになったのかも知れません。
障害者には身体上の障害者と脳機能の障害者がいます。
今日は胎児の間の脳機能の発達段階で、機能の一部だけが生理学的成長に障害がおきる発達障害について書きます。
そして通常は発達障害の範疇には入れていませんが、性的マイノリティについても取り上げます。性的マイノリティも胎児の間の脳の性的機能に異変が起きたために現れる自然現象です

発達障害といってもADHD(注意欠陥/多動性障害)、自閉症、アスペルガー症候群、学習障害など、さまざまな種類と症状があります。そして発達障害にはディスレクシア(読字障害・読み書き障害)というものもあります。日本であまり知らていませんが、読み書きだけが障害な学習障害の一種です。

これらの障害は従来は精神の異常や性格の悪さと考えられていたのです。心の持ち方で矯正できるとも考えられていたのです。
ところが30年ほど前から欧米諸国で生理学や生命科学が大きく進歩して「発達障害や性的マイノリティは精神病ではない。性格の問題でもはない。」そして胎児の間の脳機能の成長の段階で起きる自然現象だという結論が出されているのです。
そして発達障害や性的マイノリティには治療法が無いが、適切な対処方法があると判明しているのです。

非常に残念なことですが、日本では生命科学や基礎生理学が遅れているので、以上に書いたような先端科学の進歩がまだ十分に取り入れられていません。
したがって発達障害に対して診断法が確立していない上に普及もされていないのが現状ではないでしょうか?
ですから発達障害が差別され学校や社会から残酷な仕打ちを受けるのです。
実例は他人と協調出来ない、上役に従えないという症状を特徴とするアスペルガー症候群があります。知的障害を伴わないものの、他人とのコミュニケーションが非常に困難な症状を示します。学校でいじめにあったり、会社で上司とうまく行かないのは背後にアスペルガー症候群がある可能性があるのです。治療は出来ませんが適切な対処法は明確に判っています。学校では絶対に協調性を強要しないことです。会社では上司を付けずに一人で出来る仕事を任せれば驚くような良い仕事をするのです。

もう一つ、ディスレクシア(読字障害・読み書き障害)の児童の場合の対処方法は読み書きを強要しないで、先生の声で指導したり、音声機能のついたコンピューターで学習を進める方法です。
ここで重要になことは発達障害の専門医に診断を受け、その症状を明確にして貰うことです。薬では直りません。適切な対処方法を指導してもらい実行すれば良いのです。こうすれば母と子供の心の状態が明るくなるのです。治療方法が無くても適切な対応方法が明らかになれば良いのです。
少し長くなったので性的マイノリティの問題は別稿に譲りたいと思います。
しかし一言付け加えておきます。
イギリスでは1960年代まで同性愛行為は違法であったそうです。発覚すると、逮捕され、裁判にかけらたのです。そして投獄の憂き目を見たそうです。ヨーロッパにはこのような文化があったのです。ですからヒットラーが同性愛の人間を逮捕しユダヤ人と共に殺したのですね。
それが現在は欧州諸国では同性婚が法律で保護されているのです。日本は保守的なのでまだまだです。

結論です。神が全ての障害者を愛しているので、私も全ての障害者へ対して寛大な気持ちを持っています。
これも洗礼を受けて良かったことの一つです。

今日の挿し絵代わりの写真は長崎県の天主堂の風景です。
出典は、https://www.athome.co.jp/vox/news/town/15655/ です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)









「今、東京薬草植物園で撮ってきた花々の写真をお楽しみ下さい」

2017年08月11日 | 写真

1番目の写真はハスです。

2番目の写真はハブソウです。

3番目の写真はスギモリケイトウです。

4番目の写真はミソハギです。

5番目の写真はオミナエシです。

6番目の写真は豆の花です。

7番目の写真はカワミドリです。

孤独な生涯は不幸か?それとも幸せか?

2017年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム
先日の8月7日に『薄幸の画家たち、山内龍雄と韓国の朴壽根のはなし』という記事を掲載しました。それ以来、考え込んでいます。
薄幸の・・・という形容詞は間違いだったかも知れないと考え始めたのです。そこで今日はもう一度、山内龍雄の孤独な生涯を考えてみようと思います。
山内龍雄は1950年 北海道 厚岸町上尾幌に生まれ、北海道で21歳から独学で画を描き出します。そして2013年に釧路のアトリエで亡くなりました。
油彩画のキャンヴァスを、自分で作った道具を使って紙のようになるまで薄く削る方法を編み出し、過去に全く前例のない独自のマチエールを作り出したのです。
山内は上野の芸術大学にも学んでいません。中央の画壇とは全く無縁です。
北海道の質素な家に住み、まったく独りでキャンバスを削り、600点以上の絵画を画商の須藤 一實に託して旅立って行ったのです。生前にその作品はあまり売れませんでした。

山内龍雄は家庭を持たず、生まれ育った北海道上尾幌の野原の一軒屋でただ一人生活し、絵を描き続けました。集落から離れ、人の気配がするところでありません。
50メートル先の木の実がポツンと落ちる音が聞こえるような静寂の中に一生住んでいたのです。
こうした画家が現実に存在するということに、驚きます。
絵を描くだけに専念して他のすべてを犠牲にする生活を現代日本の人間がするでしょうか。
 開拓者としてここを切り拓いた父親が昭和20年に自ら建てた家が、彼の住まいであり、2階がアトリエになっていたのです。
昭和25年に生まれた山内は高校卒業後、郵便局に3年勤め、そこを辞めた後、釧路で数年生活し絵を描きます。その時期は画家などとの交流も多少はあったでしょうが、その後、上尾幌の家に帰り絵を描く孤独な生活を、死が訪れるまで続けたのです。
すべて独学で学び、独自のマチエールをものにして、時々、作品を発表していました。寡作で、納得のいく作品ができるまで発表することはなかったそうです。
作品の制作が始まると、彼は3時間以上の睡眠をとらないための目覚まし時計を用意し、とことん自分の世界に向き合ったのです。
夜も昼の区別もなく、ただただ制作に熱中します。
そうすると、彼が語っています、『見えてくるものがあるんだね。そこから自分の絵ができてくる時の快感は何事にも変えがたい。絵に引っ張られているんだね。しかたがないね。』
山内の制作風景を見た者はわずかしかいません。人間嫌い、として通っている彼のもとには近くの集落の人間もほとんど寄り付きません。
人が彼のアトリエを訪ねても制作中は、いくら親しい友人でもそこに入ることはできなかったのです。
生前二人で暮らしていた母親でも、アトリエの扉の前に握飯を置いて中には入らなかったのです。
生涯、彼のもっとも近くにいるのは、毎日、家の周りにやってくる蝦夷鹿や動物たちだけです。
夜になれば漆黒の闇に包まれるのです。天気の好いときは満点の星が空を飾るが、それすらも恐ろしい孤独の世界で、彼は憑りつかれたように制作に没頭するのでした。バッハの音楽を時には大音響で響かせながら。
睡眠を抑制し、空腹状態でいることが制作するときのコンディションとしては重要なことだと彼が言うのです。
そんな山内の絵画を高く評価した画商がたった一人だけ居たのです。須藤 一實です。彼は私財を投じて山内龍雄芸術館を作ったのです。
山内龍雄は人間嫌いでした。生涯、孤独を貫き600点の絵画を須藤 一實に託して死んで行ったのです。妻も子供もいません。知人や友人もいません。現在、北海道の釧路近辺では山内龍雄を憶えている人は居ないそうです。先日の8月7日の私の記事を読んだ方が、そう教えてくれました。

人間嫌いで、まったく孤独な生涯を通した山内龍雄ははたして不幸だったでしょうか?
私は彼の生涯は幸福なものだったと考え直しています。
他人が山内龍雄を愛さなくても、神が間違いなく彼を愛していました。はるか彼方の星空の向こうに住みたまう全知全能の神が山内龍雄も愛し続けているのです。

今日の挿し絵は同じような孤高の画家、田中一村の5枚の絵画です。出典は、http://bluediary2.jugem.jp/?eid=2243 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
======参考資料=================================
田中一村のプロフィール;http://bluediary2.jugem.jp/?eid=2243
1908年(明治41)年、栃木県に生まれる。幼いときから天才的なオ能を発揮し、中学(旧制)時代すでに南画家として知られる。'25(大正15)年東京美術学校入学後、3ケ月で中退。将来を嘱望されながらも中央画垣とは一線を画し、50歳の時に奄美へ移住。紬染色工として生計を立て、蓄えができたら絵を描くという生活を繰り返し、昭和52年、名瀬市有屋の借家で69歳の生涯を終えた。奄美の自然に魅了され、亜熱帯の植物や魚などを題材に日本画の、新境施を開いた。
東京美術学校で同期であった東山魁夷と田中一村のその後を比較すると、まるで鏡の裏表のような二人の姿が見えてきます。一村が染色工として働きつつ奄美の自然を描いていた頃、東山魁夷は日本芸術院の会員となり文化勲章を国から授与されています。

1番目の写真は「黄昏」昭和23年頃(1948) です。

2番目の写真は「由布岳朝靄」昭和30年(1955) です。

3番目の写真は「草花に蝶と蛾」昭和40年代 です。

4番目の写真は「榕樹に虎みゝづく」昭和40年代 です。

5番目の写真は「不喰芋と蘇鐡」昭和49年頃(1974) です。