後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「懐かしい台所、真空管ラジオ、蒸気機関車、市電、小さな連絡船、青函連絡船、など」

2022年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は老境になると昔のことが非常に懐かしくなるようです。家内が昔のことより現在や将来のことを考えたらとよく言います。
しかし昔の懐かしいものについて今日も書きたいと思います。懐かしい台所、真空管ラジオ、蒸気機関車、市電、小さな連絡船、青函連絡船、などです。まずこれらの写真を示しましょう。
1番目の写真は昭和時代の台所です。昭和11年に生まれた私の祖父の兵庫県のお寺の台所はこのようでした。懐かしいです。一方、私の自宅は仙台市にありましたので台所は近代的でした。
2番目の写真は真空管のラジオの裏側です。高校生の頃の趣味は真空管のラジオを作ることでした。最後に写真のようなスーパーヘテロダインを作りました。大きな電蓄も作ったもです。
3番目の写真は私が中年になるまで東北本線を走っていた蒸気機関車に引かれた列車です。新幹線が東北本線を走るようになったのは最近のことです。しかし兵庫に行く東海道本線は戦前から特急「つばめ号」は電気機関車でした。
4番目の写真は仙台を走っていた市電です。高度成長の頃に撤去され姿を消しました。24歳でアメリカ留学で仙台を離れるまでよく乗ったものです。
5番目の写真は塩釜の連絡船の乗り場です。連絡船は松島、桂島や宮戸島へ行きます。連絡船に乗って松島、桂島や宮戸島へよく遊びに行きました。

6番目の写真は函館行きの最終便です。青函連絡船「八甲田丸」の工藤民雄船長ら乗組員が最終便の儀式の場面です。(1988年03月13日)

これらの写真で示したものはみんなこの世から消えてしまったのです。私の記憶の中だけ残っているだけです。それにしても昭和は遠くなったものです。
消えてしまいましたが今でも懐かしく思い出すものを列挙してみます。
釜戸(竈)、七輪、井戸と釣瓶(つるべ)ポンプ、炬燵にちゃぶ台、お茶の間と茶箪笥、鉱石ラジオ、真空管ラジオ、手回し蓄音機、レコードに電蓄、蒸気機関車、市電に都電、焼玉エンジンの小さな連絡船、青函連絡船、などなどです。
これが完全に消えたのは1980年代の経済の高度成長の頃だったのです。
皆様は昔のことが非常に懐かしくなりませんでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。  後藤和弘(藤山杜人)
===追記==========================
仙台にまつわる懐かしい歴史的な5つのエピソード

(1)ベーブ・ルースが来たエピソード
昭和9年11月9日にベーブ・ルースやルー・ゲーリックをまじえた米大リーグ選抜チームが仙台に来ました。仙台の青葉城の後に広がる八木山球場で全日本チームと試合をしたのです。
ルースは日本に来て初めて一試合で2本のホームランを打ったほか、ゲーリックなどもホームランを打ちました。試合は7対0でアメリカチームの勝です。
ベーブルースがホームランを打った八木山球場があった場所は現在、仙台市立動物園になっています。

(2)仙臺味噌と四代目八木久兵衛のエピソード
仙台味噌は米麹と大豆を使い風味豊かな赤味噌です。
江戸時代には仙台藩の御用で製造していましたが現在は宮城県一円で製造され、東京のスーパーでも簡単に入手出来ます。私の家は仙台味噌を使い続けています。
そもそも仙台味噌は、仙台藩の味噌御用を勤めていた真壁屋市衛門が寛永3年(1626年)に現在の仙台市の国分町に、「仙台味噌」の看板を上げたのが始まりと言われています。
明治政府によって仙台藩は解体され、仙台味噌も消えて行く運命にありました。それを救ってくれたのが八木久兵衛という人でした。
この八木久兵衛のお陰で仙台味噌は現在に至るまで醸造が続きます。

(3)仙台が見知らぬ町になってしまったエピソード
仙台は伊達政宗が1600年前後に築いた城下町です。青葉城の大手門から真っ直ぐ東へ伸びる通りは広瀬川の大橋を渡ったところから、東端の現在の仙台駅までを大町通りと言います。
その大町通りの途中を直角に奥州街道が横切っていて、その四つ角を「芭蕉の辻」といいます。賑やかな商店街でした。
しかし、大正、昭和と時が流れるに従って「東一番丁」が繁華街となったのです。「東一番丁」に三越百貨店と藤崎百貨店が出来、仙台一の商店街になりました。私の育った頃はこの「東一番丁」とそれと交叉する「大町通り」へよく遊びに行ったものです。
仙台を出て東京に暮らすようになって60余年。甘い追憶の中のふるさと、仙台を探す旅に度々行きました。仙台は見知らぬ白い街になっていました。以前は同級生や知り合いに、二人三人と、偶然会ったものでした。みんな何処かへ行ってしまったようです。

(4)仙台の七夕祭りにまつわるエピソード
故郷の仙台の七夕祭りは毎年の8月6日、7日、8日と開催されます。懐かしい夏祭りで、私は夏の間折にふれ思い出します。
毎年、幼少の頃から七夕飾りを見に行った東一番丁や大町通りの光景を思い出すのです。
結婚して東京に住むようになってからも毎年、家内や子供連れで仙台の七夕を見に帰りました。父母が健在だったあいだは毎年仙台に帰省していました。
ですから七夕飾りは私の故郷の光景として心の中に焼き付いています。

(5)仙台の亜炭にまつわるエピソード
私の住んでいたところは向山という地区でした。向山は仙台の中心街が見下ろせる景色の良い所なのです。その高台には東洋館、鹿落温泉旅館、いかり亭、蛇の目寿司、広瀬寮、観月亭、黒門下の湯などが散在していました。長徳寺や大満寺や愛宕神社もありました。
その向山には亜炭を掘り出す横穴がいくつもあったのです。亜炭は仙台の家々で毎日使う燃料でした。仙台には亜炭の独特な煙の臭いが漂っていたものです。
亜炭は石炭になる前の炭化した木材で、仙台などで当時掘りだされていたのです。
燃料にするだけでなく埋木細工を作ってお盆や皿や飾りものにして仙台名物のお土産として売っていたのです。埋木細工をする職人の仕事が格子窓を通して見えました。 

「私の故郷を写真と動画 でご紹介します」

2022年07月18日 | 写真
インターネットには全ての情報があります。

そこで我が故郷の仙台の写真と風景の動画をご紹介いしたいと思います。

仙台の風景の動画は下記をクリックすると出て来ます。

https://www.youtube.com/watch?v=ofgDe5pXlzc
https://www.youtube.com/watch?v=gTekhca3fTA
https://www.youtube.com/watch?v=4M5UyqOX8_g
https://www.youtube.com/watch?v=pJPHnRCSBp8

最後の動画は私が昭和11年に生まれ昭和35年まで住んでいた向山の風景です。向山は鹿落坂を登った場所にありました。懐かしい所です。





「土用の丑の日、ライン河のウナギの蒲焼きと観光船の思い出」

2022年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム
今年の土用の丑の日は7月23日の土曜日です。毎年この頃になるとライン河の鰻の蒲焼と観光船のパーティのことを思い出します。
あれは1969年の秋でした。南ドイツのシュツットガルトにあったマックス・プランク研究所で働いていた頃のことです。
ある日、デパートの鮮魚売り場に行ったところ、水槽にマスやドイツ鯉を沢山泳がせて売っています。足元のバケツには太いウナギがうごめいています。パッとひらめきました。鰻の蒲焼を自分で作る決心をしたのです。
一番太いウナギを買いながら、何処で獲れたか聞きました。ライン河だそうです。流れのよどんだところに仕掛けを沈めておくと獲れるとそうです。

1番目の写真は日本の鰻の写真です。ドイツで買ったウナギと同じでした。
写真の出典は、https://www.lettuceclub.net/news/article/191690/ です。
ドイツではウナギは一般には棒状の燻製にして売っています。ハンブルグでは筒切にしたウナギ入りのスープを飲んだこともあります。
しかし生きたまま売っているのは珍しいことです。活きウナギを買って蒲焼を作ることを決心しました。活きウナギを買って意気揚々と帰宅しました。
しかし蒲焼など作ったことがありません。自宅の台所で2枚におろし、3角形の中骨を切り離し、何とかウナギを開いた形の切り身にしました。
さて次の段階は「蒸し」です。鍋に少し水を入れ、皿に並べた切り身を蒸し上げました。
次は醤油、砂糖、日本酒のタレをつけてオーブンで焼きます。途中、何度もタレを塗り直して、コンガリ焼き上げます。

2番目の写真はウナギを割いて作ったうな重の写真です。こんな蒲焼きをイメージしながらオーブンで焼きました。この写真の出典も、https://www.lettuceclub.net/news/article/191690/ です。

オーブンで焼いていると家中がウナギの蒲焼の美味しそうな香がします。これで出来上がりです。
招待した日本人の青年に自慢げに供しました。味の深いドイツビールとともに。一口、食べた彼が興奮しています。でも無言です。
美味しくて感動しているに違いないと、「どうです。美味しいでしょう」と言いながら私も食べてみました。
兎に角すごく不味いのです。生臭くて嫌な泥の味がするのです。
客の青年が泥臭いウナギを礼儀上、食べていたのです。私は謝りました。冷蔵庫の中のチーズとソーセージと上等なワインを持ち出して来て、お客の機嫌が直るように努力したのです。あんなに冷や汗をかいたことがありません。
結論は、ライン河の活きウナギを清い水で数日飼って、泥の臭いを除いてから食べるべきだったので。後日、買ったデパートの鮮魚売り場に行って、「泥臭かったよ」と言いました。そうしたらドイツではお客が自分で泥を抜くものだと昂然と言うのです。食文化の違いです。

さてライン河の思い出にはもう一つ船上のワインパーティの楽しかったことがあります。まずライン河の風景を見ましょう。

3番目の写真はライン河中流の風景です。中世風の古い町並みの後ろの山には一面にブドウ畑が広がっています。個人経営のワイン製造も盛んなところです。水は濁りに濁り、滔々と流れ行きます。3番目と4番目のライン河の写真の出典は、「 ドイツ ・ ライン川クルーズで見える古城と風景 」、http://blogs.yahoo.co.jp/tommy_poppo/7199351.html です。

4番目の写真は船上パーティに使った船と同じような観光船が手前に写っている写真です。観光船が2隻写っています。

あれは1978年でした。当時、日本とドイツの鉄鋼製錬の研究者が「日独鉄鋼セミナー」を開催したことがありました。
その折にドイツ側が小型の観光船を貸し切って日独の参加者をライン下りに招待してくれたのです。
左右の古城を見上げながらワインを飲む会でした。ドイツ人がワインの味のいろいろな違いを教えてくれました。重い味。フルーティで軽い味。ドライな味、べたべたした味。甘すぎる味。そしてモーゼルワインとラインワインやネッカーワインの違いなどを教えてくれました。酔うほどに彼らが肩をくんで唄い出したのは何とも暗い歌なのです。あとで聞くと高校の寮歌だそうです。
ワインを注ぎ回るのが民族衣装を着た娘さん達です。

6番目の写真はいろいろな民族衣装を着たドイツの娘さん達の写真です。
この写真の出典は、https://sekach.com/dirndl/ です。
彼女達はブドウ農家の子供たちだそうです。アルバイトにこのような観光船でのワインパーティで働いているのです。その素朴な感じが周囲の風景をともに忘れられません。

ライン河にまつわる思い出はもっといろいろありますが、今日はこのくらいにしておきます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)