昨日は「キリスト教は何故『愛の宗教』というのか?」という難しい記事を書いて疲れてしまいました。
そこで昨日の午後に国立市の桜が沢山咲いている大通りで撮って来た数多くの中からどれを掲載しようかなと楽しみながら選びました。
この大通りはJR国立駅の南口から南に真っ直ぐ延びる幅の広い道で、車道と歩道の間が広くとってあり、そこに桜が植えてあるのです。
この大通りを挟んで一橋大学のキャンパスが広がっています。それでこの道を「大学通り」とも呼んでいます。
まだ3分咲きですが、写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。
高い歩道橋を登って駅方向の写真を撮るのは毎年、家内の役目です。私は下の横道に車を一時駐車して待っています。
ここに示す5枚の写真は家内が撮ったものです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=========================
それにしても昨日の記事を短縮して、読みやすくして以下にお送りします。
「キリスト教は何故『愛の宗教』というのか?」
キリスト教は仏教とあまりにも違います。仏教と非常に違うので理解出来ません。当然、信じることも不可能です。
キリスト教が理解出来ないのは、それが愛の宗教だからです。
神が人間を愛しています。イエス様も人々を愛しています。人間は神やイエス様を愛します。
キリスト教では神やイエスや人間の絆は愛で結ばれているのです。このようなことを信じられますか?
このような考えは仏教にはまったく存在しません。仏教国の日本人に理解出来ないのは当然ではないでしょうか。
私はカトリック信者です。毎週、日曜日には教会のミサに行きます。
それでは私は神やイエス様が愛して下さっているという実感を何時も持っているのでしょうか?
答は、否!です。
しかしイエス様に愛されているという感じは時々持てます。例えばミサの中で、神父さんが「イエスの体」と言いながらパン片を私の手にくれる時に感じます。
その上、神父さんが私を信じ、大切にしてくれると、私は「イエス様が私を愛している」と感じます。
愛してくれれば、当然自分もイエス様を愛し、その教えに心を寄せます。
カトリックでは神父さんを通うしてイエス様の愛を実感するのです。神の愛を感じるのです。
愛されていると感じれば人間は相手を愛します。
これがキリスト教が「愛の宗教」と言われる理由なのです。
宗教は無理に信じてはいけません。他人に無理強いしてはいけません。自然体で考え、信じられる人が信じれば良いことです。
私は絶対にキリスト教を他人へお薦めしません。
そして私は信じて初めて「キリスト教は愛の宗教だ」という意味が理解出来たような気がします。
世の中には信じないと理解出来ないものもあるのですね。





そこで昨日の午後に国立市の桜が沢山咲いている大通りで撮って来た数多くの中からどれを掲載しようかなと楽しみながら選びました。
この大通りはJR国立駅の南口から南に真っ直ぐ延びる幅の広い道で、車道と歩道の間が広くとってあり、そこに桜が植えてあるのです。
この大通りを挟んで一橋大学のキャンパスが広がっています。それでこの道を「大学通り」とも呼んでいます。
まだ3分咲きですが、写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。
高い歩道橋を登って駅方向の写真を撮るのは毎年、家内の役目です。私は下の横道に車を一時駐車して待っています。
ここに示す5枚の写真は家内が撮ったものです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=========================
それにしても昨日の記事を短縮して、読みやすくして以下にお送りします。
「キリスト教は何故『愛の宗教』というのか?」
キリスト教は仏教とあまりにも違います。仏教と非常に違うので理解出来ません。当然、信じることも不可能です。
キリスト教が理解出来ないのは、それが愛の宗教だからです。
神が人間を愛しています。イエス様も人々を愛しています。人間は神やイエス様を愛します。
キリスト教では神やイエスや人間の絆は愛で結ばれているのです。このようなことを信じられますか?
このような考えは仏教にはまったく存在しません。仏教国の日本人に理解出来ないのは当然ではないでしょうか。
私はカトリック信者です。毎週、日曜日には教会のミサに行きます。
それでは私は神やイエス様が愛して下さっているという実感を何時も持っているのでしょうか?
答は、否!です。
しかしイエス様に愛されているという感じは時々持てます。例えばミサの中で、神父さんが「イエスの体」と言いながらパン片を私の手にくれる時に感じます。
その上、神父さんが私を信じ、大切にしてくれると、私は「イエス様が私を愛している」と感じます。
愛してくれれば、当然自分もイエス様を愛し、その教えに心を寄せます。
カトリックでは神父さんを通うしてイエス様の愛を実感するのです。神の愛を感じるのです。
愛されていると感じれば人間は相手を愛します。
これがキリスト教が「愛の宗教」と言われる理由なのです。
宗教は無理に信じてはいけません。他人に無理強いしてはいけません。自然体で考え、信じられる人が信じれば良いことです。
私は絶対にキリスト教を他人へお薦めしません。
そして私は信じて初めて「キリスト教は愛の宗教だ」という意味が理解出来たような気がします。
世の中には信じないと理解出来ないものもあるのですね。




