後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「激動の昭和を生きて(4)第二次世界大戦の世界各国の莫大な犠牲者数」

2022年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム
自分が生まれ育った昭和時代を考える場合、私は第二次世界大戦の莫大な犠牲者数を忘れることが出来ません。それは日本民族の最大の悲劇であり二度と繰り返すべきではありません。世界の人類の悲劇でした。
下の国別の犠牲者数の表をご覧下さい。この一覧表は一番正確な犠牲者数として外国のインターネットでよく引用されています。

この一覧表を注意深く見ると日本ではあまり知られていない事実が沢山あるのです。
気が付いた順に記します。
(1)日本の占領地のフィリピンとインドネシアで民間人の死者がそれぞれ最大、100万人と150万人だったのです。
(2)日本領だった朝鮮の人が兵士や軍属として最大47万人以上死にました。
(3)インド人は英国兵として87000人死にましたが、民間人も250万人死にました。
(4)中国人は400万人の兵士が死に民間人を含めた合計が2000万人となっております。これが世界の常識になっています。
(5)ドイツに占領されたソ連では合計2400万人の人が死にました。
(6)日本人はあまり知りませんが犠牲者の多かった国々は次の通りです。
ブルガリア、チェコソロバキア、フィンランド、ギリシャ、ハンガリー、ラトビア、リトアニア、オランダ(インドネシアに居た人も含む)、ポーランド、ルーマニアなどです。
これらの国々の幾つかはドイツ側に立って戦争をしたのです。
(7)全世界の総合計です。兵士の死者は15,00万人で民間人の死者は45,00万人でした。総合すると全世界で6000万人の人が死んだのです。

下に第二次世界大戦の国別の犠牲者数の表を示します。
この一覧表では1、国の名前、2、軍人と兵士の死者数、3、民間人を含めた死者数の合計の3項目が順に示したあります。
(https://www.nationalww2museum.org/students-teachers/student-resources/research-starters/research-starters-worldwide-deaths-world-war )

Japan、日本
 212万人
 260万人ー310万人

Korea(朝鮮出身の日本兵や軍属)
  38万人-47万人

Canada カナダ
 45,400
 45,400

China、中国
 3-4,000,000
 20,000,000

インドネシア
 --
 3-4,000,000

France、フランス
 217,600
 567,600

仏領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)
 --
 1-1,500,000

Germany、ドイツ
 553万人
 660万人-880万人

India、インド
 87,000
 1,500,000-2,500,000

Italy、イタリー
 301,4003
 457,000

Malaya、マレー半島
--
 100,000

Philippines、フィリピン
 57,000
 50万人-100万人

Poland、ポーランド
 240,000
 5,600,000

Soviet Union、ソ連
 8,800,000-10,700,000
 2400万人

United Kingdom(イギリス)
 383,600
 450,700

United States(アメリカ)
 416,800
 418,500

全世界の総合計、6000万人の死者
内訳、 Battle Deaths、15,000,000
    Battle Wounded、25,000,000
    Civilian Deaths(民間人の死者)、45,000,000

脚注;Worldwide casualty estimates vary widely in several sources.
The number of civilian deaths in China alone might well be more than 50,000,000.

そして第二次大戦後、責任を取って自殺したドイツの民間人の数は直後の4日間だけでさえ;ベルリンで1200人、ライプチッヒで600人、ハンブルグで450人、ケルンで300人が自殺したと新聞に出ていたそうです。4日間だけでの総計が2550人です。それに比較して日本では愛宕山にこもった民間人10人位とその他に僅かと言われています。
さらにシベリア抑留でドイツ兵が55万人死に、日本人は5万人死んだのです。

昭和時代の人類は狂気のように殺しあったのです。国家対国家の大規模な戦争によって殺しあったのです。
その昭和時代の太平洋戦争の為に海外で亡くなった240万人の犠牲者のうちまだ113万5千人の遺骨が日本へ帰って来ていないのです。
父や夫や息子や家族を戦争で失った遺族にとっては太平洋戦争は終わっていないのです。113万5千柱の遺骨が還らぬ限り太平洋戦争は終わっていないのです。

昭和という時代は以上のような戦争の時代でした。それと対照的に終戦直後から日本は明るい時代になったのです。
しかし今回、ロシアがウクライナに侵攻して大規模な戦争になっています。世界に戦争の恐怖を甦らさせています。第二次世界大戦のような戦乱が絶対に起きないように祈っています。

今日の挿し絵代わりの写真は第二次世界大戦の風景です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は1939年9月、ポーランド侵攻時のブィドゴシュチュ付近におけるドイツのI号戦車 です。

2番目の写真はワルシャワを守るポーランド兵士(1939年9月)です。 

3番目の写真はフランスに進駐したイギリス陸軍(1939年10月)です。 

4番目の写真はイランに攻め入るイギリス陸軍の戦車(1941年8月)です。



「あちこちの百合園の写真をお楽しみください」

2022年07月08日 | 写真
百合園の写真をお楽しみください。
写真の出典は、https://rtrp.jp/articles/108679/ です。

4枚の写真は順々に以下のとうりです。
1,南くりこま高原 一迫ゆり園 / 宮城県
2, 深谷グリーンパーク / 埼玉県
3,びわこ箱館山ゆり園 / 滋賀県
4,オーンズ春香山ゆり園 / 北海道


 



「追憶の夏の風物詩(2)消えてしまった蚊帳と蚊取り線香」

2022年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム
現在、私の身の回りには蚊帳と蚊取り線香はありません。昔は夏の暮らしで大切なものでした。夏の必需品でした。
今日は追憶の中の夏の風物詩として蚊帳と蚊取り線香のことを書いてみたいと思います。
蚊帳は平安時代から日本で使われていました。江戸時代には庶民にも広がり、「夏の風物詩」になりました。夏の季語として俳句に登場していました。1965年ごろまで日本中で使われていたのです。
一方、蚊取り線香は現在でも野外作業で使われています。しかし懐かしい「除虫菊の煙のにおい」がしないのです。現在は合成した化学製品なので独特の香りがしないのです。
蚊取り線香の形は現在でも昔のままの渦巻きの形をしています。色も昔と同じです。しかし懐かしい「除虫菊の煙の匂い」がしないのです。
それではまず、蚊帳(かや)の写真3枚と、蚊取り線香の写真と、蚊取り線香を入れてくゆらす陶製の豚の写真を示します。

1番目の写真の出典は、http://www.ranhaku.com/web01/c5/5_02kaya.html です。

2番目の写真の出典は、https://roomclip.jp/tag/25889 です。

3番目の写真の出典は、https://www.city.fujimi.saitama.jp/madoguchi_shisetsu/02shisetsu/shiryoukan/nanbatajo/exhibitions/natu-kaya.html です。

4番目の写真の出典は、https://flower.yodoyabashift.com/katorisenko.html です。

5番目の写真の出典は、https://wasumasyo.com/archives/2334 です。

さて蚊帳とは、夏に蚊などの小さな虫の侵入を防ぐための布、帷 (とばり)のことです。
麻などの目の粗い布を寝室の天井や長押(なげし)から紐などを使って垂らして使います。紀元前6世紀の中東で始まり、中国を経由して我が国に入り、奈良や近江などを中心に生産され、日本独自の進化を遂げたと言われています。
江戸時代には庶民にも使われ、次のような俳句もあります。

 むら雨や ほろ蚊帳の子に 風とどく (小林一茶)

そして近年の短歌もあります。

 蚊帳のなかに 放ちし蛍 夕されば おのれ光りて 飛びそめにけり (斎藤茂吉)

蚊帳は家の中にもう一つの家を作ったようで子供が面白がるのです。私も蚊帳で遊びました。時々は庭で捕ったホタルを蚊帳の中に放して遊んだものです。それは蚊帳の楽しい思い出です。
その蚊帳が1965年ごろ突然消えてしまったのです。アルミサッシと網戸の普及で蚊が家の中に入ってこなくなったのです。

一方、昔の蚊取り線香は乾燥した除虫菊の粉を練って渦巻き状に成型したものでした。
白い花の除虫菊は日本へ1886年(明治19年)に渡来しました。東京衛生試験所薬草園で栽培しました。この除虫菊が蚊や蚤の駆除に効果をあげたのです。そして除虫菊で作った蚊取り線香が日本中に普及したのです。
菊が原料なので燃やした煙が良い香りがするのです。薬草の苦いような匂いに花の甘い香りが混じった独特な匂いです。あの懐かしい匂いは他には絶対に無いのです。
数年前に懐かしくて蚊取り線香を買って来ました。火をつけると淡い煙が出ます。しかし匂いはビニールを燃やした時のような不快なものです。あの懐かしい蚊取り線香の煙の匂いではありません。

こうして子供の頃から慣れ親しんできた蚊帳も蚊取り線香の煙の匂いも此の世から消えてしまったのです。
そんな懐かしい物が他にも沢山あります。火鉢やちゃぶ台や昔風のラジオや小さな茶箪笥などです。

時代によって生活が変わるのです。時代によって人びとも変わるのです。
消えてしまったものは沢山あります。時代の流れで無に帰するのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)