後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「黒人を怖がる日本人と厳しい黒人差別の日本社会」

2020年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム
6月04日に私は、「黒人差別反対のデモが何故日本で起きないのか?」という記事を掲載しました。
その骨子です。
トランプ大統領が黒人差別反対デモの鎮圧に軍隊を使うと言ったことで黒人を支持するデモが全米とヨーロッパの主要な都市で行われています。まさしく欧米社会は広汎な黒人差別反対運動で揺れ動いているのです。しかし日本では黒人差別反対デモなどありません。
そこで黒人差別反対のデモが何故日本で起きないのかという問題を考えてみたいと思います。
その理由です。
1 白人と黒人の対立は19世紀の黒人奴隷制度の確立以来の歴史があるので、差別反対のデモなどでは解消しない。何もしないのが正しい態度だ。
2 アメリカやヨーロッパは日本とは異質の世界だから日本は黒人差別反対の騒ぎに巻きまれる必要はない。
日本人は以上のように考えているようです。
この記事に対する反響は非常にあり、ご意見も沢山頂きました。その中に、日本には黒人が居ないのだから余計なことは考えるな、デモなんかしてはいけないという趣旨のコメントがありました。
しかし私は日本人も人類のメンバーとしてアメリカの黒人差別には反対すべきだと思っていました。
そうしたら昨日大阪で次の通りデモがあったのです。

「黒人の命守れ」大阪でデモ行進 千人結集、「日本にも人種差別」、https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/582386
 米中西部ミネソタ州で起きた白人警察官による黒人男性暴行死事件への抗議が全米に広がる中、日本でも人種差別問題への関心を高めようと、さまざまな国籍や人種の約千人が7日、大阪市で「黒人の命を守れ」とデモ行進した。参加者からは「差別に抗議する声が世界に広がっている」「日本にも人種差別はあり、人ごとではない」との声が聞かれた。

写真は米国の黒人男性が白人警官の殺された事件を巡り、大阪でデモ行進する人たち。(6月7日午後)
 関西在住の米国人らが会員制交流サイト(SNS)を通じて呼び掛けた。参加者は「対岸の火事じゃない」などと英語や日本語で書いたプラカードを掲げ、中之島公園を出発。米国総領事館前の通りを含む約2キロを「人種差別反対」と声を上げながら行進した。(共同通信)
上の記事の中に「日本にも人種差別はあり、人ごとではない」と書いてあります。
その通りです。日本人は黒人を怖がり、嫌います。黒人を日本社会に受け入れないのです。ですからこそ、日本には黒人が居ないのです。黒人の観光客も少ないのです。
日本人は道で黒人と出会ったら内心怖がる人が多いのです。目を伏せて恐る恐る通リ過ぎます。日本には黒人の働き口が無いのです。これは厳しい黒人差別です。
これは以前のことですが、ニューヨークでのことです。ある日本人と同じホテルに泊まったことがありました。その人は昼間の路上で5回も黒人の強盗に会う経験をしたのです。 彼の言うことを聞くと彼は黒人が恐ろしく路上で会うと怖くなって顔が青くなるそうです。そうすると黒人は彼の首を掴んで、「金を出せ!」と言います。彼は用意しておいた50ドルを手渡し難を逃れます。
この話に驚きましたが私は一度も強盗に会ったことがありません。私は黒人が怖くないのです。路上で会ってもごく自然な態度ですれ違います。
あるときJR中央線の電車へ一人の黒人の男性が乗り込んで来ました。その男が椅子に座ると、その隣には日本人は座りません。周囲の日本人が珍しいものを見るように視線を送ります。これは冷酷な黒人差別です。
こんな国へ黒人は来ないのは当然ではないでしょうか?

今日はここまでにします。続編では自分の人種差別を自分で克服する方法を書きたいともいます。

「地方史発掘の趣味、埼玉県三芳町の農業遺産」

2020年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム
埼玉県に伊勢物語の「三芳野の里」にちなんだ三芳町があります。巨大なケヤキに覆われた美しい農村です。大きなケヤキの並木の風景が素晴らしいので何度もドライブに行く場所です。
樹木が大切にされている訳は「落ち葉の堆肥で農地改良」を江戸時代から連綿と続けられているからです。この300年にわたる「落ち葉農業」は珍しく農林水産省認定の日本農業遺産になっています。
私はこの美しい三芳町が好きになりその地方の歴史を調べています。

今日は三芳町の歴史をご紹介したいと思います。
まず昨日、三芳町に行って撮って来た写真をお送りいたします。

1番目の写真は三芳町を南北に走っている「いも街道」の並木です。三芳町は有名なサツマイモの産地です。

2番目の写真は日本農業遺産の「落ち葉農業」の説明板です。日本農業遺産は全国で15ほど認定されています。

3番目の写真は三芳町の中心に再現されている江戸時代の農家です。中に入り囲炉裏や座敷の様子を見ることが出来ます。

4番目の写真は三富の開拓300年の記念碑です。三芳町は江戸時代に三富と呼ばれていたのです。
さて三芳町は江戸時代の川越藩主の柳沢吉保によって開拓されます。
この地方は火山灰が降り積もって痩せた関東ローム層です。落ち葉を発酵させた堆肥を加えることで徐々に肥沃な農地に変えてきたものですこの土壌改良は現在も川越芋農家により続けられているのです。
関東ローム層は痩せているだけでなく、水はけが良過ぎて水田稲作がしにくいのです。しかし三芳町では薩摩芋の導入によって成功した農村です。サツマイモで有名になったのです。
3番目の写真の農家は薩摩芋で財をなした江戸時代の農家の島田家です。

さてこの三芳町はどのように開拓され出来上がった町なのでしょうか?
元禄7年(1694年)に、この土地は、幕府評定所の判断で川越藩の領地になりました。
これにより当時の川越藩主柳沢吉保は新田開発を推進し、開発が行われたのです。
開発が始まってから2年後の元禄9年(1696年)に検地が行われ、上富91屋敷、中富40屋敷、下富49屋敷の合計180屋敷の新しい村々が人工的に出来上がったのです。これが三富新田です。「富」の由来は「豊かな村になるように」との古代中国の孔子の教えに基づくものと言われています。
そして柳沢吉保は私の山小屋のある山梨県北杜市柳沢の出身で江戸幕府で老中になった人です。

5番目の写真は山梨県北杜市柳沢から見た甲斐駒です。ここに戦国時代から柳沢一族が住んでいました。こ柳沢吉保の出身地だったのです。
江戸時代は各藩が新田開発を盛んにした時代だったので全国各地に新しい農村が沢山出来ました。

その後の宝永元年(1704年)に柳沢吉保は先祖発祥の地、甲府藩15万石の藩主になるのです。そこでも新田開発に取組み大きな業績を上げたと言われています。
江戸時代の始めは1200万人いた日本人が江戸の中期には3300万人に増加したのは江戸幕府や各藩による新田開発によると考えられます。
このように江戸時代日本の近代化の準備段階として大変重要な時代だったのです。
郷土史を単に限られた地域に限定しないで全日本的な視野でつなぎ合わせると大変重要な発見が出来るのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)