後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「友人たちが次々と消えて行き、そして甲斐駒岳だけが残った」

2020年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
老境の悲しみは親兄弟、親戚、恩人、友人が一人、また一人と旅立って行くことです。
親兄弟や恩人、仕事仲間など我が人生を大きく支えてくれた人々との惜別は深い群青色の悲しみです。そして感謝の気持ちが豊かに湧いてきます。
そしてその一方、人生の余暇に一緒に遊んだ友人たちとの別れには、そこはかとない悲しみを感じるものです。それは淡い水色のような悲しみです。
そんな友人たちの思い出を少し書いてみたいと思います。山梨県の雑木林の中の別荘地で一緒に遊んだ人々の思い出です。

その別荘地では、25人くらいのメンバーで「柳沢清流園管理組合」というものを作りました。45年ほど前のことです。毎年、夏に総会と懇親会をして来ました。

1番目の写真は甲斐駒岳の写真です。別荘地のある場所は麓の深い森の中です。森が少し平らになっている場所です。木を伐採して別荘地にしたのです。
この別荘地ではいろいろな人と知り合いました。大工さん、庭師、会計士、会社員、ブドウ栽培家、不動産業者、そして共産党員などなどです。
大工さんの中川さんはこの地に独りで住み着いていました。別荘を数軒も建て、井戸も掘り 、小型ブルドーザーで悪路も補修して清流園の維持に大きな貢献をした人でした。
何度も彼の家に遊びに行き他愛のない話をしました。彼はたまにしか人に会えないのでいろいろな話をたて続けに話していました。
小さな別荘を作るときの苦心談が主な話題でした。彼はロマンチストだったらしく作る別荘には必ず小さなベランダのついた屋根裏部屋があるのです。露天風呂をつけた家も建てました。
新築の別荘に入れてくれて説明してくれます。2階の屋根裏部屋のベランダに出ると森の梢の上に甲斐駒岳が透けて見えるのです。八ヶ岳も少しだけ見えます。

2番目の写真は別荘地の傍の牧草地から見た八ヶ岳の写真です。
中川さんは自分の別荘の庭に大きな池を作り、鱒を育てていました。その鱒を何度か頂いてきてムニエルにしてビールを飲んだものです。
最後の年の春に会った時は、「娘が旦那と一緒にこちらに引っ越して来る」と言って、楽しみにしていました。奥さんが早く亡くなったので、娘の自慢話を何度もしていたものです。その中川さんは娘の自慢話をした直後に亡くなりました。初夏に旅立ってしまったのです。

3番目の写真は別荘地への入り口の田圃の写真です。中川さんが亡くなった直後です。初夏の田植えの頃でした、私は清流園に遊びに行って彼の訃報を知りました。

4番目の写真は別荘地へ上って行く道です。美しい雑木林の中の道です。
この清流園では、もと代々木の共産党本部で働いていた追平 さんとも知り合いました。一人で住んでいて、よく散歩をする人でした。私の庭にも何度も寄ってくれて話し込んで行きました。北海道帝国大学を出た人で、卒業後から一生、共産党本部で働いていた人です。
徳田球一さんや野坂参三さんの人間的な側面を話してくれたときは大変面白かったものです。
彼は都会育ちなのでパンが好きで近所に美味しいパン屋が無いとこぼしていたものです。 家内が東京の美味しいパンを届けたら満面笑顔になりました。彼も旅立ってしまってもう9年くらにになります。懐かしい人です。

懐かしいと言えば勝沼のブドウ農家だった中村さんも面白い人でした。狩猟が趣味で犬と共に奥深い山々に何日間も入ってイノシシや鹿を撃つそうです。しかしあまり命中しないと言います。獲物の話より山奥で野営する苦労話は面白かったのです。
その彼からブドウ酒の密造方法を教わったのです。まずバケツで多量の規格外のブドウを勝沼から買ってくるのです。
それを潰して、砂糖を加えて、広口ビンに入れて数週間発酵させます。ブドウの皮には天然の発酵菌がついているのです。水で洗っていない規格外のブドウを買って来るのが鉄則です。
時々、味見をし甘味がアルコールになったら完成です。新聞紙で濾して葡萄酒の完成です。直ぐに飲まないと発酵が進み酢になってしまいます。どういう訳か中村さんは新聞紙で濾せと言うのです。
これは密造です。別荘地にも官憲が摘発に来ますかと聞いたら、こんな悪路の奥までは来ないと笑っています。
そしてブドウの産地の勝沼では皆が自家用に作っているので、時々官憲の取締りがあると言います。しかし取締り日は近所の人が皆知っているので見つからないと言ってました。自家用なので官憲も大目に見ているのでしょう。
この中村さんは60歳を過ぎてすぐに亡くなりました。旅立ってからもう20年になります。

それから私の小屋の向かいにかなり立派な別荘を建てた大宮市の長倉さんも懐かしい人です。何度も長倉さんの別荘に行っては一緒に飲みました。気持ちがサッパリした人でした。
息子やお嫁さんが幼子をつれて私の小屋の小川で遊んでいました。その後に長倉さんが急に亡くなったのです。3年前の別荘組合の懇親会で長倉さんの孫が出席していました。大学生の青年になっていました。嗚呼、長倉さんが旅立ってからもう18年もの歳月が流れ去ったのです。

5番目の写真は私どもの質素な小屋の写真です。こんな小さな小屋でも家内と夏には何日も逗留したものです。庭先に小川が流れていて、子供たちが集まっては水遊びをしていました。ほとりに作ったテーブルで友人とビールを飲んだのも楽しい思い出です。
この質素な小屋のお陰で数多くの友人が出来たのです。
こうして柳沢清流園の人々は一人去り、また一人旅立ってしまい創立当時のメンバーは庭師の谷崎さんと私達だけになってしまいました。
しかし別荘の持ち主の二代目がメンバーになって現在も夏の懇親会には三代目の子供も含めて20人くらいが集まります。組合の役員全員も2代目の人に代替わりています。

別荘地の風景は年年歳歳同じようですが、人々は変わって行きます。
気がついてみると、友人たちが次々と消えて行き、そして甲斐駒岳だけが残ったのです。昔一緒に遊んだ人がみな消えてしまいました。甲斐駒岳だけが何事も無かったように静かに見下ろしています。すべては邯鄲の夢です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「花の好きだった山里のおばさんの思い出」

2020年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は花の好きだった山里のおばさんの思い出を書きたいと思います。楽しい思い出です。
1973年に山梨の山林の中に小屋を作った頃に大変お世話になったおばさんのことです。花が好きで冬以外は庭の花や門の外の道端にも花々を絶やさない小母さんでした。
ご主人は種卵専門の養鶏をしていました。普通の卵の2、3倍大きい種卵を何度も貰い、山小屋の朝食が豊かになり楽しかったものです。栽培した椎茸や野生の胡桃なども頂き、幼かった子供たちが珍しがって大喜びしました。

満州からの引き上げの苦労にも拘わらず明るく親切な夫婦でした。
それから、しばらくして訪ねると、小母さんが独りいて、「主人はこんなふうになりました」と新しい仏壇を指さします。
あんなに明るくて元気な彼が死んでしまうとは。言葉に詰まってしまいました。
息子が1人いて当時は東京で建設重機の運転をしているといっていました。

あれから茫々35年の2008年に久しぶりに寄ってみました。当時、重機の運転をしていて、会ったことの無い息子が出て来て、小母さんは元気だが、定期検査で留守だという。昔話をしてから写真を撮らせてもらいました。
相変わらず庭には花が絶えない。梅も櫻も、そして棚の藤も散った後でしたが、ジャーマンアイリス、オオデマリ、デージー、ボタンなどが咲き誇っています。
「小母さんが居るとき、又来ます」と言って帰ってきました。そして時が流れ2019年の4月にまた行きました。門が鎖で厳重に閉まっていて人の気配がありません。今年の春にも行きました。鎖で厳重に縛ってある門の向こうには花の無い庭が荒れた様子です。
あの花好きだったおばさんも旅立ったのでしょう。2008年に息子さんに会ったのが最後になりました。

花の好きだった山里のおばさんを思い出すたびに、山小屋での楽しかった場面が走馬灯の絵のように蘇ってきます。
私ども夫婦の心の中にはあの養鶏をしていたおじさんも、花の好きなおばさんも活き活きとしています。
ここに示す5枚の写真は2008年に撮った花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)