後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の三位一体の主日のミサを動画配信で与りました」

2020年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は三位一体の主日です。ミサを動画配信であずかりました。
日本の全てのカトリック教会はコロナ感染予防のためにミサを止めています。
しかし、hhttps://www.youtube.com/watch?v=RIutdhnFElE で東京大司教区の本部の関口教会の主日のミサの動画配信をしています。
今日も自宅で10時からの聖霊降臨のミサに動画配信で与りました。この動画配信のミサには日本中のカトリック信者のうち2万人以上が参加し祈っています。
関口教会の写真と今日のミサの写真2枚をお送りいたします。

1番目の写真は2017年3月20日に行われた東京教区の新しい神父の司祭叙階式です。

2番目の写真は今日の三位一体の主日のミサです。

3番目の写真も今日の三位一体の主日のミサです。

「クイズです、仏教は多神教?一神教?それとも哲学?」

2020年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム
この記事は昨年の6月30日に掲載した記事ですが、ご関心のある方が多く、今でも多くの方がご覧になっています。そこで再度掲載することにいたしました。
気軽にお読み頂けるようにクイズになっています。少し考えてお楽しみ下さい。
問題は、「仏教が多神教?一神教?それとも哲学?ですか?」という問題です。

仏教が好きな方々は多いと存じます。お寺さんとはご縁がなくても、仏教そのものには興味があり好きですという方々も多いと思います。
クイズ風に軽く考えていますが、真面目に仏道の修行をしている方々を軽く考えているわけではありません。
しかし少し距離を置いて仏教のことを考えてみようとする問題提起のつもりです。

まず質問に使われている三つの言葉の言葉の定義を始めにいたします。
(1)多神教;
多くの人が一つの宗教だと考えているある宗教体系の中に数多くの神や、神と類似の超越した存在を信仰している場合に、それを多神教と定義します。
神と類似の超越した存在にはいろいろありますがお釈迦さまもその一例です。
(2)一神教;
ある宗教体系の中に唯一の神か、神と類似の超越した唯一の存在を信仰している場合に、一神教と定義します。
(3)哲学;
宇宙の全ての現象の規則性、法則性を論理的に考えた全ての考え方と定義します。
仏教は物質界は空(くう)であり、空なるものこそ物質界の本質であると言って、一つの宇宙観を提唱しているので哲学の一つと定義することも可能です。
ちなみに孟子や孔子の教えは人生訓が多くて、あまり哲学的ではないようです。

このクイズの答えのヒントとして、日野市の高幡不動の写真を示します。自分で撮って来た写真です。
高幡不動は701年に始まった古刹で、関東三大不動の一つです。弘法大師の真言宗のお寺です。
高幡不動の仏教は多神教のようです。その証拠写真を順々に示します。

1番目の写真は中心柱の下に釈迦の骨があると考えられる五重塔です。中国では石造りの塔が多いようですが、日本では木造のものになりました。

2番目の写真は本尊の不動明王像を祀った本堂の写真です。不動信仰のお堂です。

3番目の写真は本堂の中で護摩を焚いている僧侶の写真です。密教の儀式ですね。多く参拝客が僧侶の後ろで一緒に祈っていました。

4番目の写真は高幡不動の一番奥にある大日堂の写真です。大日如来信仰のお堂です。

5番目の写真は弘法大師を祀った大師堂です。
高幡不動の境内の中の人々の動きも観察して来ました。
人々は真っ先に本堂に行きお賽銭をあげます。僧侶が護摩を焚き、太鼓を鳴らし、読経している本堂の中に、20人位の人々が上がり、座って読経を聞きながら祈っていました。それはご不動様への祈りです。
それが終わると奥の大日堂に行き、大日如来さまへお賽銭を上げます。
その帰路に大師堂があるので弘法大師さまへお祈りを捧げお賽銭をあげます。
その先には、釈迦の骨がある五重塔があるのですが、多くの人は素通りして帰っていきます。
私はこの様子を観察して、嗚呼、仏教は多神教なのだと納得しました。

しかし、よくよく考えるとある人は意識的にお釈迦さまだけを拝んでいる人もいる筈です。
不動明王や大日如来や大師像を礼拝しながら、それらの向こうにお釈迦さまが見えるのです。一番重要なのはお釈迦さまだけなのです。
このような信仰の内容を持った人にとっては仏教は一神教なのです。

さて仏教は哲学であると考える人々は宗教を信じない人に多いと思います。
あるいはキリスト教の人もそのように考えているようです。

ですから結論を言えば、今日のクイズの答えは、仏教は多神教、一神教、あるいは哲学のどれも正解なのです。
そのどれかが正解だという人は、仏教に対するその人自身の信仰の仕方や内容によって決まるものと思います。

最後に私自身の答を書きますと、仏教は哲学です。しかし時々、仏教を一神教的に信じている自分があります。恥ずかしい話ですが自分はキリスト教と仏教の混淆宗教なのかも知れません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)