後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「半夏生の花と宮戸島のお化けの話」

2022年07月02日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は半夏生(はんげしょう)の日の始まりでした。
半夏生とは、夏至から数えて11日目となる7月2日頃から、七夕(7月7日)に至るまでの5日間のことです。 2022年の場合は、7月2日(土)から7月6日(水)が半夏生となります。
また半夏生は植物の名前です。開花時期は 7月1 日から7月20日頃まで咲くドクダミ科の植物です。上の方の葉っぱが白ペンキをべったり塗ったように 白くなる不思議な植物です。何故かお化けを連想させる怖い植物です。写真を示します。 






お化けを連想させる怖い植物なので怖い言い伝えがあります。 
 資料の、https://shikitari.net/shikitari/event/annual-event/2142/ から一つだけご紹介します。
三重県には、「ハンゲ」という名の妖怪が畑に出るため夕方からは外を歩かないようにと言います。またはこの時期は畑に行かないようになどの言い伝えがあります。
その他、食べ物や恐怖伝説など各地に数多くの言い伝えがありましたね。
しかし怖い話だけではなく不思議な言い伝えもあります。 
福井県の大野では、その時期に農作業をこなす忙しい農家などの疲労を気遣い、藩主が「鯖」を食べるように勧めていたといいます。
このことから現在でも福井県には半夏生の時に、焼きサバを丸1匹家族で食べる習慣が残されているそうです。
兎に角、半夏生はお化けの親類のようです。お化けと言えば私は宮城県の宮戸島のお寺に泊まった夜に見ました。

5番目の写真は宮戸島の大高森という山の頂上から見た松島の風景です。私も何度も大高森に登り松島の風景を楽しんだものでした。
写真の出典は、https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu900005/ です。
標高105.8メートルの大高森には視界を遮るものが何もなく、松島湾全体を気持ち良く見晴らせました。宮戸島には何度も行きました。懐かしい島です。
私の母方の祖父、佐川喜蔵がこの島の小学校の校長をしていました。
私が生まれる前に死んだので会ったことはありません。大酒飲みで酔うと松島から泳いで宮戸島へ帰って来たそうです。大酒飲みでしたが生徒を非常に可愛がる校長でした。その教え子の家を親類のようにして私ども一家は室浜に海水浴に行ったり嵯峨渓を舟で案内してもらったりしていました。
宮戸島で泊まる所は室浜の他もう一箇所ありました。祖父の佐川喜蔵 が下宿をしていた曹洞宗の観音寺です。
6番目の写真は宮戸島の高台にある観音寺です。写真の出典は下記です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA_(%E6%9D%B1%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E5%B8%82)
このお寺に泊まったある夏の夜の丑三つ時に本堂で誰か太鼓をドンドンと打っているのです。母屋に寝ていた私は吃驚して跳び起き廊下に出ました。すると太鼓の音が消えます。廊下のガラス戸を少し開けて回りを見ました。漆黒の闇です。そして遠方の山の中腹を5つ程の提灯の火がゆらゆらと歩いていくのです。葬列のように歩いて行くのです。
胆を冷やした私は和尚を起こしてこの話をしました。和尚は驚きもせず、「明日はお葬式があるな」と呟いて寝てしまいました。
死んだ人がお化けになって太鼓を叩き和尚さんへお葬式を頼みに来たのです。
観音寺には何度も泊まりましたが本堂の太鼓がドンドンとなったのはこの一回だけでした。その後お葬式が無かったのです。
旧制の仙台二高に行っていた叔父も本堂の太鼓の音を何度か聞いたそうです。次の日にはお葬式があったというのです。
また夏の日がめぐって来たせいで宮戸島のお化けのことを思い出しましたました。

今日は半夏生という植物を紹介し宮戸島で遭遇したお化けの話を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「カボチャとキュウリの花の写真です」

2022年07月02日 | 写真
カボチャとキュウリの花の写真です。
1番目の写真と2番目の写真はカボチャです。
3番目の写真と4番目の写真はキュウリです。
写真は「カボチャの花の写真」と「キュウリの花の写真」を検索して、インターネットからお借りしました。





「激動の昭和を生きて(1)真珠湾攻撃と同時に東南アジアを占領」

2022年07月02日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和は日本の歴史上一番激しい激動の時代でした。私は昭和11年、1936年に生まれたので少年の頃この激動の時代を体験しました。
そこで今日から「激動の昭和を生きて」と題する連載を書いていきたいと思います。
1941年の12月8日に日本軍は真珠湾を奇襲攻撃し、アメリカの誇る太平洋艦隊を攻撃しました。それと同時に東南アジアの諸国を占領してしまったのです。両方は同時進行でした。これが日本の歴史上一番激しい激動の始まりでした。
「真珠湾」「真珠湾」と何度もマスコミに出ているので、それを見た多くの人は、開戦と同時に、英国領だった香港、シンガポール、マレーシア、ビルマなどを日本軍が武力占領したことを忘れてしまっています。
そしてオランダ領のインドネシア、ボルネオも占領し、アメリカ領のフィリピンでは激戦をしてマッカーサーをオーストラリアに敗走させたのです。
日本はアメリカだけでなくイギリス、オランダを相手に大規模な太平洋戦争を始めたのです。
なおフランス領だったベトナム、ラオス、カンボジアは真珠湾攻撃の前年に占領してしまっていたのです。
太平洋戦争の開戦は真珠湾攻撃だけでは無かったのです。同時にアジア諸国に戦争を拡大したのです。
ここでこの戦争の様子を示す写真をお送りいたします。
1番目と7番目の写真以外の残りの写真は下記の優れた歴史資料から転載いたしました。
1番目の写真は1941年12月8日の真珠湾攻撃で炎上するアメリカの太平洋艦隊です。 
2番目の写真はインドネシアのパレンバン石油基地攻略に向かう落下傘部隊です。
3番目の写真はパレンバン石油基地攻略の落下傘部隊 の降下後の地上戦です。
4番目の写真はインドネシアの北部のバンカ海での海戦で日本の海軍航空隊(マレー部隊) が英艦艇を攻撃している様子です。
5番目の写真はインドネシアのバタビア(現ジャカルタ)市街地をゆく日本軍戦車 です。
6番目の写真はインドネシアのバタビア(現ジャカルタ)で手を挙げて投稿するオランダ軍 です。

7番目の写真は日本軍の占領地の最大の頃の1942年の地図です。出典は、https://www.petitmonte.com/politics_economy_life/nihon_saidaihanto.html です。 

写真のような戦争がどのように進んで行ったかを簡略に示しておきます。
まず日本が何故真珠湾攻撃したか、その経緯を下に示します。
1937年(昭和12年)7月7日に始まった日中戦争(支那事変)によって、日本は満州事変以来の日本の中国占領を急速に進めていました。これを警戒する英米仏と日本の関係は急速に悪化したのです。
そしてアメリカ合衆国は航空機用燃料・鉄鋼資源の対日輸出を制限し、日本の締め上げたのです。それでも日本は中国から撤退しません。
それどころか日本は、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦を始めたドイツ・イタリアと1940年に日独伊三国軍事同盟を締結します。
そしてドイツに協力的なフランスの政権と合意し、仏領インドシナへ進駐したのです。怒ったアメリカは石油輸出全面禁止などの経済封鎖でこれに答えます。
その後数度にわたる日米交渉も難航し、アメリカは1941年(昭和16年)11月26日、ハル・ノートを日本側に提出します。これを最後通牒と理解した日本は、12月1日の御前会議で日米交渉の打ち切りと日米開戦を決定したのです。
12月8日、択捉島からハワイ真珠湾へ向けて出撃していた大日本帝国海軍連合艦隊は真珠湾攻撃をしました。

この開戦後の東南アジアの武力占領の経緯は末尾の参考資料で説明しました。

私は真珠湾攻撃と同時にアジアの諸国での米・英・オランダとの凄惨な戦いを忘れません。アジアの国々を戦争に巻き込んで多数の犠牲者が出したのです。
そして緒戦の大勝利の後、日本軍は負け戦になったのです。大きな暗転でした。南の島々では日本軍の将兵が玉砕していったのです。
日本軍が軍事占領した中国大陸では何千万人の中国人が犠牲者になったのです。何という大きな悲劇だったのでしょう。
真珠湾だけでなく、アジア全域での戦争拡大だった のです。

昭和は日本の歴史上一番激しい激動の時代でした。私は昭和11年、1936年に生まれなのでこの激動の時代を体験したのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料======================
開戦後の東南アジアの武力占領の経緯
12月8日に日本は英米に宣戦布告しました。太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦です。
真珠湾攻撃と同時に、日本軍は、英領マレー半島のコタバル、タイ南部のパタニとシンゴラ(ソンクラ)に上陸(マレー作戦の開始)します。同時に広東省から英領香港攻撃開始(香港の戦い)を始めました。
すると中華民国国民政府は日独伊に対して宣戦布告をしたのです。
そして米領フィリピン上空で航空戦(フィリピンの戦いの開始)が起きます。
その後の経過は以下のとうりです。
12月10日 マレー沖海戦。グアムの戦い。日本軍、ルソン島北部(アパリ、ビガン)上陸。グアム、タラワ、マキン占領。
オランダ、日本に宣戦布告。
12月11日 日本軍、ウェーク島攻略失敗(ウェーク島の戦い)。
12月12日 日本軍、香港九龍市を制圧、英軍は香港島へ逃走。
12月15日 日本軍、ペナン島占領。
12月16日 日本軍、マレー半島アロールスター占領。
12月16日 日本軍、北ボルネオ(コタキナバル)に上陸。
12月16日 戦艦「大和」が竣工。
12月20日 日本軍、フィリピンミンダナオ島ダバオに上陸。
12月21日 日本政府、タイと攻守同盟を締結(日泰同盟)。
12月23日 日本軍、ウェーク島占領。
12月25日 日本軍、香港島を制圧、香港のイギリス軍降伏。

1942年(昭和17年)になると、
1月2日 日本軍、ルソン島マニラを無血占領。
1月8日 連合軍、タイ攻撃開始。
1月11日 日本軍、マレー半島クアラルンプールを落下傘部隊で占領。
日本、オランダに宣戦布告。
1月15日 日本軍、英領ビルマ(現ミャンマー)攻撃部隊がタイに集結。
1月23日 日本軍、ニューブリテン島ラバウル占領。
1月24日 バリクパパン沖海戦。
1月25日 タイ、英米に宣戦布告。日本軍、バリクパパン占領。
1月27日 エンドウ沖海戦。
1月31日 日本軍、タイからビルマ侵攻開始。マレー半島ジョホールバル占領。
2月1日 日本軍、シンガポールの石油施設を砲撃。米機動部隊、マーシャル諸島来襲。
2月4日 ジャワ沖海戦。
2月7日 日本軍、シンガポール北東のウビン島に牽制上陸。
2月8日 日本軍、シンガポール北西海岸より上陸(シンガポールの戦い)。
2月14日 日本軍、蘭領東インド(現インドネシア)スマトラ島パレンバンを落下傘部隊で占領。
2月15日 シンガポールの英豪軍が降伏。
以下省略します。