人間は老境になると昔のことが非常に懐かしくなるようです。家内が昔のことより現在や将来のことを考えたらとよく言います。
しかし昔の懐かしいものについて今日も書きたいと思います。懐かしい台所、真空管ラジオ、蒸気機関車、市電、小さな連絡船、青函連絡船、などです。まずこれらの写真を示しましょう。

1番目の写真は昭和時代の台所です。昭和11年に生まれた私の祖父の兵庫県のお寺の台所はこのようでした。懐かしいです。一方、私の自宅は仙台市にありましたので台所は近代的でした。

2番目の写真は真空管のラジオの裏側です。高校生の頃の趣味は真空管のラジオを作ることでした。最後に写真のようなスーパーヘテロダインを作りました。大きな電蓄も作ったもです。

3番目の写真は私が中年になるまで東北本線を走っていた蒸気機関車に引かれた列車です。新幹線が東北本線を走るようになったのは最近のことです。しかし兵庫に行く東海道本線は戦前から特急「つばめ号」は電気機関車でした。

4番目の写真は仙台を走っていた市電です。高度成長の頃に撤去され姿を消しました。24歳でアメリカ留学で仙台を離れるまでよく乗ったものです。

5番目の写真は塩釜の連絡船の乗り場です。連絡船は松島、桂島や宮戸島へ行きます。連絡船に乗って松島、桂島や宮戸島へよく遊びに行きました。

6番目の写真は函館行きの最終便です。青函連絡船「八甲田丸」の工藤民雄船長ら乗組員が最終便の儀式の場面です。(1988年03月13日)
これらの写真で示したものはみんなこの世から消えてしまったのです。私の記憶の中だけ残っているだけです。それにしても昭和は遠くなったものです。
消えてしまいましたが今でも懐かしく思い出すものを列挙してみます。
釜戸(竈)、七輪、井戸と釣瓶(つるべ)ポンプ、炬燵にちゃぶ台、お茶の間と茶箪笥、鉱石ラジオ、真空管ラジオ、手回し蓄音機、レコードに電蓄、蒸気機関車、市電に都電、焼玉エンジンの小さな連絡船、青函連絡船、などなどです。
これが完全に消えたのは1980年代の経済の高度成長の頃だったのです。
皆様は昔のことが非常に懐かしくなりませんでしょうか。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)
===追記==========================
仙台にまつわる懐かしい歴史的な5つのエピソード
(1)ベーブ・ルースが来たエピソード
昭和9年11月9日にベーブ・ルースやルー・ゲーリックをまじえた米大リーグ選抜チームが仙台に来ました。仙台の青葉城の後に広がる八木山球場で全日本チームと試合をしたのです。
ルースは日本に来て初めて一試合で2本のホームランを打ったほか、ゲーリックなどもホームランを打ちました。試合は7対0でアメリカチームの勝です。
ベーブルースがホームランを打った八木山球場があった場所は現在、仙台市立動物園になっています。
(2)仙臺味噌と四代目八木久兵衛のエピソード
仙台味噌は米麹と大豆を使い風味豊かな赤味噌です。
江戸時代には仙台藩の御用で製造していましたが現在は宮城県一円で製造され、東京のスーパーでも簡単に入手出来ます。私の家は仙台味噌を使い続けています。
そもそも仙台味噌は、仙台藩の味噌御用を勤めていた真壁屋市衛門が寛永3年(1626年)に現在の仙台市の国分町に、「仙台味噌」の看板を上げたのが始まりと言われています。
明治政府によって仙台藩は解体され、仙台味噌も消えて行く運命にありました。それを救ってくれたのが八木久兵衛という人でした。
この八木久兵衛のお陰で仙台味噌は現在に至るまで醸造が続きます。
(3)仙台が見知らぬ町になってしまったエピソード
仙台は伊達政宗が1600年前後に築いた城下町です。青葉城の大手門から真っ直ぐ東へ伸びる通りは広瀬川の大橋を渡ったところから、東端の現在の仙台駅までを大町通りと言います。
その大町通りの途中を直角に奥州街道が横切っていて、その四つ角を「芭蕉の辻」といいます。賑やかな商店街でした。
しかし、大正、昭和と時が流れるに従って「東一番丁」が繁華街となったのです。「東一番丁」に三越百貨店と藤崎百貨店が出来、仙台一の商店街になりました。私の育った頃はこの「東一番丁」とそれと交叉する「大町通り」へよく遊びに行ったものです。
仙台を出て東京に暮らすようになって60余年。甘い追憶の中のふるさと、仙台を探す旅に度々行きました。仙台は見知らぬ白い街になっていました。以前は同級生や知り合いに、二人三人と、偶然会ったものでした。みんな何処かへ行ってしまったようです。
(4)仙台の七夕祭りにまつわるエピソード
故郷の仙台の七夕祭りは毎年の8月6日、7日、8日と開催されます。懐かしい夏祭りで、私は夏の間折にふれ思い出します。
毎年、幼少の頃から七夕飾りを見に行った東一番丁や大町通りの光景を思い出すのです。
結婚して東京に住むようになってからも毎年、家内や子供連れで仙台の七夕を見に帰りました。父母が健在だったあいだは毎年仙台に帰省していました。
ですから七夕飾りは私の故郷の光景として心の中に焼き付いています。
(5)仙台の亜炭にまつわるエピソード
私の住んでいたところは向山という地区でした。向山は仙台の中心街が見下ろせる景色の良い所なのです。その高台には東洋館、鹿落温泉旅館、いかり亭、蛇の目寿司、広瀬寮、観月亭、黒門下の湯などが散在していました。長徳寺や大満寺や愛宕神社もありました。
その向山には亜炭を掘り出す横穴がいくつもあったのです。亜炭は仙台の家々で毎日使う燃料でした。仙台には亜炭の独特な煙の臭いが漂っていたものです。
亜炭は石炭になる前の炭化した木材で、仙台などで当時掘りだされていたのです。
燃料にするだけでなく埋木細工を作ってお盆や皿や飾りものにして仙台名物のお土産として売っていたのです。埋木細工をする職人の仕事が格子窓を通して見えました。