後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日は桐の花の写真をお楽しみ下さい」

2022年07月27日 | 写真
今日は桐の花の写真をお楽しむ下さい。
桐の 原産地は中国です。
写真の出典は、https://kurashi-no.jp/I0020239 です。
花言葉は「高尚」です。
花言葉は中国の神話から来ています。伝説上の「鳳凰」は桐の木にだけ止まるのです。ですから桐は神聖な木です。このことから花言葉は「高尚」なのです。




「戦前のプロ野球の若林忠志選手の思い出と少年の頃の友人達」

2022年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前のプロ野球、阪神の若林忠志選手の思い出と少年の頃の友人達のことを書いてみたいと思います。若林選手は「七色の変化球」(ストレート、カーブ、シュート、スライダー、シンカー、ドロップ、ナックル) で有名でした。1936年に阪神に入団したハワイ生まれの日系二世でした。
私が小学3年生の時の終戦後、仙台市の向山小学校の校庭で野球の指導を受けました。
終戦後、若林選手は仙台の霊屋下の私の友人の家に寄寓していました。その友人の本間君が向山小学校の校庭に連れて来たのです。
彼はホームベースの打席に立って我々相手にノックをして丁寧に指導しました。優しく声をかけてくれました。
若林選手の大きく重い皮製のグローブが珍しく感動した記憶が残っています。当時は皮製のグローブは高嶺の花だったのです。

1番目の写真は阪神時代の若林忠志選手です。
若林選手の指導は一回だけでした。その後、彼は石巻の奥さんの実家へ引っ越して仙台から去ってしまったのです。若林選手の指導を受けたのに私はその後野球は上手になりませんでした。生まれつきの運痴なのです。
そんな事があった当時の私の友人たちの思い出を書きます。

この部分については数日、逡巡していました。こんな私的なことをブログに書くべきでないかと。しかし書くことにしました。
若くして仙台を出てアメリカへ留学した私は一別以来、友人たちとは会っていません。

まず萩生田啓一君へ私の疎遠をお詫びします。君の家にはしょっちゅう遊びに行き優しい母上に随分とお世話になりました。北海道炭鉱に勤めていた父上にも親切にして貰いました。お霊屋下の奥の方に家があり近所に住んでいた宮内
量君ともよく一緒に遊んだものです。
君が大学卒後、七十七銀行に入り、その得意先まわりの折に私の大学の実験室を訪ねてくれたことがありました。新しい職場に張り切っている様子でした。それが君に会った最後になりました。性格の優しい君に会えると期待しつつ10年前に開催された同窓会に行きました。君は旅立っていました。

内海範夫君。君は長身で知的な少年でした。今回の大津波で流された宮城県の名取市の閖上港町から汽車通学していたので心配していました。君の友人に聞きました。石巻日赤病院に医者として定年まで勤めていたそうですね。定年後、実家のあった閖上港町に帰って暫くして病気で亡くなったそうですね。ですから大津波が来る前だったのです。幸いだったのかも知れませんが何故か悲しいです。

有路敏夫君。君の家は愛宕神社の山の中腹にありました。何度も遊びに行きましたね。君は小柄な体に機敏そうな顔をしていました。よく走り回って遊んでいましたね。勉強は苦手だったようですがいつも数多くの友人が君の周りにいました。友達のめんどう見が良かったです。何故か君のパーソナリティーが魅力的だったのです。多くの人が君の事を懐かしそうに話してくれました。

我孫子遜君。美声でよくイタリア歌曲を歌って聞かせてくれましたね。満州からの引き揚げで、都会的な雰囲気をまき散らしていました。
大学を卒業してからすぐに東京で一緒に飲みましたが、その後、君が証券会社で忙しくなり会えなくなりました。そして若くして病死したのです。その頃のことをよく知っている友人が同窓会で君の華やかな活躍ぶりを話してくれました。それにしても若すぎる死でした。君は実に印象深い人でした。

村木良彦君。きみは10年ほど前に亡くなり東京の増上寺でお葬式があり私も参列しました。
テレビマンユニオンを創り、テレビの有名な旅番組を沢山つくりましたね。
仙台時代は君の東八番町の家によく遊びに行きました。肺を病んでいた上品な母親がいましたね。中学校と高校では一緒に演劇部でよく遊んだものです。君はその後東京大学に入りました。そのころ訪ねて行った私へ大井町駅のそばでトンカツをご馳走してくれました。仙台はまだ貧しい時代だったのでトンカツなど食べたことも無なかったのです。あの美味しさを忘れません。それにしてもテレビ界では有名なプロデューサーとして活躍しましたね。このブログでも君の追悼文を4年前に掲載しましたよ。

早坂清作君。君は喧嘩が強かったですね。その君が何時も非力な私を守ってくれました。どういう訳か君は僕の保護者のようになってくれていました。貧しい時代で、世の中は殺伐としていました。学校でも喧嘩が絶えませんでした。現在のよう陰湿ないじめはありませんでしたが鉄拳がものを言う時代でした。
そんな学校で喧嘩の強い君が守ってくれたおかげで大変心強かったです。そのお礼を何時か言おうと思っていたら、君は既に旅立ってしまったのです。
早坂清作君、私を守ってくれて有り難う。そのことは一生忘れない。

その他いろいろ友だちが沢山いましたが、この辺で止めます。

今日は既に亡くなってしまった昔の友人たちの冥福をお祈りいたします。後藤和弘

そして今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 

ついでに掲載した4枚の写真は昔の友だちと遊んだ青葉城や経ケ峰や霊屋下の風景です。
2番目の写真は青葉城からの仙台市の中心街です。
3番目の写真は伊達政宗に霊廟がある経ケ峰です。広瀬川が蛇行しています。
4番目の写真は経ケ峰の麓にある霊屋下という町です。広瀬川が霊屋下という町を囲んで流れています。

5番目の写真は霊屋下橋です。伊達政宗の霊廟がある経ケ峰への橋なので欄干に石の灯篭が並んでいます。