今日は朝から冷たい雨が降り憂鬱な気分です。こんな時はゴッホの絵画を見ると元気が出ます。私は気分が沈むとゴッホの絵を数枚見ることにしています。すると何故か勇気が湧いてくるのです。それは美しいものを見た時の感動から生まれた勇気です。嗚呼、人間はこんなにも美しいものが作れるのだという明るい気分になります。
そこで早速、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年-1890年)の絵を描かれた年代順にお送りします。
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1番目の絵画は1885年の「馬鈴薯を食べる人々」です。初期の作品で、キリスト教信者として貧しい生活の人々に寄り添った絵画でした。牧師になろうとし挫折した頃の絵です。しかしこの画風は続きませんでした。
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2番目の絵画は1888年の「ローヌ河の星月夜」です。南フランスに移っての作品です、
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3番目の絵画は同じく1888年の「夜のカフェテラス」です。
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4番目の絵画も1888年の「黄色い家」です。
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5番目の絵画は1888年の「アルルの跳ね橋」です。
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6番目の絵画は1890年の「カラスのいる麦畑」です。
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7番目の絵画は1890年の7月の鳥が低空を飛んでいる「麦畑」です。
それにしてもゴッホは孤独な男でした。結婚もせず37歳で死んだのです。
生前に売れた絵はたった1枚、『赤い葡萄畑』だけでした。不遇の生涯を送り、弟テオドールの援助でなんとか生活していたのでした。
今日示した7枚の絵画のうち6枚は死の直前の1988年から1990年に描かれました。現在世界中で称賛されているゴッホの絵画は全て死の前の2年間に描かれたのです。
それではこの孤独な男は何を考えて生きていたのでしょう?
その精神の遍歴の様子は、http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/G/Gogh/Gogh.htm にあります。抜粋をお送りいたします。
(1)牧師になろうとしたが挫折
ゴッホはオランダのプロテスタントの牧師の息子として1853年に生まれた。ゴッホ自身もキリスト教への信仰心が厚かった。
伯父のヴィンセントが経営するグーピル商会で仕事をしていた。当時、パリ、ロンドン、ハーグで絵画を扱っていた。しかし、経営者にも仕事にも幻滅し、7年後、23歳でこの仕事は辞めている。
その後イギリスへ渡り、学校で教えた。この間にゴッホは、プロテスタント主義に傾いていく。
オランダへ一旦帰り、アムステルダムの大学で聖職者になるための教育を受けようとした。しかし、実際の試験勉強では宗教と何の関わりも無い数多くの課目も勉強しなくてはならない。
落胆したゴッホはブリュッセルの福音伝道学校へ入る。しかし、ゴッホの過剰な信仰は、学校側に警戒される。
3ヶ月後、鉱夫たちの説教のため、ボリナージュ地方へ派遣される。ゴッホは人々の貧困を見て、自らも同化しようとする。しかしあまりにも行き過ぎた熱意のため解任されてしまう。
ゴッホの激しい性格は、他の人からは常に過度に映り、危険視されたのだった。
ゴッホとしては単に、キリスト者として貧しい生活を送りたい。そんなゴッホは、人間関係がうまく行く筈が無い。ここで牧師になることを断念した。
(2)ハーグに出て画家を目指し社会主義へ
ハーグでもゴッホは、一人の娼婦を救おうとして、家を提供してしまう。プロテスタント教会の伝統的なモラルから、明らかにかけ離れた生活者になってしまったのだ。
キリスト教による救済を断念したゴッホは、今度は、政治的な傾向へと向かう。実際に運動家ではなかったが、精神的には社会主義の理想へと引っ張られていった。実際、当時の社会は、社会主義が大きな勢力として台頭してきた時代であった。
パリに出ると特に、社会主義やアナキズムの賛同者が画家仲間でも多くいた。ゴッホは画家が協同制作するコミューンを夢見た。
大変な読書家だったゴッホは、ゾラ、ディケンズ、ヴィクトル・ユゴーなどの作家についても、写実主義によって貧困層の受難を描写する点で、自分と共通点があると考えていた。
オランダの画家では、聖書の場面を人間性あふれる豊かな感性ととも描いたレンブラントを賞賛し、フランス画家のオノレ・ドーミエの、民衆版画で、権威を嘲笑う手法に共感していた。
そしてミレーは、ゴッホが最も賞賛した画家だった。宗教的な主題を直接描くのではなく、働く農民に尊厳を与えるその手法は、聖書の世界に深く関わっていると考えたからである。
(3)印象派への転身と傑作の絵画を描く
1886年、ゴッホはパリの弟テオのところに同居した。初めてモネ、ルノワール、ドガ、ピサロなどを目の当たりにした。印象派の影響で、ゴッホの絵はくすんだ色彩から、一気に生き生きした色彩へと変貌した。
1888年南フランスへ行ってからは、作品は外見以上に深いものを主題として求め続け、ゴッホの心情を表現するようになり、ますます個性的になっていった。
1890年7月、オヴェールで自殺した。生前に売れた絵は1点だけだったが、その頃には既に、画家仲間から作品は知られ評価され始めた時期であった。享年37歳。
パリの北にあるオーベールにゴッホの墓と弟テオの墓が並んでいる。
ゴッホの精神の遍歴を想うと粛然とします。
しかし晩年に描かれた数々の絵画は人類の輝かしい遺産になりました。ゴッホの精神の遍歴を一切知らなくてもその深い美的感動が人々をとらえるのです。不思議です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
そこで早速、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年-1890年)の絵を描かれた年代順にお送りします。
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1番目の絵画は1885年の「馬鈴薯を食べる人々」です。初期の作品で、キリスト教信者として貧しい生活の人々に寄り添った絵画でした。牧師になろうとし挫折した頃の絵です。しかしこの画風は続きませんでした。
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3番目の絵画は同じく1888年の「夜のカフェテラス」です。
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4番目の絵画も1888年の「黄色い家」です。
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5番目の絵画は1888年の「アルルの跳ね橋」です。
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6番目の絵画は1890年の「カラスのいる麦畑」です。
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7番目の絵画は1890年の7月の鳥が低空を飛んでいる「麦畑」です。
それにしてもゴッホは孤独な男でした。結婚もせず37歳で死んだのです。
生前に売れた絵はたった1枚、『赤い葡萄畑』だけでした。不遇の生涯を送り、弟テオドールの援助でなんとか生活していたのでした。
今日示した7枚の絵画のうち6枚は死の直前の1988年から1990年に描かれました。現在世界中で称賛されているゴッホの絵画は全て死の前の2年間に描かれたのです。
それではこの孤独な男は何を考えて生きていたのでしょう?
その精神の遍歴の様子は、http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/G/Gogh/Gogh.htm にあります。抜粋をお送りいたします。
(1)牧師になろうとしたが挫折
ゴッホはオランダのプロテスタントの牧師の息子として1853年に生まれた。ゴッホ自身もキリスト教への信仰心が厚かった。
伯父のヴィンセントが経営するグーピル商会で仕事をしていた。当時、パリ、ロンドン、ハーグで絵画を扱っていた。しかし、経営者にも仕事にも幻滅し、7年後、23歳でこの仕事は辞めている。
その後イギリスへ渡り、学校で教えた。この間にゴッホは、プロテスタント主義に傾いていく。
オランダへ一旦帰り、アムステルダムの大学で聖職者になるための教育を受けようとした。しかし、実際の試験勉強では宗教と何の関わりも無い数多くの課目も勉強しなくてはならない。
落胆したゴッホはブリュッセルの福音伝道学校へ入る。しかし、ゴッホの過剰な信仰は、学校側に警戒される。
3ヶ月後、鉱夫たちの説教のため、ボリナージュ地方へ派遣される。ゴッホは人々の貧困を見て、自らも同化しようとする。しかしあまりにも行き過ぎた熱意のため解任されてしまう。
ゴッホの激しい性格は、他の人からは常に過度に映り、危険視されたのだった。
ゴッホとしては単に、キリスト者として貧しい生活を送りたい。そんなゴッホは、人間関係がうまく行く筈が無い。ここで牧師になることを断念した。
(2)ハーグに出て画家を目指し社会主義へ
ハーグでもゴッホは、一人の娼婦を救おうとして、家を提供してしまう。プロテスタント教会の伝統的なモラルから、明らかにかけ離れた生活者になってしまったのだ。
キリスト教による救済を断念したゴッホは、今度は、政治的な傾向へと向かう。実際に運動家ではなかったが、精神的には社会主義の理想へと引っ張られていった。実際、当時の社会は、社会主義が大きな勢力として台頭してきた時代であった。
パリに出ると特に、社会主義やアナキズムの賛同者が画家仲間でも多くいた。ゴッホは画家が協同制作するコミューンを夢見た。
大変な読書家だったゴッホは、ゾラ、ディケンズ、ヴィクトル・ユゴーなどの作家についても、写実主義によって貧困層の受難を描写する点で、自分と共通点があると考えていた。
オランダの画家では、聖書の場面を人間性あふれる豊かな感性ととも描いたレンブラントを賞賛し、フランス画家のオノレ・ドーミエの、民衆版画で、権威を嘲笑う手法に共感していた。
そしてミレーは、ゴッホが最も賞賛した画家だった。宗教的な主題を直接描くのではなく、働く農民に尊厳を与えるその手法は、聖書の世界に深く関わっていると考えたからである。
(3)印象派への転身と傑作の絵画を描く
1886年、ゴッホはパリの弟テオのところに同居した。初めてモネ、ルノワール、ドガ、ピサロなどを目の当たりにした。印象派の影響で、ゴッホの絵はくすんだ色彩から、一気に生き生きした色彩へと変貌した。
1888年南フランスへ行ってからは、作品は外見以上に深いものを主題として求め続け、ゴッホの心情を表現するようになり、ますます個性的になっていった。
1890年7月、オヴェールで自殺した。生前に売れた絵は1点だけだったが、その頃には既に、画家仲間から作品は知られ評価され始めた時期であった。享年37歳。
パリの北にあるオーベールにゴッホの墓と弟テオの墓が並んでいる。
ゴッホの精神の遍歴を想うと粛然とします。
しかし晩年に描かれた数々の絵画は人類の輝かしい遺産になりました。ゴッホの精神の遍歴を一切知らなくてもその深い美的感動が人々をとらえるのです。不思議です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)