つい先だって、平野茂樹著、「カンボジアの夕日と子供達の瞳に魅せられて」と題し、後藤和弘のブログに、光栄にも私の拙文と写真を掲載させていただいた。私の個人的な趣味であるカンボジア通いの想いの綴りを、貴重なブログに掲載させていただいた。
そのお礼に、仲間と半世紀以上、孫の代まで3代に渡って運営し続けている山小屋の50周年記念誌「わっぱ小屋」を差し上げた。その小屋は信州の白馬山麓にあり、2014年に創立50周年を迎えたのです。
その本に目を通した後藤和弘さんから、「これは一生変わらない青春の友情物語です。経済の高度成長の傍らでこんな静かな、そして美しい趣味の世界があったのです。奇跡のような物語です」というメールがあり、ブログ用にまとめてお送りくださいと言う要請を頂きました。
50周年記念誌を読んだ多くの方々から頂いた感想も、不思議なことに同じような奇跡のようなという言葉の付いた讃辞でした。
(1)1963年に始まった山小屋の概略の歴史
この半世紀のわっぱ小屋の歴史を、人の拡がりから、簡略に表現すると、次のようになります。
わっぱ小屋創設の源流となるメンバーは、女性4名、男性7名の計11名でした。この小屋建設話を聞いた男性6名が新たに初代メンバーとして加わり、計17名で船出した。この17名で建てた初代のわっぱ小屋は、屋根裏部屋付きの平屋の小屋でした。
このメンバーがそれぞれ、人生のパートナー持ち、10数年で30名を超えるメンバーとなり、将来平均して2名の子どもを持つと想像し、収容能力60名ぐらいの2代目の小屋に建て替えました。
森の中にあった2代目わっぱ小屋は、高度成長の波に乗り、周辺が白馬のスキー場群の一角となり、いつの間にか、3世代がスキーと登山などで利用できるゲレンデ内の3階建ての3代目わっぱ小屋に変身し、そして50周年を迎えたのです。
(2)山小屋建設を決心した北海道旅行
山小屋建設の源流は、卒業を来春に控えた静岡大学の男声合唱団員の7人の男性と、同じく来春卒業する東京女子美術大学の4人の女性の夏季休暇の北海道旅行での偶然の出会いから始まったと言える。
本当に偶然だったのだ。テントを担いで自炊しながら、交通機関以外は無銭旅行を行っている鍋釜担いだ薄汚い7人の山男のグループが、当時の常識では、花の東京の美的センスの良い女子美の学生で、しかもホテルに泊まりながら、優雅な旅をしている4人の女性との出会いが、偶然なくして実現するなどと言う時代ではなかった。隔世の感ありです。
しかもこの年は、数か月前まで60年安保騒動で、労働者と学生などが真剣に権力者に連日のデモ行進で立ち向かっていた時でもあった。卒業記念と言う大義がない限り、旅行などしている雰囲気ではなかったし、多少後ろめたさを感じながらの旅でもあった。
偶然の出会いは、彼女らの重大な失敗がきっかけで起った。会計係が共通資金と皆の周遊券の入った財布を観光船から羅臼港の海に落としてしまったのである。
同じバスに乗り合わせた我々は、その事情を知り、とりあえずテントを一張提供することにし、本日の我々の宿泊予定地の斜里駅で下車し、斜里駅長に東京までの帰路の切符を出してもらう交渉をすることにした。交渉で無事東京までの乗車が認められ、旅行のめどがついたので、翌日一日だけ、我々と行動を共にし、大雪山の登山を共に愉しみ、山頂で別れ、別々の旅を進めることにした。
詳しい名前も聞かず、今後の旅程も知らず、まして住所や電話番号も知らず、旅を進めていった。
ここで第2の偶然が起きた。台風の影響で青函連絡船が欠航することになり、道内の旅行者は再開まで足止めを食らうことになり、周遊券も足止めの期間分延長されることになった。
(3)東京女子美術大学生4人との奇跡的な再会
我々が札幌駅に着いた時、メンバーの一人が、偶然にも、駅の伝言板に白墨で書かれた我々宛ての伝言を見つけたのだ。
「私たち4人は、札幌市内の児童会館にいます。もしこの伝言を見たらご連絡ください」と言うものだった。
札幌で再会し、その後東京まで一緒に旅を続け、北海道旅行は東京で同時に終えることになった。もう初めから一緒に旅をしている雰囲気であった。
その後は、卒業してどんな道を歩もうと、どこに住もうと、誰と結婚していようと、いつでも望むときに集まって気楽に会える共通の山小屋を作る決心をしたのです。皆で協力して土地を買い、小屋を建設したのです。
場所は信州の白馬村神城にしました。
既に半世紀が過ぎ、現在進行形でわっぱ小屋の共同管理運営が続けられ、3世代に渡り家族ぐるみの付き合いを行っているのです。
一族でも3世代以上持続するのが難しいと言われている別荘共同運営を、大きな問題も発生せず、また大きな負担も感じず、他人同士の集団が半世紀以上も、なぜ続けているのであろうか? 源流発生の偶然は、神の創造の悪戯か?
(4)半世紀以上続いた3つの謎
この謎については、これまで仲間たちと一度たりとも真剣に話し合ったことがない。
ここからは私、平野が、今回のブログ用の文章をつくるため、この半世紀を振り返り、節々で謎に思ってきたことを拾い上げ、その答えの中から何故半世紀以上も山小屋運営がうまく行ったかの理由を考えてみたいと思う。
このブログの読者のみなさまからもご意見を頂きたいと思います。よろしくお願いいたします。
謎の1;
なぜ源流メンバーの中で結婚したカップルが誕生しなかったのであろうか?
我々が手本とした親の代の山小屋「六哺荘」の源流メンバーの間でもカップルの誕生はなかったと聞いている。加えるに、兄弟、姉妹のように仲良く付き合ってきた、30人ほどいる2世の間でもカップルは誕生ない。
謎の2;
わっぱ小屋の半世紀の歴史の中で、メンバーから離れた人、死去した人、新たに加わった人など、いろいろあるが、基本的には「去る者は追わず、来るものは拒まず」が、条件なしで守り続けられている。世間の常識では考えられないことだが。
謎の3;
現在、世間のルールに合わせるため、わっぱ小屋と言う不動産の法的な所有者は、2名の2世代表が登録されているが、わっぱ小屋って、いま誰の物であろうか? わっぱ小屋に規則や会則は必要ではないのか? 何回もそれらしきものを作成したが、使ったためしは記憶にない。
しかし、創設時から合い言葉のように言われ伝えられてきた精神のようなものが一つだけある。それは『来た時よりも美しく』の一言だけである。どのような場面で使用しようと、どこで適用しようが、構わず使っている合い言葉である。
わっぱ小屋の憲法精神のような存在だ。
以上の3つの謎が、この50年間変わらず、全てのメンバーの常識になっていたのです。
このような理由で奇跡の山小屋という言われるようになったのでしょう。
源流のメンバーは何時でも平凡で普通の山小屋と思っていて、現在もこの小屋を青春時代と同じように楽しんでいるのです。
(5)わっぱ小屋の名の由来についての付記
名付け親は、わっぱ小屋初代メンバー藤井洋の両親がつけてくれた名前です。「わっぱ」とは雪国・信州の雪上の履物「わっぱ=かんじき」のことです。いつまでも童心であれ、いつまでも仲間の輪を大切にせよ!という思いが込められています。
藤井洋の両親は軽井沢の山にある小屋「六哺荘」のメンバーであった藤井義明氏と藤井喜代さん(旧姓・高桑)でした。
1番目の写真は三代目の現在の「わっぱ小屋」です。右側に白馬五竜スキー場の一つのコースとリフトが写っています。左側は美しい山林になっていますが、初代の小屋の頃は右側も山林でした。その後、スキー場が作られたのです。
2番目の写真は創立メンバー達が小屋のベランダに勢ぞろいしている光景です。よく見ると皆高齢者です。小屋の半世紀の時の流れを感じさせます。
3番目の写真は小屋の内部の一角にある大きな薪ストーブの前でメンバーが寛いでビールを飲んでいる光景です。薪ストーブは重要なものなので充分予算を使い大きめのものを入れました。炎の揺れるのを見ながら飲むビールは格別です。
4番目の写真は白馬五竜スキー場の風景です。写真の出典は、http://hakuba-kurumi.com/blog/2013/12/ です。
麓にエスカルプラザというスキー場の基地があり、初級、中級、上級のスキーのコースがあります。スキー場の反対側には写真のように妙高、戸隠、雨飾山などの山々の風景が楽しめます。
5番目の写真はスキーのオフには高山植物園になる様子を示した写真です。
信州大学の高山実験植物園を兼ねているので、エーデルワイスなど世界各地の高山植物が栽培されています。
5番目の写真の出典は、http://garden-vision.net/garden_visit/visit_hakubagoryu_k_s.html です。
そのお礼に、仲間と半世紀以上、孫の代まで3代に渡って運営し続けている山小屋の50周年記念誌「わっぱ小屋」を差し上げた。その小屋は信州の白馬山麓にあり、2014年に創立50周年を迎えたのです。
その本に目を通した後藤和弘さんから、「これは一生変わらない青春の友情物語です。経済の高度成長の傍らでこんな静かな、そして美しい趣味の世界があったのです。奇跡のような物語です」というメールがあり、ブログ用にまとめてお送りくださいと言う要請を頂きました。
50周年記念誌を読んだ多くの方々から頂いた感想も、不思議なことに同じような奇跡のようなという言葉の付いた讃辞でした。
(1)1963年に始まった山小屋の概略の歴史
この半世紀のわっぱ小屋の歴史を、人の拡がりから、簡略に表現すると、次のようになります。
わっぱ小屋創設の源流となるメンバーは、女性4名、男性7名の計11名でした。この小屋建設話を聞いた男性6名が新たに初代メンバーとして加わり、計17名で船出した。この17名で建てた初代のわっぱ小屋は、屋根裏部屋付きの平屋の小屋でした。
このメンバーがそれぞれ、人生のパートナー持ち、10数年で30名を超えるメンバーとなり、将来平均して2名の子どもを持つと想像し、収容能力60名ぐらいの2代目の小屋に建て替えました。
森の中にあった2代目わっぱ小屋は、高度成長の波に乗り、周辺が白馬のスキー場群の一角となり、いつの間にか、3世代がスキーと登山などで利用できるゲレンデ内の3階建ての3代目わっぱ小屋に変身し、そして50周年を迎えたのです。
(2)山小屋建設を決心した北海道旅行
山小屋建設の源流は、卒業を来春に控えた静岡大学の男声合唱団員の7人の男性と、同じく来春卒業する東京女子美術大学の4人の女性の夏季休暇の北海道旅行での偶然の出会いから始まったと言える。
本当に偶然だったのだ。テントを担いで自炊しながら、交通機関以外は無銭旅行を行っている鍋釜担いだ薄汚い7人の山男のグループが、当時の常識では、花の東京の美的センスの良い女子美の学生で、しかもホテルに泊まりながら、優雅な旅をしている4人の女性との出会いが、偶然なくして実現するなどと言う時代ではなかった。隔世の感ありです。
しかもこの年は、数か月前まで60年安保騒動で、労働者と学生などが真剣に権力者に連日のデモ行進で立ち向かっていた時でもあった。卒業記念と言う大義がない限り、旅行などしている雰囲気ではなかったし、多少後ろめたさを感じながらの旅でもあった。
偶然の出会いは、彼女らの重大な失敗がきっかけで起った。会計係が共通資金と皆の周遊券の入った財布を観光船から羅臼港の海に落としてしまったのである。
同じバスに乗り合わせた我々は、その事情を知り、とりあえずテントを一張提供することにし、本日の我々の宿泊予定地の斜里駅で下車し、斜里駅長に東京までの帰路の切符を出してもらう交渉をすることにした。交渉で無事東京までの乗車が認められ、旅行のめどがついたので、翌日一日だけ、我々と行動を共にし、大雪山の登山を共に愉しみ、山頂で別れ、別々の旅を進めることにした。
詳しい名前も聞かず、今後の旅程も知らず、まして住所や電話番号も知らず、旅を進めていった。
ここで第2の偶然が起きた。台風の影響で青函連絡船が欠航することになり、道内の旅行者は再開まで足止めを食らうことになり、周遊券も足止めの期間分延長されることになった。
(3)東京女子美術大学生4人との奇跡的な再会
我々が札幌駅に着いた時、メンバーの一人が、偶然にも、駅の伝言板に白墨で書かれた我々宛ての伝言を見つけたのだ。
「私たち4人は、札幌市内の児童会館にいます。もしこの伝言を見たらご連絡ください」と言うものだった。
札幌で再会し、その後東京まで一緒に旅を続け、北海道旅行は東京で同時に終えることになった。もう初めから一緒に旅をしている雰囲気であった。
その後は、卒業してどんな道を歩もうと、どこに住もうと、誰と結婚していようと、いつでも望むときに集まって気楽に会える共通の山小屋を作る決心をしたのです。皆で協力して土地を買い、小屋を建設したのです。
場所は信州の白馬村神城にしました。
既に半世紀が過ぎ、現在進行形でわっぱ小屋の共同管理運営が続けられ、3世代に渡り家族ぐるみの付き合いを行っているのです。
一族でも3世代以上持続するのが難しいと言われている別荘共同運営を、大きな問題も発生せず、また大きな負担も感じず、他人同士の集団が半世紀以上も、なぜ続けているのであろうか? 源流発生の偶然は、神の創造の悪戯か?
(4)半世紀以上続いた3つの謎
この謎については、これまで仲間たちと一度たりとも真剣に話し合ったことがない。
ここからは私、平野が、今回のブログ用の文章をつくるため、この半世紀を振り返り、節々で謎に思ってきたことを拾い上げ、その答えの中から何故半世紀以上も山小屋運営がうまく行ったかの理由を考えてみたいと思う。
このブログの読者のみなさまからもご意見を頂きたいと思います。よろしくお願いいたします。
謎の1;
なぜ源流メンバーの中で結婚したカップルが誕生しなかったのであろうか?
我々が手本とした親の代の山小屋「六哺荘」の源流メンバーの間でもカップルの誕生はなかったと聞いている。加えるに、兄弟、姉妹のように仲良く付き合ってきた、30人ほどいる2世の間でもカップルは誕生ない。
謎の2;
わっぱ小屋の半世紀の歴史の中で、メンバーから離れた人、死去した人、新たに加わった人など、いろいろあるが、基本的には「去る者は追わず、来るものは拒まず」が、条件なしで守り続けられている。世間の常識では考えられないことだが。
謎の3;
現在、世間のルールに合わせるため、わっぱ小屋と言う不動産の法的な所有者は、2名の2世代表が登録されているが、わっぱ小屋って、いま誰の物であろうか? わっぱ小屋に規則や会則は必要ではないのか? 何回もそれらしきものを作成したが、使ったためしは記憶にない。
しかし、創設時から合い言葉のように言われ伝えられてきた精神のようなものが一つだけある。それは『来た時よりも美しく』の一言だけである。どのような場面で使用しようと、どこで適用しようが、構わず使っている合い言葉である。
わっぱ小屋の憲法精神のような存在だ。
以上の3つの謎が、この50年間変わらず、全てのメンバーの常識になっていたのです。
このような理由で奇跡の山小屋という言われるようになったのでしょう。
源流のメンバーは何時でも平凡で普通の山小屋と思っていて、現在もこの小屋を青春時代と同じように楽しんでいるのです。
(5)わっぱ小屋の名の由来についての付記
名付け親は、わっぱ小屋初代メンバー藤井洋の両親がつけてくれた名前です。「わっぱ」とは雪国・信州の雪上の履物「わっぱ=かんじき」のことです。いつまでも童心であれ、いつまでも仲間の輪を大切にせよ!という思いが込められています。
藤井洋の両親は軽井沢の山にある小屋「六哺荘」のメンバーであった藤井義明氏と藤井喜代さん(旧姓・高桑)でした。
1番目の写真は三代目の現在の「わっぱ小屋」です。右側に白馬五竜スキー場の一つのコースとリフトが写っています。左側は美しい山林になっていますが、初代の小屋の頃は右側も山林でした。その後、スキー場が作られたのです。
2番目の写真は創立メンバー達が小屋のベランダに勢ぞろいしている光景です。よく見ると皆高齢者です。小屋の半世紀の時の流れを感じさせます。
3番目の写真は小屋の内部の一角にある大きな薪ストーブの前でメンバーが寛いでビールを飲んでいる光景です。薪ストーブは重要なものなので充分予算を使い大きめのものを入れました。炎の揺れるのを見ながら飲むビールは格別です。
4番目の写真は白馬五竜スキー場の風景です。写真の出典は、http://hakuba-kurumi.com/blog/2013/12/ です。
麓にエスカルプラザというスキー場の基地があり、初級、中級、上級のスキーのコースがあります。スキー場の反対側には写真のように妙高、戸隠、雨飾山などの山々の風景が楽しめます。
5番目の写真はスキーのオフには高山植物園になる様子を示した写真です。
信州大学の高山実験植物園を兼ねているので、エーデルワイスなど世界各地の高山植物が栽培されています。
5番目の写真の出典は、http://garden-vision.net/garden_visit/visit_hakubagoryu_k_s.html です。